拾伍 『胡蝶の夢』
結局、中森警部たちは怪盗キッドを捕まえ損ねたらしく、かなり悔しそうに地団駄を踏んでいた。あと一歩のところで届かなかったというコナンも然り。喜んでいるのは、キッドを間近で見ることのできた園子くらいのものだろう。
朔はといえば、先ほどの廊下での出来事が目に焼き付いて忘れられず、警察の解散命令を聞いている最中もぼんやりしていた。耳に入ってはいるが、右から左に筒抜けのような状態である。途中コナンに声を掛けられ、上の空の返答をしてしまったため怪訝そうに見られたのだが、その疑うような視線すらも朔は気づくことはなかった。
盗一に渡されたキッドカードは、朔のポケットに折れないように入っている。そのことは決して誰にも言わず、またカードについて誰にも尋ねられることはなかった。
そのため、カードの裏に待ち合わせ場所であろう店の名前と時間が書いてあったことを知るのは、朔のみである。
***
待ち合わせに指定された店は、朔は実際に訪れたことは無かったが数度耳にしたことがある店だった。
米花町から電車で数分程度の町、江古田町。そこの割と大通りに面した通りで、朔はそわそわと落ち着きなさそうに信号待ちをしていた。両手はポケットに突っ込み、信号が変わるのを今か今かと待っている。ポケットの中から右手を出し、その手に握られていたスマートフォンで現在の時刻を確認した。十六時、十分前。待ち合わせの時刻まで残り四十分と言ったところだろうか。
「間に合うかな、これ」
何とも形容しがたい微妙な顔をして朔は呟いた。
そのうち信号が変わり、塞き止められていた人々が一斉に流れ出す。朔もそのひとりだ。小走りに信号を渡り切り、大通りに沿って進んでいく。平日とはいえ大通りのためか人通りは激しい。
しばらく進んだところで、一本細い道に入った。道というよりは店と店の間の狭く薄暗い隙間、と形容したほうが正しいだろう。あちこちに煙草の吸殻が落ちており、空き缶やレジ袋なんかも転がっている。それらを軽々避けながら朔は先へ進んでいく。
そこをようやく抜けると、少し広い通りに出た。閑静な住宅街で人っ子ひとりいやしない。地図アプリを駆使し、場所を確認しながら辺りを見回す。
「この辺りのはずなんだけど……」
辺りを注意深く見回しながら歩き始める。先ほどスマートフォンで時間を確認したところ、待ち合わせまであと三十分ほどであった。近くまで来ているからとはいえ、油断はできない。特に店のコンセプト上、見つけるのにどれくらいかかるか……。朔は穴が開きそうな勢いで周囲を観察する。
「『隠れ家的な雰囲気を出したい』からって、店全体に『人の目を避ける』術をかけるとか大胆だよなあ」
隠れすぎても客が来なくて大変だろうに、と独り言を零す朔。
ふと、朔は足を止めた。そのまま後ろ歩きで数歩戻り、左側の建物を見る。
そこにあった建物はまるで映画の中にでも出てきそうな建物だった。
レンガ造りの壁。その壁のあちこちにツタ状の植物が絡みつき、独特の雰囲気を放っている。壁に四つほどあるドーム型の窓からは中を確認することは出来ない。深みのある木製の茶色いドアには『OPEN』と書かれたドアプレートが下げられていた。ドアプレートに書かれた店名は――
「『胡蝶の夢』……ここだ」
無事に店を見つけられた安心感からか、ふうと息をついた。少し黒ずんだ金のドアノブを引いてドアを開ける。古い木材が擦れる音がして扉は開き、朔は店内に足を踏み入れた。
店内も外観と同様に独特な雰囲気を放っている。入って奥の方にはカウンターがあり、カウンターの奥の棚には各地のコーヒー豆が壁を埋め尽くすようにずらりと並んでいた。右手側には四人ほど座れそうなテーブル席がふたつあり、柔らかい色合いのテーブルや椅子が仲良く並んでいる。頭上はオレンジの温かい光を灯すランプが吊るされ、壁にはメニューボードと思しきプレートがかかっていた。あちこちに少し古びた外国のポスターも貼ってある。
ポアロとはまた違った雰囲気でいいなと思いながら店内を観察していた朔はあることに気が付いた。営業中にも関わらず、店内に誰も居ないのだ。客はおろか、店員までも見当たらない。あの人のことだ、もしかしたら奥に引っ込んでいて俺が来たことに気づいていないのかもしれない、そう思い声をかけようとした、その時。
――ドスン! ガシャンッ! ガラガラガラガラ……
何かが落ちて散らばるような、けたたましい音がして朔は思わずびくりと肩を震わせた。音がしたのはおそらくカウンターの向こうにある扉の奥、バックヤードだろう。何かあったのかと朔は慌ててそこに向かう。
「大丈夫ですか!?」
扉を開けて大声で声をかける。部屋の中は見事に物が散乱していた。様々な食材に、調味料、重そうな本まで落ちている。どうやらさっきの音はこれらが散らばった音のようだ。片付けが大変そうだとぼんやり思っていると、散乱した物たちの下でごそりと何かが動く気配。慌てて朔はその気配がするあたりの物をどけてやる。ある程度どけたところで、下に埋まっていたその人はゆっくりと上半身を起こした。
「いたた……」
埋もれていたのはどうやら女性のようだ。
栗毛色のふわふわとした髪をゆるく三つ編みにして肩にたらしていて、少し毛玉のついた淡い色のカーディガンとゆったりとしたロングスカートを着用している。軽くぶつけてしまったらしく、自身の頭をそっとさすっていた。
「えと……大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよぅ、よくあることですから〜」
しゃがみこんで心配そうにのぞき込む朔に、へにゃっと笑って答える女性。そののんびりとした口調と相まって、なんだか和んでしまいそうになる。
「いや〜どうも、ありがとうございま……誰?」
「助けてもらって第一声がそれか」
きょとんとした顔の女性を見て、呆れたように朔は笑った。
***
「まさか、朔くんだったとは……帽子かぶってたから全然気づかなかったよ〜」
これ助けてもらったお礼、と言って目の前にコーヒーカップが差し出された。軽く礼を言って朔は受け取る。コーヒーのいい香りがふわりと辺りを満たしてゆく。カウンターの向こうの彼女はそれにしても、と言って朔の頭を撫でた。久しぶりの感覚に、朔は照れくさそうに笑う。
「大きくなったねぇ」
「いやいや、俺はそんな……。俺が獄卒になる前だから……確か千年くらい前にあの世で会ったっきりでしたよね」
「ありゃ、もうそんなに経つっけ? 時間が過ぎるのは早いね〜」
「そうですね……栞さんも相変わらずお綺麗で安心しました」
「うふふ、見ない間に口まで上手くなったねぇ。そういうところはお父さん似かな?」
「…………あいつのことは言わないでください」
「そういうところも変わらないねぇ〜」
苦虫を噛み潰したような顔をして帽子を被りなおす朔を見て、ふふふと楽しそうにカウンターの向こうの彼女は笑った。
朔の目の前にいる彼女――栞は、この店『喫茶 胡蝶の夢』のマスターであり、そして朔の古い知り合いでもある。
実は彼女、人間の父と野狐の母を持ついわゆる半妖の妖狐であり、こう見えても朔よりかなり年上なのだ。妖狐と言っても自分自身が化けるのは苦手なようで、この人間姿と狐姿にしか化けられないんだとか。その代わりに妖術の腕はピカイチである。
彼女は元々あの世で暮らしていたが、千年ほど前に現世に移り住み、それ以来ずっと現世で暮らしている。色々あって、この世に住む妖怪のためにこの店を開いたのが五百年ほど前。それから長く店を続けているうちにいつの間にかちらほら現世の人も訪れるようになり、"あの世とこの世の境界線”と評される喫茶店になったのだ。因みに、今の客層は大体あの世の住人とこの世の住人が半々ぐらいなんだという。
勿論この店の話はあの世でも有名で、現世に旅行に行った際にわざわざ訪れる者もいるほどだ。
「初めて来ましたけど、雰囲気良いですね。すごく落ち着く」
「そう言ってもらえると嬉しいなぁ。"あの世とこの世を繋ぐ喫茶店"を目指してる身としては、人も妖怪もくつろげるような空間づくりはかなりこだわったからねぇ〜」
相槌を打ちながら朔はコーヒーカップに口を付けた。一口含んで、少し驚いたようにまばたきをひとつ。
「栞さん。もしかしてこれ、何か特別なものとか入れてます?」
懐かしい味がする。そう続けた朔に栞はぱっと嬉しそうな表情を見せた。
「さっすが朔くん! 実はねぇ、そのコーヒーはあの世の人……特に地獄の人にだけ出してる特別製でねぇ」
「特別製……何が入ってるんです?」
「豆自体は普通と変わらないけど、仕上げに地獄直送干しイモリのパウダーをたっぷり」
「通います」
真剣な顔で即決した朔に栞はありがとうと言って柔らかく笑ってみせた。
***
「仕事のほうは順調?」
「まあまあ、ですかね」
苦笑する朔。その様子を見て栞はそれもそっか、と言った。
「浮遊霊回収だなんて大変そうだもんねぇ。それも現世に住み込みでなんて」
「あれ? 俺、栞さんに現世勤務になったこと言いましたっけ?」
「朔くんからは聞いてないけど、噂でなら聞いたよ〜 『"あの世一の雑用係"、閻魔大王第一補佐官鬼灯の令により新設部署に配属』ってね」
大人気だねぇ、と栞は言いながらコーヒーのおかわりを差し出す。朔はそれをありがたく受け取った。
「それにね、噂で聞く前に鬼灯さんから直接連絡もあったよ」
「鬼灯さんから?」
新しいコーヒーに口をつけようとしたところで思わず朔は手を止めて栞の方を見た。
あの鬼灯さんが栞さんに直接連絡? なんでわざわざ。そんなことを思ったのか、目を丸くしている朔を見て、栞はふっと笑った。
「『朔さんは優秀な獄卒とはいえ、現世に長期滞在した経験はほとんど無いと言っていい。彼を信頼していないわけではありませんが、もし何かあれば彼に是非手を貸してやってください。地獄からなかなか離れられない私より、現世住まいの栞さんのほうが迅速に対応できるでしょうから』ってね」
「!」
その言葉を聞いて朔は思わず固まった。それと同時に、なんだかくすぐったい気持ちになる。知らない間にいろんな人に支えられていたのかと思わぬところで実感してしまったのだ。急激に顔が熱くなるのを感じる。
そんな朔を見た栞はのんびりとした口調でだからねぇ、と続けた。
「何かあったらいつでも頼って欲しいな〜 君よりは長く生きてる分、知恵は貸せると思うから」
ね、と笑う栞。その優しい笑顔を直視することが出来ない。朔は小さく、その時はよろしくお願いしますと言って顔を俯かせることしか出来なかった。柔らかい笑みを浮かべながら栞はそういえば、と話題を切り替える。
「朔くん、誰かと待ち合わせでもしてるの?」
「え、そうですけど……どうしてわかったんです?」
「さっきから時間気にしてるし、たまに後ろ振り返ってるから」
「なるほど」
納得したような顔をしてから、当たりです、と言って朔は笑った。
「今ちょうど待ち合わせの時間なので、もうすぐ来るかなとは思うんですが……」
スマートフォンで時間を確認したのとほぼ同時に入店を知らせるドアベルが鳴った。
来たかと視線を向ければ、そこに立っていたのは予想に反して高校生くらいの少年と少女である。ふわふわとした癖毛が特徴的な学ランを着た少年は、人懐っこい笑顔を浮かべてひらりと右手をあげた。
「よ! 栞さん」
「快斗くん! それに青子ちゃんも! いらっしゃい〜」
「こんにちは栞さん!」
セーラー服を着た少女――青子はにっこり笑って栞に挨拶した。少年――快斗はというと、店内を見回して呆れたようにぼやく。
「相変わらず客がいねーな、この店は」
「余計なお世話だよぅ。ふたりともいつものでいい?」
「はい、お願いします」
「おっけ〜 すぐ準備するから待ってて!」
ぱたぱたと注文の用意をし始める栞。対する快斗と青子は空いてるテーブル席に向かい合うようにして座った。そして楽し気に談笑をし始める。その一連の流れを見ていた朔は、テーブル席の方を見ながらカウンターの向こうの栞に話しかけた。
「知り合いなんですか? あの子たち」
「まあね〜 ふたりともうちの常連さんなんだ」
ふふと笑って栞はふたりの話を朔に話し始めた。
学ランを着た少年は快斗と言い、ここの近くの江古田高校に通う高校二年生なんだそうだ。マジックが得意で、かなりいたずら好きな性格の持ち主らしい。
セーラー服の少女は同じく江古田高校二年生の青子。ふたりは昔からの幼馴染なんだとか。時々喧嘩をしたりもするらしいが、大体は仲良しだという。栞からの話を聞いている最中も、ずっとふたりは楽しそうに会話をしていた。
「昔からの幼馴染かあ。見ていてなんだかほのぼのしますね」
「ふたりは昔からああでしてね。小さいころからよく一緒に遊んだりしていたんですよ」
「へえ、そうなんで、す……――」
いつの間にか隣に座っていた人が会話に加わったので、すいと朔は視線を隣に向ける。その姿を見て思わず固まってしまった。
整えられた黒髪、紳士的な雰囲気を放つ口髭、余裕ありげに微笑む表情。そこにいたのは紛れもなく――
「くっ……黒羽盗い――むぐぐ」
思わず叫びそうになった朔の口を慌てて盗一が塞ぐ。困ったように眉を下げて笑い、もう片方の手の人差し指だけを立てて自身の口元に当て、しーっと静かに息を漏らす。
大きく頷き肯定の旨を示すことで、ようやくその手を外して貰うことが出来た。