弐拾伍 鬼の霍乱とはまさに



 目が覚めた瞬間、なんだかおかしいと朔は自らの身体に違和感を感じた。喉はざらざらするし、咳が出て息苦しいし、頭は熱を持ったようにぼうっとする。
 まさかと思いながらベッドから這うように起き、熱を測ると案の定。

「三十八度九分……」

 完全に風邪だった。ため息をつくとその拍子にごほ、と咳が出る。
 まさか現世に来てまで風邪をひくとは思わなかった……というのが朔の率直な感想だ。身体は元々強いほうだったから、地獄で暮らしていた時も滅多に体調を崩すことなんてなかったのに。それこそ百年……いや、二百年近くぶりの高熱である。

 ひとまずバイト先に連絡せねばと、朔は携帯を手に取った。今日一日と、念のため明日まで休みの連絡を入れることにする。バイト先の上司は皆口々に朔の体調を気遣い、心配する言葉をかけてくれた。梓に至ってはお見舞いに行こうかとまで言い出す。だが朔は丁重に断った。鬼の病気が現世の人間にうつった場合どうなるかなんて想像がつかなかったためである。梓の残念そうな声を電話越しに聞いて、朔は小さく胸を痛めた。

 ひとしきり連絡を終えて、薬でも飲もうと朔は思い立つ。だが部屋中をひっくり返す勢いで探しても、薬なんてどこにも見当たらなかった。それもそうだろう。最後に体調を崩したのが何百年も前のことなのだ。この部屋に薬が無くてもおかしくはない。仕方なく再び朔は携帯を操作した。馴染みの漢方薬局の番号を探し、通話ボタンをタップする。
 数コール後、電話のスピーカー越しに温厚な声が聞こえてきた。

『はい、お電話ありがとうございます。こちら、うさぎ漢方極楽満月です』
「桃太郎さん? 俺です、朔です」
『ああ、朔さん! お久しぶりです。今日はどうされました?』
「あの……鬼用の風邪薬を至急、現世米花町まで届けて欲しいんですけど……」
『鬼用の風邪薬って……朔さん、風邪ひいたんですか? 珍しい』
「そうなんですよ。滅多に体調なんか崩さないから、薬こっちに持ってきてなくて」
『なるほど、そういうことでしたか。わかりました。準備出来次第そちらに持っていきますから、安静にしていてください』
「ありがとうございます、助かります」

 電話を切り、くしゃみをひとつ。そしてぶるりと身体を震わせた。悪寒までしてきたようである。
 とりあえず愛用のニット帽を被ったり上着を着たりして身体を温めようと試みる。一通り着込めば、悪寒はなんとか我慢できそうなくらいには落ち着いてきた。
 安静にしていろという言葉に従って朔はころりとベッドに横になる。そうしていつの間にか眠ってしまった。


***


 ふと、呼び鈴の音で目を覚ます。
 何かの勧誘だろうかと身体を持ち上げたところで、薬を届けに来てもらうと桃太郎が言っていたことを思いだした。よろりと立ち上がり、玄関まで覚束ない足取りでたどり着く。そしてろくに確認もしないまま、部屋の扉を開けた。

「来ちゃった」
「帰れ」

 満面の笑みを浮かべて玄関口に立つ南風を視界に捉えるや、問答無用で扉を閉めようとする朔。その顔はこの世の物とは思えないほど嫌悪感に満ちていた。
 だが南風も負けじと、扉を閉じるのを阻止している。

「開けた瞬間にそれって酷くない?」
「いいから帰れ」
「私、白澤さんから薬持ってきたんだけど、要らないのかなー?」

 その言葉を聞いて朔は扉を閉めようとする手を止めた。南風はじゃーんと口で効果音を付けながら、顔の横に添えるように薬袋を朔に見せつける。その袋には『うさぎ漢方 極楽満月』の文字と今日の日付が書かれていた。
 一瞬思案した後、観念したように朔は扉を開く。

「お邪魔しまーす」

 部屋に足を踏み入れ、靴を脱いだところで一瞬にして南風は凩へ姿を変えた。朔は多少ふらつきながらソファに腰かける。その様子を見て凩は薬をテーブルに置きながら呆れたように言った。

「随分酷いみたいだな」
「……まあな」
「熱は」
「お前が来る前に一度測ったら三十八度九分だった」
「こりゃ相当だ」

 肩をすくめながら凩は言った。朔はごほごほと咳込み言葉を途切れさせる。凩は薬の他に持っていたレジ袋をテーブルの上に置き、中身をテキパキと取り出し始めた。スポーツドリンク数本、ゼリーにプリン、ヨーグルト、額に貼る保冷シート。

「どうせお前のことだから何も買ってないだろうと思って買ってきたんだ」
「……こういう時だけは気が利くんだな化け狐」
「お褒めの言葉、ありがたく頂戴いたします」

 ほれ額出せと凩が言うと、朔は素直に前髪を持ち上げる。ぺたりと張り付けた瞬間朔は小さくひいっと声を漏らした。

「冷たい……」
「こういうもんだからな」

 保冷シートを張り終え、朔は持ち上げていた前髪を戻す。ひょいとスポーツドリンクを凩が渡すと、朔は素直に受け取って飲み始めた。

「今日起きてからなんか食ったか?」

 朔はペットボトルに口を付けたまま首を横に振る。それを見た凩は袋から取り出していたものを朔の前に見えるように並べた。

「じゃあ薬の前に何か食わなきゃな。何が食いたい」

 凩の問いかけに、ペットボトルのキャップを閉めながら朔は呟く。

「脳吸い鳥の温泉卵が食べたい……」
「そんな血なまぐさいモン、風邪治してから好きなだけ食えよ」
「凩……」
「そんな顔してもお父さんは買って来ませんからね。もうお前、めんどくさいからこれでも食ってろ」

 軽く嫌気がさしたらしい凩はテーブルの上に並んだ食べ物の内から適当にプリンを選んで朔の方へすいと寄せた。ご丁寧にスプーンまでつけて。朔は渋々それを受け取り、蓋を剥がしてのそのそと食べ始めた。食べ終わったのを確認すると、薬袋から一回分の薬を取り出す。

「飲めるか」
「バカにすんじゃねえよ……」

 ほんのり充血した目で凩を睨み、朔は薬を服用する。

「後は薬が効き始めるのを待つだけだな。とりあえず安静にしてろ」
「ああ……」

 そのままソファに横になろうとする朔を凩がベッドまで連れて行こうとしたその時、ピンポーンと来客を告げる呼び鈴が部屋に鳴り響いた。ちょっと待ってろとモニターを確認しに行った凩が来客者の特徴を端的に伝える。

「なんか小学生くらいのガキが四人いるけど」
「あー……」

 朔の元を訪ねてくる小学生くらいの子どもたちなんて、思い当たるのは彼らだけ。お見舞いは要らないって梓先輩にも言ったんだけどな。そう思いながら朔はソファからよろりと身体を起こし、マスクをつけて玄関へ向かった。

 扉を開ければそこにいたのは案の定、心配そうな顔をした少年探偵団の面々である。目線を合わせるように少し腰をかがめて話しかけた。

「どうしたの、みんな」
「朔兄ちゃんが風邪ひいたってポアロで聞いてよ」
「みんなでお見舞いに来たの!」
「住所は梓さんから聞きました!」
「梓先輩……」

 軽く頭を抱える朔を他所に、三人はレジ袋に入ったお見舞いの品を差し出した。ちらりと中を見ると、スポーツドリンクやらフルーツ缶やらがたんまりと入っている。中には普通のスナック菓子も混ざっているようだったが。彼らなりの朔を思う気持ちなのだろう。

「ありがとうみんな、助かるよ」

 そう言って微笑めば、コナンが朔に尋ねた。

「朔兄ちゃん、熱はどのくらいあるの?」
「三十九度近くあったかな……」
「三十九度!? それ本当にただの風邪?」
「多分……」

 眉を下げて力なく笑って見せる朔。心配そうにコナンは続けた。

「病院は?」
「行ってないんだ。薬は飲んだんだけど」
「なら出来るだけ早く病院に行った方がいいと思うよ。もしかしたらインフルエンザかもしれないし」
「病院……」

 コナンの言葉に言葉を途切れさせる朔。保険証は用意されているが、万が一身体中を調べられたら……と考えると現世の病院へ行くことは難しい。行くならば必然的にあの世の病院だろうが、家を出るのすら億劫な今の朔にとってはかなり高いハードルだった。
 そんな朔を見て、コナンがほんの少し瞳を鋭くさせて問いかける。

「……もしかして、病院に行けない理由でもあるの?」

 その言葉の端から僅かに小学生らしからぬ雰囲気を感じ取る。どうしてそんなことを聞いてくるのか、熱に侵された朔の頭では答えを出すことが出来なかった。
 朔はあくまで子どもに言い聞かせるように柔らかく理由を並べる。

「……違うよ。ただ家を出るのがちょっと億劫なだけ。もう少し身体が楽になったら、ちゃんと行くよ」
「……そっか」

 なんだか若干不満そうだが、とりあえずは納得してくれたらしい。鋭かった雰囲気がどことなく丸みを帯び、元の小学生に戻ったようだ。

「それより君たちはもう帰った方がいいと思うよ。うつしたら悪いし」
「そうですね……じゃあ僕たちはこれで」
「じゃあね、朔さん!」
「ちゃんと風邪治せよ!」
「お大事にね」
「ありがとうみんな」

 口々に言って朔に背を向ける探偵団。その小さな背中がひとつ残らず見えなくなったところで朔は部屋の中に戻る。壁伝いによろよろとリビングに戻れば、凩が「随分長かったな」と声をかけた。朔の持っていたレジ袋に気が付くなり、さっと受け取る。

「さっきのガキ達が?」
「ああ」

 朔はどさりとソファに身を投げる。凩は受け取ったレジ袋の中身を確認していた。ひとつひとつ中身をテーブルに出していたが、ふと動きを止める。それを目の端に捉えた朔は凩へ問いかけた。

「……どうかしたか」
「ああ、いやーー」

 凩は誤魔化すように咄嗟に言葉を並べた後、わずかに目を細める。

「お前、愛されてんなあと思って」

 ――パキリ。
 凩の指先で鳴った何かが折れるような小さな音が、朔の耳に届くことは無かった。


***


『お前、愛されてんなあと思って』

 その言葉を最後に、向こうの音は全く聞こえなくなってしまった。コナンは思わず不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。その様子を見ていた歩美はどうかしたのかと不思議そうに尋ねてきたが、笑って誤魔化しておいた。

 まさか、「正体を探っている男に盗聴器つきの見舞いの品を渡し、早速音声を聞こうと思ったところで盗聴器が破壊された」なんて言えるわけがない。数歩先で楽し気に談笑する探偵団三人を他所に、コナンは追跡メガネの電源を切った。そしてひとり静かに頭を回す。

「(玄関口には朔さんの靴と女物の靴一足しか置いてなかったから、てっきり中に南風さんがいるんだろうと思ってたのに、さっき聞こえてきたのはどう聞いても男の声だった。しかも、朔さん以外の……。一体、何者なんだ?)」

 謎を暴こうとしたつもりが謎を深める結果に終わってしまったことに、コナンは小さくため息をついた。


***


 探偵団が朔の部屋を去ってから数時間後、再びインターホンが来客を告げる。ちょうど探偵団がくれた桃缶を食べていた朔の代わりに、凩がモニターを確認した。その瞬間、凩はわずかに目を見開く。

 そこに立っていたのは、見舞いの品らしき紙袋を持っている男――安室だったのである。