弐拾陸 僥倖



 凩は思わず苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

 先日廃ビルでの件以来、安室が朔のことをどこか不審がっていたのを凩は重々承知していた。朔本人は何ともなさそうな顔をしていたが、凩はずっと安室のことを密かに警戒していたのである。いずれアクションを起こすだろうとは思っていだが、このタイミングでやってくるのは予想外だった。

「(まさか、朔が風邪で弱ったスキを見て乗り込んで来たのか……?)」

 凩が対応に迷っていると、応答が無いのを不審に思ったらしいモニターの向こうの安室はもう一度呼び鈴を押す。ピンポーンと部屋に音が響くと、よろりと起き上がった朔がフラフラと凩の元へ歩み寄った。

「誰?」
「お前のバイト先の先輩だよ」

 凩は少し身体をずらして朔がモニターを見えるようにしてやる。モニターの向こうにいるのが安室だと認識するなり、足先を玄関に向けた。凩は慌てて朔の肩を掴む。

「お前は出ないほうがいい」
「いい……俺が出る」
「朔」
「わかってるから。お前は余計なことするな」

 若干充血気味の目でじろりと睨み、素っ気なくそう言った。凩は渋々といった様子で道を開ける。朔は凩を軽く押しのけ、壁伝いにフラフラと覚束ない足取りで廊下を進む。歩いてる最中にも、外から玄関の扉をノックする音がしていた。はいはい今開けますよと心の中で返答しながら、朔は部屋の鍵と扉を開ける。

「ああ、朔くんよかった。眠ってたら悪いなと思ってたんだけど」
「先輩のインターホンで起きました」
「おっと……それはすまない。じゃあこれ、お詫びに」

 ほら、と言って紙袋を軽く持ち上げてみせる。中には安室お手製の料理が入っているのだとか。

「わざわざすみません……でも、もう大丈夫スから。朝よりは随分、楽になりましたし」
「本当かい? でも顔もかなり赤いし、まだ熱高いんじゃない?」

 心配そうに朔の顔を覗き込む安室。その強く蒼い瞳がなんだかいつもより眩しくて、朔はそっと目を逸らす。

「朔くん一人暮らしだったよね? こんな様子じゃ食事をとるのも億劫だろうし、なんなら僕が看病しても」
「だ、大丈夫スよ、ほんと」

 なんで今日はこんなに透先輩の押しが強いんだろうと思いながら、朔は困ったように微笑む。流石に今の状態で透先輩を家に上げるのは……。と内心思ってはいるのだが、中々頭が回らず上手い言葉が見つからない。

 その時、朔の腹の虫が寂しそうな声をあげた。それは安室にもばっちり聞こえてしまっていたらしい。暫しお互い無言になる。気まずそうにそろりと目線を合わせると、安室はクスリと笑った。

「お腹空いてるんでしょ? ちょっとキッチン借りるね」
「あ……」

 朔の身体を軽く押しのけるように、言ってしまえば強引に、安室は玄関へ足を踏み入れる。そこに揃えて置かれていたハイヒールのサンダルをちらりと目に捕えたが、特に気にせずに中へ足を進めていく。玄関のドアを閉めた朔もよろよろとその後を追った。

「朔、随分長かったけど――」

 リビングのソファに座っていた南風がひょっこりと顔を出した。目を合わせるなり安室は、にこりと人好きのする笑みを浮かべる。

「玄関に女性ものの靴があったのでそうだろうとは思っていましたが……あなたも来ていたんですね、南風さん」
「もっちろん! 朔が風邪ひいてるって聞いて、居ても立ってもいられなくって」

 負けじと可愛らしく笑う南風。そこで安室の後ろから朔が覚束ない足取りで歩いてきたのを見て、慌てて駆け寄った。意識も比較的はっきりしているが、先ほどよりも明らかにぐったりしている。こんな状態だったためきっと安室にいいように言いくるめられてしまったのだろうと南風は内心思った。そんな南風を他所に、安室は思い出したかのように言う。

「ああそうだ南風さん。少々キッチンをお借りしても?」
「え? うん、いいけど……」
「ありがとうございます」

 さっと礼を言って安室はキッチンに向かう。軽く道具の確認をしたかと思えば、勝手知ったる様子でテキパキと作業を始めた。その間、南風は朔をソファに寝かせる。すっかり汗みずくになってしまった朔の肌を軽くタオルで拭ってやった。
 安室が作業を始めてわずか数分後。部屋にいい香りが漂い始める。

「おまたせしました。特製の卵がゆです」

 そう言って安室はテーブルにことりと器を置いた。優しい色合いの卵がゆからは美味しそうな匂いと共に湯気が立ち上っている。

「朔、食べられそう?」
「ん……」

 南風の声に反応してか、吐息同然の返事を漏らしてゆっくりと身体を起こす。安室がさっと木の匙を渡せば、頼りない手つきでそれを受け取った。そうっと匙で卵がゆを掬い、息を吹きかけて冷ましてから口に入れる。ほんのり目じりが下がった。

「……美味しい」
「ならよかった」

 いつの間にか向かいに座っていた安室が安心したように笑う。ゆっくりとしたペースながらも朔は卵がゆを口に運び続け、ついに完食した。ご馳走様ですと朔が小さく呟くと、安室はお粗末様と返す。

 安室が朔の使用した食器や調理器具なんかを片付けている間に、南風は朔に薬を飲ませた。その際もう一度熱を測ったのだが、熱は一向に下がらない。体温計に表示された三十九度の表示とソファに横たわって苦し気な息を漏らす朔の様子を見て、南風は小さくため息を零す。

「他の薬、貰ってきた方がいいかな……」
「薬……ですか。それはもしかして、白澤さんという方の店で購入しているんです?」

 片付けが終わったらしい安室が、ソファに近づきながら尋ねる。表情は一見柔らかく微笑んで見えるが、その瞳はどこか鋭い。南風はそれに気づきながら首だけ後ろを見やるようにして冷静に返す。

「そうだけど……安室さん、どうして白澤さんのこと知ってるの?」
「前に一度、店にいらしたことがあるんですよ」
「……へえ」
「南風さんも白澤さんとはお知り合いなんですね」
「そうだよ。昔から色々とお世話になってるんだ」
「ホー、そうでしたか」

 安室は顎のあたりに右手を添え、納得したように相槌を打つ。ふたりとも一見笑顔だが、部屋の空気はどことなく張り詰めているようで息苦しい。一触即発、という言葉がよく似合いそうな雰囲気だ。

「因みに店舗はどこに構えていらっしゃるんです? 『うさぎ漢方 極楽満月』なんて薬局、この辺りでは聞いたこと無いですけど」

 ちらりと薬の入った紙袋に目をやりながら安室は言う。いつの間にかソファの背もたれに腰かけて腕を組み、南風のことを見下ろすような形になっていた。逆光で僅かに顔に影が落ちているが、その蒼い瞳の輝きは衰える様子を見せない。

「見たことないだけじゃない? ちょっとわかりにくい場所にあるから、ちゃんと探さないとわからないよ」
「そうなんですか。どうりで見つからないわけだ。今度是非案内していただきたいですね」
「どこか悪いところでもあるの?」
「いえ、そういうわけではないのですが……興味がありまして」

 安室は怪しげに蒼い瞳を煌めかせ、にやりと微笑んだ。

「どんなに探しても見つからない……その不思議な薬局と薬剤師にね」
「……」

 南風の金の瞳が不機嫌そうに歪む。ここまであからさまに不快感を表情に出すのは南風にしては珍しいほうであった。南風の姿をしているが、どことなく凩が滲みだしてきてしまっている。それとは対照的に、安室は余裕そうな微笑みを崩さないまま南風を見下ろしていた。

 その時、不意に携帯が震え、着信のメロディを奏で始める。

 びくりと一瞬肩を震わせ、南風はそっと自身の携帯を取り出した。着信の相手は画面を見ずとも音ですぐわかる。白澤だ。恐らく朔の容態を聞くためにかけてきたのだろう。

「出なくていいんですか?」

 ソファの背もたれに頬杖をつくようにして安室は顔を近づけ追い打ちをかける。南風は震え続ける携帯をさっとポケットにしまってソファから立ち上がり、何事も無かったかのような笑顔を安室へ向けた。

「出るよ。部屋の外でね」
「ここで出てもいいんですよ?」
「彼氏からの電話だから安室さんに聞かれたくないの」
「そうでしたか。それは失礼しました」

 ちっとも悪びれる様子を見せずに安室は言ってのける。南風は部屋の出入り口付近まで足を進めると、ふと立ち止まって後ろを見やった。相変わらず安室は飄々とした笑みを浮かべたまま、南風の姿をじっと見ている。

「すぐ戻るから。ちょっとの間だけ留守番、よろしくね」
「ええ。了解しました」


***


 しんとした室内に、朔の苦し気な息づかいだけが響く。ソファにぐったりと横になった朔の額には大粒の汗がいくつも浮かんでおり、未だ高熱に苦しんでいるであろうことは一目で見て取れた。

 ようやくだ、と安室は内心思う。

 廃ビルでの一件以降、朔の正体を探るのに力を入れていた安室。相変わらず正体は掴めずにいたため、有力な手がかりを得るためにも一度部屋を訪れたいとは思っていたのである。

 朔は店での言動から判断して、あまり人をホイホイ自宅にあげるようなタイプではない。住所自体は調べがついていたので知っていたが流石に不法侵入するわけにもいかない。

 ならどうするかと悩ませていたところに、梓から「朔が風邪を引いたから出勤できないか」という連絡を受けたのである。電話口では至って冷静に「朔くんが風邪なんて珍しいですね……わかりました。すぐに向かいます」と返したが、内心は歓喜していた。
 これならお見舞いという口実で部屋を訪れ、看病という名目で家に上がり込むことが出来る。

 ポアロでの業務を終え、安室は早速朔の自宅へ向かった。お見舞いの品を片手に現れた安室に朔はやはりわずかながら警戒しているようで、もう大丈夫の一点張りで追い返そうとする。だが安室にそれは通用しない。

 結果として、半ば強引だが室内へ入ることに成功した。中にもうひとりの調査対象である南風がいたのは計算外だったが、今は彼女よりも朔を優先すべきだろうと至って普通に対応する。少しカマをかけるような発言をしたりもしたが、まあとにかく南風はこの場から遠ざけることが出来た。

 今いるのは安室と、意識があるのか無いのかすら危うい病人ひとり。探り屋と称される顔を持つ安室にとってはまたとないチャンスだ。

 安室は早速、家の中の散策を開始する。

 部屋の中はいたってシンプル。物はあまり多くなく、すっきりと片付いている。あちこちにまだいくつか段ボールが置いてあるところをみると、なかなか引っ越しの片付けが進んでいないのかもしれない。バイトを複数掛け持ちして忙しく町を駆け回っている彼のことだし。
 備え付けの家具をそのまま使っているようで、特に配置を変えたりだとかそういったことすらない。部屋にあまりこだわりが無いのだろう。もしくはそういった時間が無いか。

 蓋が開いている段ボールのひとつの中身を覗き見てみると、大量の酒瓶が入っていた。
 酒、という単語に内心ドキッとするが、入っているのは洋酒ではなく日本酒ばかり。その隣の段ボールも見てみると中身は同じく日本酒の酒瓶であった。その内の一本を取り出してみる。『閻魔殺し』……聞いたことない銘柄だと安室は静かに眉を顰める。試しに検索をかけてみるが勿論ヒットしない。ラベルの裏に記載されている酒造元も同じく見つからなかった。

「もしかして、中身は酒ではないのか」

 安室はふとそう考えたが、手にしているのは未開封の酒瓶。ここで開封して中身を確かめることも、ましてや持ち帰ることも出来ない。
 ならば開封済みの物を、と安室はすぐ傍にあった棚――様々な銘柄の日本酒が大量に並んでいる――に手を伸ばす。大概は未開封だったが開封済みの物をひとつ見つけることが出来た。蓋を開けて香りをかぐ。日本酒特有のアルコールの香りがするのみで、特に変わった様子は無い。杞憂だったかと安室は瓶を棚に戻した。

 それから安室は順に部屋を見てまわる。洗面所に風呂場にトイレまで隈なく散策し、何か手がかりになるようなものを探す。だが一通り探し終えても特にこれといったものは見つからなかった。

「やはりあの部屋に何かあるのか……?」

 リビングに戻ってきた安室は小さく呟く。
 あの部屋、というのは朔の寝室と思われる部屋である。鍵がかかっている様子は見られなかったためその部屋も調べようとしたのだが、建付けが悪くなっているようにドアがびくともしなかったのである。力ずくで開けても良かったが、それだと音で朔が気づいてしまうかもしれない。安室は渋々その部屋を開けるのをあきらめたのだ。

 ここまで来て何の手がかりを掴めずに引き下がるのは惜しい。そう考えた安室の目に、ふとあるものが留まる。朔が横になっているソファに向かい合うように配置されたもうひとつのソファ。その上に放置された、朔の鞄である。そういえばこの中身はまだ確かめていなかった。

 安室は向かいのソファにそっと腰かけて中身を確認し始める。小ぶりのリュックサックの中身は部屋と同じようにシンプルで、最低限のものしか入っていなかった。タオル、折り畳み傘、財布、鍵、ペットボトル。そして手帳だ。黒を基調としたこれまたシンプルな手帳。バックヤードで朔がこの手帳を確認している姿をふと思い出す。

 ……中には一体、何が書いてあるのだろう。
 安室が手帳に手をかけ、そっと開こうとしたその時。

「ごほ」

 控えめな咳が安室の耳に飛び込んできた。