弐拾漆 譫言の真実やいかに



 慌ててそちらに顔を向けると、横たわった朔が薄く目を開いてこちらに視線を向けていた。熱に浮かされた瞳はぼんやりと焦点が定まっておらず、うっすら水の膜が張っている。安室はさっと何事も無かったかのように手帳を朔の鞄に戻し、笑みを浮かべた。

「目が覚めたかい朔くん」
「は、い」

 安室の問いかけに素直に応じる。どうやら鞄の中を探っているところは見られていないようだった。

 ゆっくり身体を起こそうとする朔の傍に近寄って背中を支えてやる。水を飲むか尋ねると朔は小さく頷いた。近くにあったスポーツドリンクのキャップを外し、飲みやすいようにストローをさして手渡す。朔は途切れ途切れに礼を言ってストローを咥える。飲み込むたびにゆっくり上下する喉元を安室は黙って見ていた。
 大粒の汗が浮かぶそこには、相変わらず傷ひとつありはしない。

 ストローを離した朔からペットボトルを受け取り、テーブルに置く。すると朔は力なく目玉を動かしてぼんやり安室に尋ねる。

「南風、は」
「今少し出てるよ。もう少し眠る?」

 どこか安心したように朔は静かに目を細めた。小さく頷いてまたソファに寝転がろうとした朔の背中に手を当て、それを阻止する。不思議そうにする朔の視線が向けられた。

「眠るならベッドで寝たほうがいい。寝室はどこだい」
「いい、スよ。ここで」
「休むならちゃんとしたところで寝なくちゃ。もし動くのが面倒だって言うなら僕が運ぶから」

 寝室へ足を踏み入れる口実を作るために、安室は何でもなさそうな仮面を被って朔を誘う。それに気づいているのかいないのかは定かではないが、朔は一度目を閉じて小さく息を吐いた。そしてそっと目を開く。

「大、丈夫」
「……わかったよ」

 案外手ごわいなと思いつつ、安室はそっと朔を寝かせてやる。横になった朔はまた小さく礼を言って、ゆっくりと目を閉じた。呼吸は相変わらず苦しそうで、喉のあたりからひゅうひゅうと隙間風のような音を立てている。

 瞬間、脳裏にふと、喉元から血を流す男の姿が過った。

 ――ひゅうひゅうという苦し気な呼吸音。鼻をつく不快な血と硝煙の臭い。

 ――生気の宿らない、虚ろな目。

 はっと安室は目を見開く。心臓は段々鼓動を刻むスピードを速めていき、その音はすぐ耳元で鳴っているのかと思うほど五月蠅い。気づけば呼吸も荒くなっている。ぐっと、自身の胸元のシャツを握りしめた。荒ぶる心臓を無理やり鎮めるために。

 違う。あの時の男は、目の前の彼じゃない。だってあの時、確かに僕はあの男を殺したんだ。生死だってこの手で確かめた。だからここで生きている彼は、違う。違うんだ。

 ぐるぐる回る感情を振り払うように固く目を閉じ、深呼吸。吸って、吐いて。それからゆっくりと目を開いた。
 横たわる彼の喉元には一滴の血も滲んでいない。

 ……今ならきっと、真実を確かめられる。
 どこかそんな気がした。

「ねえ、朔くん」

 汗ばんだ額に張り付く朔の金の髪を分けるようにそっと触れる。仰向けで横たわって目を閉じている朔の顔を覗き込んだ。傍についた手の分だけソファが軽く沈み、安室自身の影が朔の顔を薄暗く覆う。

 まるで子どもに絵本の読み聞かせをする母親の様に、安室は出来るだけ柔らかく言葉を吐いた。ふるりと金の睫毛が震え、物音ひとつ立てずに瞼が開かれる。内側に収まっていた色素の薄い虚ろな瞳が安室の姿を捕えた。

「前から君に訊きたかったことがあるんだ」

 朔はけだるそうにゆっくり瞬きをするばかりだ。耳には入っているようだが、意識は定かではないらしい。だが安室にとってそれは好都合だった。ずるいやり方だが、真実を確かめるために手段は選んでいられない。
 苦し気に繰り返される呼吸音をBGMに、安室は静かに言葉を続ける。

「〇×ビル火災のニュース、覚えてるかい? 少し日は経ったけどそれなりに大きなニュースだったから、まだ記憶に新しいんじゃないかな」

 安室の言葉に朔は僅かに頷く。ぐったりとしているがまだ意識は辛うじてあるらしい。安室は言葉を選びながらゆっくりと朔に話し続ける。

「あの火災があった次の日、僕は君に訊いたよね。『前日の夜に何をしていたか』って。君は『真っすぐ家に帰った』と言った」

 でもね、と安室は言葉を切る。

「僕、実は見たんだよ。君と白澤さんによく似た人が、黒い服を着た男に追いかけられてそのビルの中に入るのを。……車の中からだけどね」

 少し眉を下げて自信なさげに笑う。流れるように嘘が出てくる自身の口に内心辟易としながらも安室は話すのをやめない。こんな嘘、つつかれればすぐにぼろが出てしまうだろうに。

 つうと朔の額を汗が滑り落ちていく。卵がゆの優しく仄かな残り香がどろりとした部屋の空気に混じって安室の鼻を掠めた。

「……君、本当は、あのビルに居たんじゃないのかい? 白澤さんと、ふたりで」

 確かめたかったことのひとつを口に出す。
 安室にしては酷く直接的な言葉選びで、彼の真剣さと余裕の無さが垣間見えるようだ。

 安室の問いかけに対する朔の返答は無い。意識はあるようだが、ただ黙って安室の話に耳を傾けて瞬きを繰り返すのみだ。……どうやら、この問いかけに関するきちんとした答えは得られそうにない。

 それならばと安室は朔の返答を待たずに次の手を繰り出す。

「……それから僕は君について少し調べることにした。こう見えても探偵だからね。調べものは得意なんだ。……ああ、悪く思わないでね。あくまででも興味本位で調べただけで、悪用するつもりは全く無いから」

 朔に言うつもりなど毛頭無かった事実が言葉となって次々と溢れてくる。だがそれに安室自身は全く気づいていなかった。安室自身もまた、別の熱に浮かされていたのかもしれない。

 朔は黙ったまま、ただ呼吸を繰り返していた。朔の白い肌は熱に浮かされたおかげですっかり林檎のように真っ赤に染まっている。

「でも、調べてみて驚いたよ。君に関して出てきた情報は名前と今のバイト先と、住所。それだけ。どんなに調べてもそれだけしか出てこなかった」

 滑り落ちた汗は頬から伝って首へ流れ落ちていく。ソファに触れた瞬間、じゅわりと布地に吸収された。

「少なすぎる情報というのも、逆に不自然なんだよ。君の場合、今まで生きていた形跡が全くと言っていいほど無いんだから、尚更」

 ねえ、朔くん。

「君は一体、何者なんだい」

 ずっと聞きたくて聞けなかったことのふたつ目。かねてからずっと胸に抱いていたそれを遂に安室は口に出した。

 吐き出す瞬間に喉のあたりで言葉が張り付くような痛みを覚えたが、構っている暇は無い。なんにせよ、言葉にする前にはもう戻れない事に変わりはなかった。

 朔の薄く開かれた瞳に安室の姿が映る。その表情は安室自身の落とした影のせいではっきりと確認することは出来ない。

「おれ……は、」

 こちらも答えは得られないかと安室が諦めかけたその時、ずっと聞いているばかりだった朔が口を開いた。蚊の鳴くような小さな声で、ぽつりと呟く。安室は内心歓喜に打ち震えたが実際は眉をひとつ動かしただけである。
 静寂が支配する部屋の中、安室はじっと黙って朔の返答を待った。一字一句聞き逃さぬよう全神経を耳に集中する。

 朔は数秒の沈黙を挟んだ後、少しかさついた唇をもったいぶるくらいゆっくりと動かした。

「……何者でも、ない」

 だがその返答は実に要領を得ないもの。安室は思わず眉間に皺を寄せる。
 何者でもない、とは一体。

「それはどうい、う……」

 朔にその言葉の真意を問おうとして、安室は思わず言葉を途切れさせる。

 ――薄く開かれた朔の両目から、はらはらと大粒の涙が流れていたのだ。

 安室はぎょっとしてその身体に触れようとするが、朔の言葉が耳に入った途端に触れるのを躊躇ってしまう。

「何者でもない……おれは、空っぽだから。……ナニモノにも、なれない」

 ぼろぼろと涙と共に朔の口から言葉が溢れていく。ゼイゼイと苦し気な呼吸音も相まって、譫言は酷く悲痛な叫びにも聞こえる。朔の身体中からは尋常じゃない量の汗が噴き出し、手足はぐっと力が入ったように強張っていた。握りこまれた手のひらにはぎちぎちと爪が食い込んでいる。

 普段とはかけ離れた朔の姿に安室は思わずたじろぐ。本来の目的を忘れそうになるほど、安室は朔から目が離せなくなっていた。

「ぜろ」

 不意に呟かれたその単語に反射的に肩を震わせてしまう。
 だが朔の瞳は安室のことを映しているだけで、実際はほとんど焦点は合っていないようだった。朔はそんな安室のことなど構わぬようにぼろぼろと涙と言葉を溢れさせる。

「ぜろだ、くうきょだ、ガランドウだ……おれ、は」

 かすかすの喉の奥から振り絞るように呟かれる朔の言葉に聞き入る安室は瞬きすら忘れているようで、その大きな瞳を見開いたまま固まってしまっていた。

 誰も見たことがないほどぐずぐずと弱音を漏らす朔は、その色素の薄い目を瞼の奥にしまい込み、ぐっと苦し気に眉を寄せる。身に着けた服の胸元辺りをぎゅっと握りしめ、まるで孤独に怯える子どもの様だった。

「何をしてもうまらない、わすれたって、つきまとうんだ……いつまでたっても、空しい、虚しい、ムナシイ、むなしい……」

 閉ざされた瞼の隙間から涙が絶えず溢れ続ける。幾重にも滑り落ちる涙はソファに染み込んでいくつものシミを作っていた。

 そこで安室はようやくハッとして、すっかり正気を失って泣き続ける朔の肩に触れようと再び手を伸ばす。だが、その手が朔に触れることは無かった。

 ――何の脈絡も無く、安室の視界がぐんにゃりと曲がる。

 なんだこれはと、疑問に思うことも無いうちに安室はすぱりと意識を手放した。

「悪ぃな、お坊ちゃん」

 見知らぬ男の謝る声を聞くことも無く。


***


『今の音は?』
「なぁに、ただのハプニングだ。気にすることはないさ。ちょっとお喋りなお坊ちゃんに眠ってもらっただけだよ」
『……ならいいけど』
「それで白澤の旦那、ちゃんと効くんだろうなこの薬」
『当然。それは僕が保証するよ。ちゃーんと彼の身体に合わせて調合したからね』
「それならいいんだが。……まさか二百年ぶりの風邪の弊害がここまで厄介だとは」
『まあね、僕も流石にここまでだとは思ってなかったし。ただでさえ前例がほとんど無いんだから何が起こったって不思議じゃ無いってわかっていても』
「しかもよりによって俺が家を空けている間に……」
『……それにしても不思議だね。前回はそこまで酷く無かったんだろう?』
「二百年近くも前のことだがな。多少は出たが、ここまで酷くは無かった」
『だとしたら、やっぱり現世が関係してくるだろうね』
「現世か……」
『何か思い当たるフシは?』
「……いや、検討もつかねえな」
『……とりあえずまた何かあったら連絡頂戴。一応、僕の方でも色々と調べてみるから』
「旦那」
『何?』
「色々すまねぇな」
『どうしたのさ急に。君らしくもない』
「……ああ、そうだな」
『……まあいいや。今度また飲みに行こうよ。衆合地獄の花街でパーッとさ』
「それは名案だ。その時は今回のお礼も兼ねて、是非俺におごらせてくれ」
『やりぃ、タダ酒だ』
「はは、お手柔らかに頼むぜ」


***


 翌日。

 すっかり熱も下がって体調が元に戻った朔は、元気にポアロへ顔を出していた。
 シフト通りの時間にひょっこり顔を見せた朔に梓はぱっと駆け寄る。

「朔くん! 風邪はもう大丈夫なの?」
「もうすっかり良くなったんで平気ッスよ。」
「そっか、よかったぁ」

 ホッとしたように梓はふにゃりと笑った。朔もその様子を見て釣られたように微笑む。ご心配おかけしましたと頭を下げれば、あんまり無理しないでねと心配そうに梓は眉を下げた。

「朔くん」

 不意に声をかけられてそちらを見れば安室が立っていた。普段と変わらない姿に朔はハッと思い出したように駆け寄る。

「透先輩! 昨日は色々とありがとうございました。俺、昨日のことほとんど覚えてなくて……先輩が来てくれたってことも南風から聞いたんス」
「……ああ、気にしないで。それより体調は大丈夫なのかい?」
「おかげさまですっかり熱も下がったみたいで」
「それならよかった」

 安室は安心したように微笑んだ。そんな安室の姿に朔もふにゃりと笑って見せる。いつも通りの日常に戻ったのだと少し心が晴れる思いだった。
身支度を整えエプロンを身に着け早速店内へ向かおうとドアノブに手をかけた朔に、安室が不意にぽつりと零す。

「本当に」
「へ?」
「本当に……何も覚えていないのかい」

 思わず足を止めて振り返れば、安室の蒼い瞳が朔を真っすぐに捕えていた。朔はといえば、きょとんとした顔で目を瞬かせるばかりである。

「はい。……ほとんど意識が無くて、何も」

 なんでそんなことを聞くのかと思い当たるフシの無い朔は正直に言う。朔の言葉を聞いて安室は小さく、そう、と呟いた。

「それなら、いいんだ」

 そう言った安室の表情はどこか複雑であった。切なげにも、安堵にも、困惑にも見える。だがそれも一瞬のこと。ぱっといつもの笑顔に切り替わり、朔よりも先にさっさと店内へ向かってしまった。その一部始終を見ていた梓もどうしたのかしらと不思議そうに呟く。

 店内へ消えていった安室の背中が、なんとなく遠く感じた。