弐拾玖 世界観を間違えないでいただきたい
掃除の行き届いた店内。下準備を終えた食材たち。店内に流れる落ち着いた朝の音楽。
「……よし」
開店準備を一通り終え、ドアに下がるプレートを反転させる。暖かな日差しが窓から降り注いでいて、今日もいい天気になりそうだな、なんて独り言ちた。
「さて、頑張りますか!」
梓はひとり気合を入れ直した。
昨日まで友人たちと2泊3日の京都旅行に行っていた梓にとって、今日は久しぶりのポアロでの仕事である。まあ、だからといってやることは普段と何一つ変わらない。訪れてくれるお客さんに美味しい食事と居心地のいい空間を提供し、幸せな気持ちになってもらうのだ。そして「また来たい」と思ってくれたら万々歳。それが、ポアロでの接客で梓が一番大切にしたいと思っていることだった。
そんなことを考えているうちに本日一人目のお客さんが来店した。いつもこの時間に訪れる常連客のひとりである。それを皮切りに次々と来店客は増え、次第にいつも通りの賑やかなポアロに変わっていく。
梓が旅行に行っていて今日が久しぶりの出勤だということは常連客なら知っていることなので、数人に「旅行楽しかった?」と尋ねられる。梓は笑って、旅行がいかに楽しかったかを話して聞かせた。こういったお客さんひとりひとりとのコミュニケーションも接客では大切なのである。
そうして接客に追われていればあっという間に時間も過ぎる。少し客足が落ち着いたと思って時計を見ると、もうすっかり13時を過ぎていた。それから遅れてやってくる腹の虫。店内にいたお客さんには聞かれていなかったようで安心する。13時を過ぎたということは、もうすぐ彼がやってくる時間だ。来たら早速で悪いが、まかないを作ってもらおう。
初めのうちは「俺、実は料理経験ほとんどないんスよね」と焦げの多い料理を差し出しながら申し訳なさそうに眉を下げて笑っていた彼も、今ではすっかり慣れたようである。手つきにはまだ危なっかしさが残っているが時間の問題だろう。時々羨ましくなるほど、彼は呑み込みが早いのだ。
「梓先輩。おはようございます」
バックヤードの扉から出てきたのは噂の彼だ。金髪に黒いニット帽を被った、どこか可愛がりたくなるバイトの後輩の彼……朔である。
「朔くんおはよう」
さて出勤して早々だがまかないを頼もうかな、なんて思って彼の方に顔を向ける。だが梓は朔の顔を見た途端、それを告げることが出来なくなってしまった。
梓の方に視線と顔を向けたまま、ぴたりと動きを止めた朔。その眼は何か恐ろしいものでも見つけてしまったかのように驚愕に見開かれていた。
見たことのないその表情に、一瞬梓は息を詰める。
「梓先輩……確か昨日まで京都に行ってたッスよね」
「え、うん」
どうして急にこんなこと訊くんだろうと思いながらも、素直に質問に答える。朔は少し声のトーンを落として尋ねた。
「京都では何を?」
「えーっと、普通に友達と観光スポット巡りだけど……」
「……」
昨日までの出来事をざっと思い返して事実を答える。だが朔は何かを考えるように黙り込んでしまった。周りの客たちもどうしたのだろうかとその様子を窺っている。
「あの……朔くん?」
「もしかして」
「え?」
「もしかして、祠……名前もわからない古くて小さな神社みたいなところ、行きませんでした?」
小声でそっと尋ねられた朔の言葉に、咄嗟に視線を下げて記憶を確かめ始める。名前もわからない、古くて、小さな神社のような場所……。
そこでふとあることを思い出す。そうだ、確かあれは。
「……そうだ。昨日友達とはぐれて道に迷っちゃって、それで散策していたら、少し古い神社みたいなのを見つけて」
「! 中に、中に入ったんスか!?」
「え? うん。まあすぐに友達と合流したから、そこにいたのはせいぜい二、三分くらいだけ、ど……」
ふと顔を上げると、朔が驚愕の表情を浮かべたまま固まっていた。だがそれは一瞬だったようで、すぐに焦ったような思いつめたような表情に変わり、ぐっと唇が噛みしめられる。
すると次の瞬間、朔は素早く梓の手を取りスタスタと歩き始めた。真っすぐバックヤードに戻り、足を止めることなくそのまま店外へ出る。
「ちょ、ちょっと朔くん? いきなりどうしたの?」
突然の出来事に、梓は困惑気味に朔へ問いかける。営業時間中に店に客を残したまま従業員がふたりそろって出ていくなんて普通は考えられない。下手したらクレーム対象だし、不在のマスターにも何を言われるか。
そんな思いを抱える梓とは対照的に、朔は梓の手を引きながら先ほどからどこかへ電話をかけているようだ。その内容をはっきりと聞き取ることは、こちらからは出来そうもない。
しばらくして、電話を終えた朔は足を止めることなく言う。
「梓先輩、すみません。今だけでいいんで、黙ってついて来てもらえませんか」
梓の手を引く朔の手に、ぐっと力がこめられる。
「……先輩のことは、絶対に俺が守りますから」
後ろからわずかに見えるその真剣な表情を見て、梓はとたんに何も言えなくなってしまった。
***
何故こんなことになっているのかよくわかっていない様子の梓の腕を引いて、朔はずんずんと先を歩く。
戸惑った表情を浮かべる彼女……の背後にまとわりつく黒い靄を見ては、舌打ちが出そうになるのをぐっとこらえていた。
――時は二時間ほど前に遡る。
深夜の浮遊霊回収業務を終え、床についた朔が目覚めると、携帯電話に着信が入っていた。相手は上司の鬼灯である。何の要件だろうと思いながら発信ボタンをタップした。呼び出し音がしている間、大あくびをしながら朔は自室を後にする。
ちょうど玄関であの世の新聞を手に取ったところで電話がつながった。
『もしもし』
「鬼灯さん? 俺です、朔です」
『ああ、朔さん。おはようございます』
「おはようございます。……着信が入ってたんでかけ直したんですけど、何かありましたか?」
リビングに向かいながら朔は尋ねる。すると鬼灯はいつも通り淡々とした調子で尋ねてきた。
『朔さん。今朝のニュースはご覧になりましたか』
「ちょうど今確認しようと思っていたところです」
現世に来てからというもの、一応地獄の今の状況を把握するために新聞は一通りチェックしていた。パサリとテーブルに新聞を広げていると、鬼灯は『それなら話が早い』と言った。
『一面を見てください』
「一面ですか? えっと何々……『現世京都にて、悪霊の祠が破られる』……マジすか」
『マジです』
鬼灯の疲れ切った声を聞いて、朔は思わず苦々しい顔をする。
記事によれば、現世にて厳重管理していた悪霊を封印していた祠が破られたらしい。この悪霊は生きている人間に憑りつき、他のタチが悪い悪霊を引き付け、災厄を呼ぶ。そしてその人間を災厄によって死に至らしめ、死肉や魂を食らう……という、危険な悪霊だそうだ。こういった類の悪霊は昔から現世のあちこちに封印されており、古の都である京都はずば抜けてその数が多いのは、朔はよく知っていた。
「大事件じゃないですかこれ」
『ええ。烏天狗警察もてんやわんやですよ』
「ですよね……でもこのニュースがどうかしたんですか?」
確かに大事件だが、わざわざ連絡をよこすほどだろうかと言われれば首を捻ってしまう。しかもこれが起きたのは京都だ。今朔がいる米花町ではない。そのため、鬼灯の連絡の真意がわからなかったのだ。
朔の問いかけに、鬼灯は率直に答える。
『実は、祠に封印されていた悪霊のわずかな妖力を辿った結果、どうも米花町に向かったのではないかと思われてまして』
「嘘でしょ……」
朔は思わず絶句する。なんでわざわざ京都から東都までやってくるというのだ。一体何の目的があって……。
『おそらく、封印を解いてしまった人間が米花町の住民だったんですよ』
「おそらくって……その解いてしまった人の特定とかできないんですか? 浄玻璃の鏡とかで……」
『やってみたんですが、どうにも妖気でその時の映像が乱れたせいで確認できないんですよね』
「そうですか……」
『とにかく、何かわかったら連絡をください』
「わかりました」
そうして電話は切れた。
それから支度をしてポアロに向かったのだが、正直とても嫌な予感がしていた。米花町に住まうようになってからメキメキ成長している、第六感である。その時は客の誰かにもしかしたら憑いてしまったのかもしれない、誰かわかったら報告しなければ、ぐらいに思っていたのだが……まさか梓についていたとは。
とりあえず鬼灯にも連絡を入れたし、店の方は(癪だが)凩に頼んである。あの人にも連絡した。あとは朔が梓を守り切れさえすれば問題無いのだ。
出来ることならどこかの神社にでも逃げ込んで烏天狗警察を呼び、警護やら何やらを任せてしまいたいところだが、あの人の話では生憎今日はこのあたりの神たちはあの世へ報告に出ているらしい。神の居ない神社に逃げ込んだところで、意味があるとはあまり思えなかった。だとするとやはり直接あそこへ行くしかないか……。
そう思ったその時、ぞわりと背筋に冷たいものが走った。
慌てて辺りを見回すと、梓の数十メートル後方にいる何やら赤黒い靄を纏った着物の女性がこちらへ猛スピードで近づいて来ていた。その手には鈍く光る日本刀が握られており、瞬時にあれが呼び寄せられた悪霊だと悟る。足元がほとんど煙と同化しているためか、普通ならありえない速度で移動していた。
「先輩! 走りますよ!」
「え、えええ!?」
急に走り始めた朔に引かれるままに、梓もなんとかついていく。なるべく人通りの少ない道を選んでいるためほとんど減速したりすることは無く、後方の悪霊との距離は一定を保っていた。
しばらく走り、適当なところで物陰に身を隠した。悪霊は気づけば二体になっており、逃げている間にもう一体引き寄せてしまったのだろうと大体検討を付ける。ふたりはまだこちらの居場所を掴んでいない様子だ。
「先輩。そろそろ移動したいんスけど……いけますか?」
「ちょ、ちょっと、まって……」
ぜえぜえと息を切らしながらぐったりと肩を上下させる梓。それもそうだろう。何の前触れも無く全力疾走なんてしたら誰だってそうなる。鬼の朔はまた別だが。
そんな時、不意に悪霊のひとりと目が合ってしまう。まずいなと思い、朔は咄嗟に梓に駆け寄った。
「すみません。ちょっと、失礼します」
「え」
そしてあっという間に梓を姫抱きにした。
突然の身体がふわりと浮く感覚に、梓は思わず顔を真っ赤にして暴れ始める。
「ちょっ……! 朔くん! 重いから!」
「大丈夫。こんなの全然軽いッスよ」
「だとしても恥ずかしい! おろしてって……ひゃあ!?」
「いいから。振り落とされないように、しっかり捕まっててください……!」
暴れる梓をものともせず、朔は走り始めた。人が走っているだけでは到底出るはずの無いスピードに梓は思わず顔を青くする。もう一体何が起こっているのか訳が分からなかった。
対する朔はといえば、後方を追いかけてくる悪霊から逃げることで頭がいっぱいである。いつの間にか悪霊は二体どころではなくなっていた。もうちょっとした百鬼夜行と同レベルである。
「一体いつから妖怪バトル漫画の世界になったんだここは!!」
そんな悪態と共に、朔の頭の中で周辺の地図が高速展開される。そして目的地までの最短ルートを叩きだすと、朔はにやりと笑った。
足が向けられたのはあまり使われていなさそうな古ぼけたビル。錆と風化が酷いその外階段を、一足どころか二足三足飛ばしで駆け上がっていく。そしてあっという間に屋上までたどり着いた。辺りを見回し、周辺を確認する。そしてあるものを見つけると一瞬目を見開き、それから何かを決意するように眉根をぐっと寄せ、遠くを見つめた。
「ねえ、朔くん。まさかだとは、思うんだけど……」
「ええ、梓先輩。……その、まさかです」
その言葉を聞いて梓が小さく息を飲んだ。後方に悪霊たちの百鬼夜行が目前まで迫っている気配を感じる。間髪入れず、朔は屋上のわずかな空間を使って加速し――
――ひと思いに、屋上から飛び出した。
梓の声にならない絶叫が響く。
軽く二十メートルはありそうな建物の屋上から飛び立したためか、耳元で唸る風が煩い。
だがその追い風が強かったせいなのか、飛び出す直前に渾身の力で蹴りだしたのがよかったのかはわからないが、水平方向への推進力が予想以上に上手くいったようだ。事前に目を付けていた人気のない空地へ迷うことなく落下していく。
そして地面に激突するその直前、空き地の地面が突然輝きだしたかと思うと、それまで何も見えなかった地面に、光り輝く不思議な文様が現れはじめた。
五芒星や六芒星、識別するのも難しい複雑な文字列が組み合わさったそれから無数の光の手が伸び、見事ふたりを受け止めた。
同時に、梓に憑りついていた黒い靄を光の手は豪快に鷲掴みする。
それを見ていた悪霊たちは慌てて引き返そうとするがもう遅い。ふたりを受け止めた手とは別の手が、それこそ数えきれないほど伸び、見事一匹残らず拘束してしまった。身動きが取れなくなった悪霊たちは拘束されたまま地面に押さえつけられる。それを見て、朔は盛大にため息をついた。
腕の中の梓はすっかり目を回してしまっているようで、まともに会話ができる状態ではなさそうである。その内気を失うかもしれない。……まあ、その方が朔にとって都合が良くて助かるのだが。
「助かりました……ありがとうございます、栞さん」
「ふふ。いいよぅ別に。気にしなくても〜」
空き地にのんびりと姿を現したのは、半妖で喫茶『胡蝶の夢』マスターの栞だ。先ほどの術を展開したのも全て栞である。事前に電話で「この空き地に拘束するための術式を仕掛けておくからなんとかここまで誘い込んでくれ」といわれ、朔は必死にこの場所を目指していたのだ。
「あの祠の封印の術を施せるのは私くらいだって、鬼灯様と烏天狗警察から事前に協力要請が来てたから、ある程度準備はしてたからねぇ」
「そうだったんですか」
水面下で栞が動いていたことに、朔は目を丸くした。
「しっかし、まさかこんな普通の子が祠の封印を解いちゃうなんて……」
「俺もですよ。まさか梓先輩に憑りつくなんて」
「ふふ。でもだからこそ早期発見ができた、っていう利点もあったけどね〜」
「まあ、そうなんスけどね」
もし見ず知らずの人間に憑りついてしまっていたら、ここまで迅速な対応は出来なかっただろう。もしかしたら被害が出るまで憑りついたことに気付きすらできなかったかもしれない。その点は皮肉というかなんというか。
「それにしても、ほんとにあの建物から飛んできちゃうんだもん。すごいよねぇ」
「まあ、あの時は色々必死だったし……」
栞の仕掛けた術式は封印に使用する術式と同様、大変複雑で扱いにくく、事前に地面に書かれた線が風や足跡なんかで少しでも薄まれば発動しない危険性を孕んでいた。そのため、急いでいるとはいえ迂闊にバタバタと踏み荒らすことが出来ず、ああして空から行く方法をとるしかなかったのである。
提案したのは朔本人だったのだが、栞はまさか本当に朔がそれを実行するとは思っていなかったようだ。
「流石、肝っ玉が据わってるよねぇ。そういうところはまだまだ昔と変わらずヤンチャだなぁ〜」
「……もう、やめてください栞さん……この千年で俺もう心を入れ替えたんですから」
「そうだよねえ。また首輪、付けられたくはないもんねえ?」
「だから、やめてくださいってば! 栞さんぐらいですよ、それいじってくるの! 俺は黒歴史を必死に忘れようとしてんのに!!」
「うふふふふふ〜」
耳どころか首まで真っ赤に染めながら声を荒げる朔を面白がるように栞はニヤニヤ笑う。
するとほどなくして上空から数十羽の烏天狗たちが現れた。通報を受けて地獄からやってきた烏天狗警察たちである。
朔と梓を追いかけていたこの悪霊たち、実は地獄から脱走して現世に潜んでいたものが多く、ほとんどが指名手配中の悪霊ばかりだったのだ。連行されていく悪霊たちを見て、「懸賞金でがっぽりだよ〜」と栞はのんびり笑っていた。
「じゃあ俺、先輩連れて店に帰りますね」
「わかった〜 気を付けてねぇ」
すっかり気を失ってしまった梓を腕の中に抱え直し、朔は慌ててポアロへ急いだ。
***
「……はっ」
不意に意識が浮上する。がばりと身体を起こした梓は咄嗟に辺りを見回した。どうやら、ポアロの休憩室で横になっていたようである。身体には丁寧にタオルケットまでかけられていた。
「確か……朔くんが来て手を引っ張られて、そのままポアロを出、て……」
脳裏にフラッシュバックするのは、真剣な表情で梓の手を引く朔と、梓を抱えて走る朔の必死な表情。
――そして、建物の屋上から助走をつけて飛び降りる、あの身体が浮く感覚。
耳元で煩く鳴る風の音。
「あれ? 先輩、起きたんスか」
「っ!!」
ガチャリとドアが開き、ひょっこりと朔が顔を覗かせる。何でもなさそうな顔でいつものようにエプロンを纏って、業務に励んでいるようだ。
「朔くん。……その」
「梓先輩、体調の方は大丈夫そうッスか?」
「……体調?」
思いがけない言葉に梓はつい聞き返す。対する朔は「気づいてなかったんスね」と言って補足してくれる。
「俺が出勤したとき、先輩すっごい顔色悪かったんスよ。だから一先ずちょっと休んでてくださいって、休憩室で寝かせてたんス」
「そう、だったんだ……」
そんなことを一切覚えていなかった梓は、どことなくぼんやりと言う。
「まだ調子悪いならもう少し寝てます?」
「う、ううん! 大丈夫。すぐに戻るよ」
「そッスか」
朔は安心したように笑う。じゃあ準備出来たら来てくださいねと言って、朔は扉の向こうに消えていった。ひとりきりになった部屋で梓はぼそりと呟く。
「……じゃあ、あれは全部、夢だったの……?」
正直信じられないが、今思い返してみればあの一連の出来事が夢でなく現実だったという方がもっと現実味が無く、信じられないだろう。車顔負けのスピードで駆け抜けたり、建物から飛び降りたり……。むしろ夢だというほうが自然な気さえしてくるから、不思議だ。
「(あんなリアルな夢、初めて見たなあ……)」
そんなことを考えながら梓は早く店に戻るために、慌てて準備をし始めた。