参拾参 逢瀬
またあの夢だと、直感的に哀はそう思った。
理由は単純。最後に残った記憶がベッドに入るところまでだったためである。
しかもこれは"あの"夢だ。極度に疲れた時や寂しい時に限って見る、いつもの夢。もう何度も見た、起きるのが惜しくなる明晰夢。哀はぼんやりとため息をついて、テーブルに頬杖をつきながら遅れてくるあの人を待つ。いつものように。
ただ今日は、いつもの夢とどこか違っていた。現に哀が今いる喫茶店はあの日の喫茶店とは似ても似つかないレトロな空間だし、なにより自分の姿が宮野志保ではなく灰原哀のそれなのだ。この夢を見る時は決まって宮野志保の姿だったのに。
それに、明晰夢にしては五感がはっきりしすぎている気がする。コーヒーの匂い、壁掛け時計の音、ソファの感触、目の前に置かれた水の冷たさ。そのどれもが本物と言っても過言ではないほどリアルだ。いつもは精々音がよく聞こえればいい方だったのに……。
まあだからといっても、今見ているこれを現実だと思うことは出来なかった。ベッドにもぐりこんだはずが気づけば知らない喫茶店にいたなんて、信じられるわけがない。
とにかく、いつもとは違う喫茶店で、いつもとは違う姿で、いつものように夢でしか会えないあの人を待っていた。
そろそろだろうかと壁掛け時計に視線をやった時、カロンと独特なドアベルが鳴る。さっと視線を向ければそこに立っていたのは案の定、彼女だ。
「遅いよ、お姉ちゃん」
いつもと同じセリフを口にしたところでふと気が付く。彼女の……明美の様子がおかしいのだ。いつもなら小さく笑って謝りながらすぐに向かいのテーブルに座る。だが今日は。まるでここに哀がいることが信じられないといったように目を驚愕に見開き、時間がそこだけ止まってしまったかのように固まっているのだ。
「お姉ちゃん……?」
そっと口を開けば、明美はずかずかとこちらに歩み寄り、何も言わずに哀のことをぎゅうと抱きしめた。驚きのあまり思わず呼吸を忘れて固まってしまう。
いつものシナリオに無いはずのハグに驚いたことも確かだが、どちらかといえば明美のぬくもりや感触のリアルさに驚いていた。ふわりと揺れたロングヘアからは、普段彼女が使っているシャンプーの香りが控えめに香る。密着した肌は柔らかくほんのりと熱を持ち、きちんとしたぬくもりをこちらに伝えてくる。どくどくと彼女の心臓の音まで聞こえそうだ。
ぎゅっと抱きしめていた明美が少し力をゆるめて顔をあげる。その瞳は今にも崩れてしまいそうなほどたっぷりと水分を含んで潤んでいた。
「本当に、触れる」
か細く震える声で、ぽそりとそんなことをつぶやく。そして再びぎゅっと、腕の中の哀を強く抱きしめたのである。哀はよくわからずに、ただぽかんと彼女に抱きしめられることしか出来なかった。なんだか、いつもの夢と違いすぎないかしら。そんなことを思いながらそっと彼女の背中に手を添える。
ひとしきり抱きしめると、彼女はすっきりとしたいつものような笑顔で哀に微笑みかける。哀の傍を離れ、向かいの席に座った。慣れたようにふたりぶんのブレンドコーヒーを注文する。
「ここのコーヒー美味しいのよ。なんだか味が優しくて」
「へえ……」
ニコニコと楽しそうに言う明美の言葉に、哀は曖昧に相槌を打つ。明美がこの店を知っていることに少しだけ驚いたのだ。客が彼女たち以外誰もいないせいだろう。程なくしてコーヒー二杯がテーブルに運ばれてくる。運んできた店員に小さく礼を言って、明美はそれを受け取った。哀も同じように受け取る。ふわりと漂う香りを楽しんだ後でカップにそっと口をつけ、一口含む。思わず目を開いた。
「美味しい……」
「でしょ?」
嬉しそうに明美は笑う。それと同時に哀は、味覚まで感じるのかとカップの中で渦巻く黒々とした液体を見ながら驚いていた。明美は哀と同じようにカップに口を付け、一口二口飲み下す。そしてカップから口を離して小さく呟いた。
「うん、やっぱり美味しい」
そのホッとするような笑顔。こちらまで力が抜けてしまいそうなそれを見て、哀は思わず笑ってしまった。
コーヒーカップをソーサーに置きながら明美は哀に尋ねた。本当に他愛も無いこと。夢の中で何度か話したようなことだ。哀はいつもの夢のシナリオに戻ったことにどこかホッとしつつ会話を楽しむ。すると明美は唐突に言った。
「ねえ志保、小学校は楽しい?」
「え?」
思わずはたと動きを止める。夢の中でそんなことを聞かれるのは初めてだった。そっと目の前の彼女を見れば、頬杖をつきながら至って何でもなさそうに微笑んでいる。
「それなり、だけど。……どうしたの、急に」
やっぱり今日の夢はおかしい。どこか胸がざわつくのを感じながら、たどたどしく返答する。すると明美は柔らかい微笑みを崩さずに言った。
「見てはいたけど、やっぱり志保の口から直接聞きたくて」
「……ちょっと待って。見てはいたけど、ってどういうこと?」
聞き捨てならない言葉に、哀は言及する。見てはいた? 彼女の言葉の真意がわからない。
「本当に、お姉ちゃんなんだよね?」
「失礼だな、本物だよ。本当にね」
確かめるように尋ねれば、明美は少し拗ねるように肯定した。
「じゃあさっきのは何? 見ていたけどって……」
「そのまんまの意味よ。……ずっと見てたの。この身体になってからね」
明美の言葉に、哀はぱっと顔を上げる。彼女と視線がぶつかったかと思えば、ゆるりと微笑まれてしまった。その表情を見てふと哀の頭の中にある考えが浮かぶ。
小学生の身体になってから、時折どこかから視線を感じることがあった。部屋の中や学校の授業中、少年探偵団の面々と遊んでいる最中……様々な場面で。当時はそのたびに組織の追手が迫ってきているのではと怯えていたが……。
もしかしてそれが、目の前の彼女だというのだろうか。
あまりにも突飛で、非科学的で、信じがたい話だが、つじつまが合わないわけではない。哀は自身の脳内に立てたその推測を、ゆっくりと口に出す。
「ねえ、お姉ちゃん、まさか……」
――本物の、幽霊なの?
最後まで言い切る前に明美は自身の人差し指を哀の口元に添える。し、と小さく息を漏らすように言えば、哀の瞳が大きく見開かれた。
「それ以上は言っちゃ駄目よ。思っていても、ね」
「……」
「だって寂しいじゃない。やっと話せたのに……やっぱり最後なんだって、思っちゃう」
「最、後……?」
言葉の真意がよく分からず、哀はどこか寂しそうに明美の言葉を繰り返す。明美は優しく頷いた。
「死んでからもずっとこの世に留まってたんだけど、そろそろ本当に成仏しないと私の身体が危ないって言われてね。それでいよいよあの世に行くってなった時に、朔さんたちが最後のチャンスをくれたのよ」
「朔さん?」
急に出てきた人物の名に思わず眉を寄せる。
「どうして彼……朔さんの名前が出てくるのよ?」
「ふふ、どうしてかしらね?」
思わせぶりに明美が悪戯っぽく微笑む。その真意がくみ取れない哀は不思議そうにするばかりだ。
すると唐突にドアベルが鳴った。そこに立つのは見覚えのあるひとりの男。色の抜けた金の髪を黒いニット帽で覆った長身の彼だ。その男はドアを開いてそこに立つだけで中に入ってこようとはしない。
「時間みたいね」
不意に明美はそう言って、がたりと席を立つ。そしてつかつかと出口の方へ歩いて行ってしまった。慌てて立ち上がり追いかけようとするが、身体が思うように動かない。立ち上がれはするが、身体が全く前に進まないのである。どんなに足を動かしても、まるで地面が逆に動いているかのように距離が縮まらない。むしろ広がる一方だ。
「待って、お姉ちゃん!」
必死で手を伸ばし、大声を出す。店の中なのにとかそんなことはすっかり頭から抜け落ちていた。
その言葉を聞いてか、明美がゆっくりと振り返る。幸せそうな笑みを浮かべて、言い聞かせるように言った。
「ありがとう志保。最後にここで会えて本当に良かった。名残惜しいけど……私はもう行くわ。寂しくなっても大丈夫。あなたには私と、心強い仲間がついているんだから。……だから、負けないで。生きて。私の分まで幸せになって」
店の扉の向こうは、白くて眩しい光で溢れている。その光で逆光になった明美の顔は少し影が落ちているように見えたが、表情は非常に晴れやかで穏やかだ。それから、と明美は忘れないように付け加える。
「目が覚めたらポアロに行ってみて。……彼が待ってるわ」
哀がその言葉の意味を理解するより前に、明美は扉の向こうに歩き出す。何度呼んでももう振り返ることはない。
扉の向こうの光が眩しくて、思わず目をつぶって……――
――気が付けば、ベッドの中だった。
は、と荒く息を吐く。
ゆっくりと上半身を起こして呼吸を整える。ちらりと時計を確認すれば午前9時。今日は土曜日だから学校は無いため問題はない。なんならもう少し横になっていてもいいくらいだ。
だが生憎そんな気にはなれそうにない。口の中に残る飲んだ覚えのないコーヒーの後味を感じながら、秒針に合わせてゆっくりと呼吸を繰り返す。
『目が覚めたらポアロに行ってみて。……彼が待ってるわ』
目が覚める直前の、彼女の言葉を思い出す。
哀はひとり決意を固めると、そっとベッドを抜け出した。
***
「ふあ……」
喫茶ポアロでいつものように働く朔は、テーブル席を拭きながら大きな欠伸をひとつ零した。それを見ていた梓が不思議そうに尋ねる。
「珍しいね朔くんが欠伸なんて……あんまり眠れなかったの?」
「はい。昨日はちょっと、バイトが忙しくて……」
ふわ、と欠伸をもうひとつ。その姿を見て梓はくすくすと笑った。
するとチリリンと音を立ててドアベルが揺れる。朔がぱっとそちらに視線を向ければ、そこに立っていたのは小さな少女。少年探偵団の一員である、茶髪の少女だ。
何も言わずにまっすぐ朔を見つめる。朔は何かを察したようにふっと微笑んだ。
「……来てくれてありがとう。早速で悪いけど、裏口で待ってて……すぐ行くから」
そう言ってバックヤードに姿を消した。