参拾漆 名前を明かさぬ浮遊霊
「いやあ、この身体になってから誰かに話しかけられるなんて初めてだから驚いたよ」
朔の目の前の男は感心したように笑う。その足元はわずかに透けていて、地面から数センチほど浮いていた。朔はといえばまた面倒なことが始まりそうな予感を察知したのか、早くもげんなり顔である。
そもそも朔が彼に話しかけた際、彼があまりにもはっきりとした姿でいるもんで、浮遊霊だなんて可能性は一ミリも頭の中になかったのだ。全く、とんだ誤算である。
だが浮遊霊を見つけこうして意思疎通が出来ている以上、本来の仕事をしないわけにはいかない。ため息交じりにエプロンのポケットから携帯を取り出した。携帯を耳に当て、目の前の男に話しかける。
「とりあえずあんた、名前は?」
「おお、触れる」
「ちょっ……何勝手に腕触ってんだ」
名前を尋ねたのにも関わらず、男はマイペースに朔の腕を触る。物に触れる感覚が久しぶりで新鮮だったのか、面白そうに何度も撫でさすっていた。いきなり触れられ、うざったく思った朔が腕を振り払う。
「ああ悪い。つい感動して」
「まあ気持ちはわからなくはないが……とりあえず勝手に触るのは止めろ」
「了解」
男は素直に了承し、両手を小さく肩のあたりまで上げた。そんな聞きわけのいい男を見て、はあ、と朔はため息を吐いた。そして気を取り直して再度同じ質問を投げかける。
「んで? あんたの名前は?」
「俺の名前……そうだな」
男は少し考える素振りを見せてから、何かを思いついたかのように小さく笑った。
「俺のことはスコッチって呼んでくれ」
「……スコッチ?」
目の前の男――スコッチの言葉に、朔は怪訝そうに眉を寄せる。
「スコッチって確か酒の名前だろ。あだ名みたいなもんか?」
「あだ名とはまた少し違うが……まあそんなものだと思ってくれていい」
スコッチの言葉になんとなく引っ掛かりを覚えながらも、朔はメモ帳にその名を書き記す。書き記したところで気を取り直したように「んで?」と言葉を続けた。
「本名は何て言うんだ」
「実は少しだけ気に入ってるんだ、スコッチって名前」
「いや、だから本名」
「"○○ッチ"って響きがなんだか懐かしいだろ」
「おいちょっと」
「酒の名前だってわかってるけど、名前にすると本当に一昔前に流行ったあだ名みたいだよなって」
「人の話を聞けよ!」
謎語りを始めたスコッチの頭をメモ帳ですぱこんとひっぱたく。ひっぱたかれた当の本人は頭を押さえながら「すごい……この姿になって初めて叩かれた……」とひとり感動しているようであった。早くも前途多難である。朔の胃が静かにキリキリと音を立て始めた。
「でも相変わらず壁には触れないんだよな」
「そりゃそうだろ。あんたこの世の住人じゃないんだし」
店の壁をすり抜ける自身の手を見ながらつぶやくスコッチを見て朔は言う。浮遊霊である彼がこの世にある物や人に触ることが出来ないのは至極当然のことなのだ。だがその言葉を聞いてスコッチは眉を寄せ、小さく首を傾げる。
「……じゃあなんで君には触れるんだ?」
「俺もこの世の人間じゃないからな」
何でもなさそうにさらりと言ってのける朔。だがスコッチはそういうわけにはいかなかったらしい。その猫のような釣り目を大きく見開いて固まってしまった。
「この世の人間じゃない? ま……まさか、君も俺と同じ幽霊なのか?」
「違うよ。俺は幽霊なんかじゃない。現にここの壁にも触れるだろ」
ほら、と壁に手をついて見せる。その手はすり抜けることなくきちんと壁に触れていた。それを見てスコッチの表情はますます困惑していく。
「じゃあ君はいったい……」
「俺は、あんたみたいな浮遊霊をあの世に連れて行くために現世に派遣された、ただの鬼だよ」
「……鬼?」
「そ、鬼」
触ってみろとばかりにちょいちょいと自身の頭を指さす朔。スコッチは恐る恐るニット帽越しに朔の頭へ手を伸ばした。そわそわと撫でさすり、頭頂部の角に触れた途端、驚いたようにびくりと身を固くした。
「……本当だ。角がある……」
「信じてもらえたか?」
帽子をなんとなく直しながら朔は尋ねる。そっと手を離したスコッチは曖昧に頷いた。受け入れられないが信じるしかない、といったような感じだろうか。するとスコッチは思い出したかのようにぽつりとつぶやく。
「もしかして、最近この辺りで聞いた"地獄からの使者"って……」
「……まあ、俺のこと、だな」
渋々朔はスコッチの言葉を肯定する。そう名乗った覚えはないが、広まった噂はもう否定できないものになっているため仕方がなかった。スコッチはへえ君が、と目を丸くする。
「噂には聞いてたけど、まさか君みたいな若い子だとは思わなかったよ」
「若い子、ねえ」
実際は朔の方がスコッチの何十倍も年上なのだが、ここで口を挟めばまた話が面倒な方向にこじれるかもしれないと思った朔はぼんやりつぶやくだけに留めておいた。そんな朔の心境は露知らず、スコッチは言葉を続ける。
「"地獄からの使者"って言うからにはもっとこう……怖い顔した厳つい男なのかと思ってた」
「噂を鵜呑みにしないでくれよ」
まじまじと見るスコッチの視線に耐えられず朔は困ったように笑って見せた。
「というかスコッチ……さん? 早くあんたの本名を教えてくれないか」
「悪いがそれは出来ない」
朔の問いかけをスコッチはすぱりと一刀両断してしまう。思わず朔はぱちくりとまばたきを繰り返した。
「なんで?」
「教えたら君、俺をあの世に連れ戻す気だろう?」
「まあ、そうだけど」
「じゃあ教えられないな。俺はまだあの世に帰るつもりはない」
ポケットに両手を突っ込んだまま、宙をくるりと回る。優しい笑顔を浮かべてはいるが、その中にどこか強い意志を感じるような、そんな表情をしていた。やっぱり面倒な展開になったなと頭の片隅でぼんやり思いながら、朔はスコッチに問いかける。
「……あんた、なんの目的でこの世に?」
「ちょっとゼロの様子を見に」
「ゼロ?」
朔は小さく首を傾げながらスコッチの言った単語を反芻した。彼の言った"ゼロ"という単語がさす物がイマイチ思い浮かばなかったためである。様子を見に、ということはこの世に存在する何かを指しているのだろうと推測できるが、あくまでそれは推測に過ぎない。
そんな朔の様子を見てスコッチが付け加える。
「ほら、あそこにいるだろ」
朔と視線を合わせるように屈み、ちょいちょいと店内を指さすスコッチ。つられるように朔もスコッチ同様店内を覗き込んだ。彼がさした指の先に居た人物は――
「透先輩?」
「そう、あいつがゼロ」
「……何をどうやったら透先輩がゼロになるんだよ」
彼の本名を思い出しながら朔は言う。安室透のどこにもゼロ要素は無いだろうに。するとスコッチはさらりととんでもないことを言い放った。
「安室透は偽名だ」
「は?」
反射的に朔はスコッチを見る。何を言っているんだとでも言いたげな表情を浮かべる朔の方には一瞥もくれず、スコッチは何でもない様子で続ける。
「あいつの本名は降谷零。だから下の名前を取って、"ゼロ"って呼んでるんだよ」
納得してくれたか?とでも言いたげにスコッチは朔に顔を向ける。だが朔はといえば、数秒前に目の前の男からもたらされた爆弾発言によってすっかり固まってしまっていた。
「偽名……? 降谷……? ちょ、急に何言い出すんだよ」
「まあいきなりそんなこと言われたら、驚くのも無理ないよな」
ポケットに両手を突っ込んで、ふわりと宙を漂いながらスコッチは言う。そんなスコッチとは対照的に、朔は未だに彼の言葉をきちんと飲み込めずにいた。
「……なんで、わざわざ偽名なんか」
「仕事柄、偽名を使うことも多いからな」
「仕事?」
その言葉を聞いて朔は頭を回し始める。確か彼の職業は喫茶店アルバイト兼私立探偵、それと黒の組織の構成員。私立探偵や組織はともかく、喫茶店アルバイトに偽名を使う理由がわからない。納得できない様子の朔を見て、スコッチは少しだけ考える様子を見せる。
「あんまり言いふらすのもアレだけど……まいっか。情報を悪用するような奴には見えないし」
「何の話だよ」
朔を置いてけぼりにしてふむふむと何かに納得すると、スコッチは口を開いた。
「あいつの本業は警察官。警察庁警備企画課に所属する公安なんだ」
「……はい?」
それからスコッチは、つらつらと聞かれてもいない事を話し始めた。
公安警察内でも優秀な彼が、とある犯罪組織に潜入捜査を任命されたこと。そのために表の顔として喫茶店アルバイト兼私立探偵を始めたこと。エトセトラエトセトラ。そのあまりにも現実味の無い話に、朔は口を半開きにしたままただただ突っ立って話を聞くことしか出来なかった。
そんな朔の表情を見て、スコッチは小さく笑う。
「やっぱり驚いたか? ちっともそんな様子見せないくらい演技上手いからなあ、あいつ」
「いや、……」
突然もたらされた衝撃の事実に、朔は視線をうろりと彷徨わせる。
そこで朔の頭にふと、数日前の出来事が頭を過った。警察庁から出てきた安室と偶然出会ったアレである。あの時安室は『ここを訪れたのは探偵の仕事のため』だと言っていたが、この話を踏まえると、もしかしなくても本業である公安警察の仕事の為だったのであろう。そしてあの時後ろから声を掛けた顔見知りらしき眼鏡の男はきっと部下か何かだ。
「そういうことだったのか……」
「? どうかしたか」
数日前のモヤモヤが解消され、納得したようにつぶやく朔。そんなことを知りもしないスコッチはよくわからないと言った風に首を傾げていた。
一通りそれなりに彼の話を納得できた朔は、再び話題を目の前の男に戻す。
「透先輩がゼロって呼ばれてたことは、わかった。だがそれとあんたがここに居続ける理由に何の関係があるんだ?」
「俺とゼロは昔からの幼馴染でさ。小学校からずっと一緒で、警察学校も同期。地位はそれなりに違うが、同じ部署配属だったんだ」
「じゃあ、あんたもその……公安警察、ってやつなのか」
「まあな。……といっても俺は潜入先の組織にスパイだってバレて、あいつよりも先に死んじまったんだけど」
スコッチは左胸のあたりの服をくしゃりと掴み、自嘲気味に目を細めて笑う。その表情は寂しさや悔しさが入り混じった、複雑でどこか儚げなものになっていた。
「この間、長引いてた死後の裁判がやっと終わって、天国行きが決まったんだ。そんでしばらく天国にいたんだけど……どうせやることもないし、あいつの様子を近くで見守りたいと思って、ここに来たってわけさ」
「……ちょっと待て。あんたまさか、鬼灯さんが言ってた天国からの脱走者……?」
スコッチの言葉に朔はふと思い出したかのように言う。
というのも数日前、鬼灯から朔にとある連絡メールが入っていたのだ。
『天国から亡者が逃げ出しました。米花町方面へ逃走したと思われるため、見つけ次第あの世へ連れ帰ってください』
と。
メールに添付されていた資料には名前しか書かれていなかったが、恐らくこの男で間違いないだろう。なんせ『天国行きが決まってからここに来た』とたった数秒前に自供したばかりなのだから。
朔の言葉を聞いたスコッチは先ほどの儚げな表情から一変、ぎくりと固まったまま顔をさっと青くする。まるで悪戯がバレてしまった子どものようだ。
「い、いやあ。知らないなあー。人違いじゃない?」
あからさますぎるほど動揺する素振りを見せるスコッチ。視線はあちこちに泳ぎ回り、一向に朔と目を合わせようとはしない。朔はふうん、と相槌を打ち、さらなる追い打ちをかける。
「じゃあそうじゃないって証拠見せて」
「……証拠?」
「そう。正式に現世に降りてきたってんなら、現世滞在ビザを持ってるはずだろ? それを見せてくれたら信じてやるよ」
早く出せとばかりに右手を差し出す。その表情は、冷汗をつたつたと垂らし始めたスコッチとは対照的に余裕に満ちている。
そして次の瞬間、スコッチは朔にくるりと背を向けて一目散に駆けだした。
だが素早く反応した朔が彼の手首をがしりと掴んで離さない。
「脱走者確定、だな」
「離してくれ! 俺はまだ天国に戻りたくない!」
「観念しろ。浮遊霊ごときに俺の手が振り払えると思うな」
スコッチが朔の手から逃れようともがくが、朔がそれを許すわけがない。ギリギリと徐々に握力を強めていくと掴まれたスコッチが奥歯を噛みしめるような声を漏らした。
朔はそんなスコッチに構うことなく携帯を操作する。彼が本当に天国からの脱走者だというのなら話は早い。一刻も早く凩を呼んで、彼をさっさと天国に連れて行ってもらわなくては。
片手で携帯電話を操作し、耳に当てる朔から逃れようとスコッチは必死に腕を引くがびくともしない。
「いいから大人しく――」
「随分長い電話だねえ、朔くん?」
不意に降って沸いた第三者の声に、朔とスコッチ思わずぎくりと動きを止める。
ふたりがおそるおそる振り返ると、そこには腕を組んで仁王立ちする安室の姿があった。表情はいつものように優しいが、その一方で目は一切笑っていない。背景に般若が見えそうだ。朔は喉の奥からヒュッと隙間風のような悲鳴を小さく上げる。
「と、とおるせんぱい」
「まったく……堂々とサボりか?」
「すみません、その、切るタイミング、見失っちゃって……」
ため息交じりに安室は言う。朔は困ったように笑いながらたどたどしく謝罪の言葉を述べた。逃げ出す隙を伺っていたスコッチは突然現れた安室に向かってしきりに話しかけている。だがそれは一切安室には届いていないようだ。まるで迷子のような表情を浮かべながら、スコッチはめげずに何度も安室へ声をかける。
朔はそんなスコッチを横目に、携帯電話が通話中になっているのを確認すると「ごめん、とりあえず後でかけ直すから!」と一方的に告げてから電話を切った。
「次からは気をつけるんだよ?」
「はい、了解ッス」
素直に返事をしながら、すっかり安室に話しかけることに夢中になってしまっているスコッチの手を強めに握る。ミシリという骨がきしむ音と鋭い痛みを察知し、素早く振り返ったスコッチの目を、安室には気づかれないよう真っすぐ睨みつけた。
『店の前で待ってろ。逃げたら承知しねえからな』
そんな念の込められた視線を受け取ったスコッチはぶるりと一瞬身震いをし、カチコチに強張った表情のままこくこくと何度も頷いていた。
***
店内に戻り、しばらく業務をこなしていると不意に安室が話しかけてきた。
「そう言えばさっきの電話、誰からだったんだい?」
「へ?」
そんなことを聞かれるとは思っていなかった朔は思わず上ずった声を出す。質問を投げかけた安室の方を見れば、特に探りをいれるような様子は見られない。単純な興味なのだろう。何でもない風を装い、作業の手を止めることなく安室に質問を返した。
「……なんで急にそんなことを?」
「ほら、店の前で随分長いこと電話していただろう? 店内から僕も何となく見てたけど、かなり身振り手振りをくわえて話し込んでいたから一体誰と話してたのかなって」
「なるほど……」
安室の言葉に朔は小さく表情を引きつらせる。電話をしていたのは確かに店の窓のすぐ傍だった。その上スコッチに指をさされて一度店内を覗き込んだりもしたため、余計に気になっていたのだろう。
「それで? 一体誰なんだい?」
「あー……いや、ただの知り合いッスよ。久しぶりに電話かかってきて、ついうっかり、話が弾んじゃって」
テーブルを拭きながら何の変哲もない返しをする。
本当は、安室の幼馴染を名乗る浮遊霊の男を天国へ連れ戻そうとしたのだが……そんなこと、本人の前で口が裂けても言えるわけがない。
朔の返答を聞いて、安室はちらりと横目に朔を見ながら「ふうん」と声を漏らした。