参拾捌 苦肉の策とお人好し



 ポアロでの業務が終わり、梓に挨拶をして朔は店を出る。午後九時過ぎ。辺りはすっかり暗くなっていた。
 バイト自体はこれで終了なのだが、まだ重要で面倒な仕事が残っているのを再認識し、朔は小さくため息をついた。

「店の前で待ってろって言ったのに……」

 昼間の彼の姿が見えず、探しに行こうかと大通りへの一歩を踏み出しかけたその時。聞き覚えのある声が微かに聞こえ、朔は足を止める。声のする方へ向かってみると、店のすぐそばの裏路地に昼間の彼――スコッチがふよふよと宙に漂っていた。だがその近くにもうひとり、呼んだ覚えのない姿がある。

「へえ、凩さんって本当にいろんなこと知ってるんだな」
「ま、無駄に長生きしてる分、いろんな知識も増えちまうのさ」
「……何やってんだお前ら」

 呆れたように目を細め、携帯電話を耳に当てながらふたりに話しかける。凩は朔に気が付くと二カッと笑って「おつかれさん」と言った。朔の表情はいっそう険しくなる。

「なんでいるんだお前」
「お前からの電話を貰った時に、電話の向こうから安室ってやつの声が聞こえたもんだから、なんとなく気になって店まで来たんだ。んで、店の前で青ざめた顔で突っ立ってたこいつと出くわして、今に至るってわけよ」

 すっかり打ち解けたらしいふたりは目配せをしてにやりと笑う。なんとなく不快感を覚えた朔だったが、それをなんとか押し殺して冷静に凩に言った。

「……とりあえず凩、こいつが例の天国からの脱走者だ。早くあの世に連れて行ってやれ」
「もう連れてっちまうのかよ」

 ええー、と不満げな声を漏らしながら凩は唇を尖らせる。

「事情が事情だし、もう少しぐらい現世を堪能させてやってもいいんじゃねえか?」
「何言ってんだ。鬼灯さんからも言われてただろ? 天国からの脱走者はさっさと捕まえてあの世に連れて行けってな。それに、この人ばっか贔屓してらんねえよ」

 至極正論を突き付ける朔。だが凩は未だに不満げだ。うだうだとしたその態度がますます朔の神経を逆撫でしていく。ぴしりと青筋を浮かばせながら朔はわずかに語気を強めた。

「お前ほんといい加減に……」
「んじゃわかった。一度こいつをお前の家に連れて行こう」
「なんでそうなる!」

 名案だとでも言いたげに提案する凩に間髪入れず朔が突っ込む。その眉間にはくっきりとしわが寄っているが、凩はそれにまったく気づいていないような態度を見せていた。ふわふわと宙を漂いながらへらへらと笑っている。

「お前を待ってる間にこいつの話を聞いてたんだけどよ、是非お前にも聞かせてやりてえなって」
「……俺は別に、こいつの話に興味は」
「んじゃそういうことで、先行ってるぜ朔」
「っ! おい待て! 凩!!」

 朔の返答を聞くよりも先に凩は大狐の姿になり、スコッチをくわえて大空へ駆けだした。あっという間に姿が見えなくなる。
 その場にたったひとり取り残された朔は重々しいため息を吐きだし、痛む頭を押さえながら自宅へと急いだ。


***


 過去最速の速さで自宅に戻り、部屋に駆け込む。勢いよくリビングへと続く扉を開ければ、ソファでくつろいでいた凩がにやりと笑った。

「遅かったな」
「勝手にくつろいでんじゃねえよ狐野郎」

 ばたんと苛立ちを隠さずに扉を閉める。どさりと鞄を投げ出すようにソファに置くと、ちらりと視線を動かした。視線を向けた先にいるのは、フローリングをぺたぺたと歩き回りながら感動した表情を浮かべているスコッチである。

「あんたも、地面に触れる感覚が久しぶりなのはわかるけど、あんまり歩き回らないで」
「わ、悪い。つい嬉しくて」

 窘められたスコッチはどこか恥ずかしそうに顔を赤らめて、小さく笑いながら視線を逸らした。数歩歩き、凩の隣に座る。その身が沈む感覚も久しぶりだったのだろう。目を輝かせる様子を見て、凩は小さく笑った。

「で? あの世に帰る決心は出来たか。諸伏景光さん」

 向かい合うようにソファに腰かけた朔はスコッチに向かって言う。それを聞いた途端、スコッチは驚いたようにびくりと肩を跳ねさせた。

「いっ……いつの間にフルネームを」
「鬼灯さんからメールでな」
「ほおずき……?」

 聞きなれない名に小さく首を傾げるスコッチ――もとい、諸伏。その様子を見て隣に座る凩がさらりと補足した。

「ほら、お前さんも会ったろ? あの世の裁判で閻魔大王の隣にいた、額に一本角を生やした黒い着物の鬼に」
「ああ……あの人か」

 その言葉に思い当たるフシがあったらしい。納得したような表情を浮かべ、なるほどと相槌を打つ。朔は話を再開した。

「その鬼灯さんから言われてんだ。『天国からの脱走者は見つけ次第、早くあの世に連れ帰れ』ってな。だからあんたを今すぐにでも連れて行きたいんだよ」

 そういう仕事なんでね、と朔は腕を組んだ。話の全容を理解したらしい諸伏はそうか、と言って目を伏せる。だが続いて出てきた言葉はでも、という否定の言葉だった。

「悪いな。俺はもうしばらくあの世に戻るつもりは無い。どうせ天国にいても暇なだけだし、それなら現世であいつの傍にいてやりたいんだ」

 その表情はどことなく申し訳なさを滲ませながらも、決意に満ちていた。

「……俺には、あいつのことを見守る責任がある」

 視線が落ちる。無音がこの場を支配する。
 朔は少しだけ躊躇いがちに、諸伏に質問を投げかけた。

「……なんでそこまで透先輩にこだわるんだよ」
「言ったろ。俺とゼロは幼馴染だって」

 諸伏は膝の上に置いていた手をぐっと握りこむ。

「あいつを、ひとりぼっちにしておくわけにはいかない」
「ひとりぼっち?」

 朔の言葉を聞いてか、少しだけ表情が和らいだ。だがその瞳には朔なんて映ってやしない。おそらく昔を思い出しているのだろう。ぼんやりと視線を定めずに、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

「あいつ、警察学校の同期で仲が良かったやつとか、同僚とか、たくさんの人を亡くしててさ。両親の話もある時期から聞かなくなったから多分……亡くしてるんだと、思う」

 静かな部屋に、彼の淡々とした声が響く。朔と凩は黙ってその声に耳を傾けていた。

「だから俺だけは、あいつの傍にずっといてやりたいって昔から思ってんだ。それなのに早々に死んじまってさ。別れの言葉も、何も言えないまま」

 彼の表情が悔しそうに歪む。ぐっと唇を噛みしめ、なんとか堪えるように言葉を続けていく。

「しかも死んだタイミングまで最悪だ。よりにもよって、バーボン……あいつの足音を組織の誰かのものだと勘違いして、そのまま拳銃自殺だなんて。そのせいですっかりあいつはライのことを誤解しちまうし。そのことを、ライはずっと黙ったまま、何年も、……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。バーボンってことは……あんた先輩と同じ組織に潜入してたのか」

 聞き捨てならないセリフに思わず朔が口を挟む。彼は一瞬拍子抜けしたような表情を浮かべた。

「店の前で言ってなかったっけか?」
「潜入先で死んだ、って言ってたから、どこかの組織に所属してるんだろうなとは思っていたが」

 そこでようやくつじつまがあったらしい朔は、はっとして独り言のようにつぶやく。

「じゃあ最初に名乗った、スコッチっていうのは……」
「そう、そこの組織での俺のコードネーム。これでもそれなりに優秀な方だったんだ。まあ、最後までゼロには全然敵わなかったし、スパイだってバレるのも早かったんだけどな」

 諸伏は自嘲気味に笑う。そしてどこか寂し気に、だからさ、と言葉を続けた。

「頼むよ。ほんの少し……組織の一件が解決するまででいい。その間だけ、あいつの傍に居させてくれないか? その後でなら喜んであの世に行く」

 その縋るような表情は今にも泣きだしそうで、朔は思わずたじろいでしまう。

「たとえこのせいで罪が加算されて、そのまま地獄行きになったってかまわない。どんな処罰だって受けるから」

 だから、頼むよ。
 諸伏は静かに頭を下げる。再び沈黙が落ち、朔はどうしたもんかと頬を掻く。ちらりと朔が隣の凩に目をやれば、凩は好きにしろとでも言いたげな表情を浮かべていた。朔は小さくため息をつく。

「…………俺も、弱いなあ」

 困ったようにわしわしと頭を掻くと、覚悟を決めたように目の前の彼に言った。

「分かった。組織が壊滅するまでの間、あんたのことを見逃してやる」

 その言葉を聞いた途端、ばっと音がしそうなくらい勢いよく諸伏は顔を上げた。その表情は驚きに満ちている。

「ほ、ほんとうに、いいのか?」
「ああ。ただ条件がひとつ」

 すっと人差し指を一本立てて、朔は条件を提示した。

「現世にいる間、俺の浮遊霊回収の仕事を手伝ってくれ。それで手を打とう」
「……そんなことでいいのか?」
「あんたなら米花町の土地勘もあるし、浮遊霊を捕まえるくらいなら出来るだろ。ま、俺としては、凩(こいつ)の他に人手が増えるだけで大助かりだがね」

 皮肉たっぷりに凩に笑いかける。当の本人は困ったように肩をすくめていた。

「んで? あんたはそれでいいか?」
「もちろん! 十分すぎるくらいだ」
「うっし。じゃあ契約成立だな」

 ようやく話がひと段落し、朔は水を飲もうと一度席を立つ。冷蔵庫の扉を開いたところで凩がすっと背後に立った。

「いいのか? 補佐官殿にナイショで、こんなことしちまって」

 手を止めてちらりと後ろを見るが、凩の表情はいつもと変わらず飄々としている。

「お前はある程度補佐官殿に信頼を買われてるとはいえ、ただの平獄卒。そんなお前が、捕えるべき脱走者を勝手に部下にするなんて、何言われるかわからねえだろ」

 凩の言葉を聞いて、朔は言葉を潜めて言う。

「……今度報告書を出しに向こうに帰る用事があるから、その時にでも上手く説得するさ。もともとあの人は裁判を終えて天国行きが確定してる亡者。あの世から脱走したのは確かに罪だが、『その罪を償うためにここでしばらくタダ働きさせる』とでもいえば、まあ納得してくれるだろ。納得しなかったら、どうするかはその時考えるけど」
「へえ」
「それと」

 ペットボトルを手に取り、冷蔵庫をばたりと閉めて言う。

「あいつの今の話聞いて突き放せるほど、俺は薄情者じゃねえよ。……それはお前が一番わかってんだろ」
「まあな」

 なら訊くなと言いたげに凩をひと睨みしてから、朔は人数分のコップを手に取ってリビングに戻る。久しぶりに味わうらしい冷たい水の感覚に感動している様子の諸伏だったが、ふと何かを思い出したかのようにコップをテーブルに置く。

「実はその、ひとつだけ問題があるんだ」
「問題?」

 諸伏の言葉に朔は眉を寄せる。諸伏はそっと、悩まし気にその問題を打ち明けた。

「その……俺がゼロの近くに行こうとすると、こう……透明な壁みたいに当たった感じがして、それより近づけなくなるんだよ」
「ああ、そりゃあのお坊ちゃんの霊力が相当強いせいだな」
「霊力が強い?」

 凩の言葉に朔は首を傾げる。諸伏も同じような表情を浮かべていた。凩は仕方ないなと説明を始める。

「生まれつき、生きてる人間はみんな霊力を持ってるんだ。その量についてはかなり個人差があるけどな。んで、その霊力の大半は本人をタチの悪い妖怪やら呪いやらを近づけないための結界……フィルターみたいなのに使われてるんだ」
「ってことは、透先輩は霊力がすごく強くて、そのせいで周りの浮遊霊を寄せ付けない、ってことか?」
「そういうこと」

 正解だと凩はにっこり笑う。

「しかもあいつは結構特殊でなあ、入った部屋にもその効果が付与されるんだ。つまり、普通の浮遊霊ぐらいなら、あいつに近づくどころかあいつのいる部屋に入ることすら出来ない。まあ、俺や朔みたいな、強力な霊力の持ち主ならその霊力の影響を受けずに近づくことができるんだけどよ」
「そうか、だから先輩がポアロに出勤してくると店内の浮遊霊が減るんだ……」

 朔はぼんやりとつぶやく。過去の出来事を今更思い出して納得していたのだ。だが諸伏は凩の話を聞いて浮かない顔をしている。

「でもそれなら、俺は建物に入られたらゼロに近づけないってことだよな」
「なあに、心配なさんな」

 懐から一枚の紙をぴらりと取り出す。そして何かを企むかのように口の端を吊り上げて笑った。

「ひとつ、俺にいい考えがあるぜ」


***


「あ、先輩。エプロンの紐、解けかかってる」

 次の日。昼頃に出勤してきた安室の背を見て朔は言った。それを聞いた安室は、後方の朔に視線をやりながら背中に手を回す。

「え、本当かい? 全然気づかなかった」
「いいッスよ先輩、両手塞がってるなら俺が結びますよ」

 そう言って、朔は店内の誰からも死角になる安室の後ろという位置で、音もなく一枚の紙を取り出した。短冊のような大きさの薄い和紙は、昨日凩が懐から取り出したものである。それは安室の背中に触れた途端、すうっと溶け込むように消えていった。それを見ながら紐を結び直すと朔は満足げにつぶやく。

「はい、これで大丈夫ッスよ」
「ごめんね朔くん。ありがとう」
「いーえ! これぐらいどうってことないッス!」

 そうして朔は掃き掃除を名目に店の外に出た。そこには諸伏がひとり立っている。朔は彼をちらりと見ると、何事も無かったかのように通り過ぎて掃き掃除を始める。そしてぼそりと、まるで独り言のようにつぶやいた。

「これでもう、大丈夫だろ」
「ああ。本当に、ふたりには感謝してもしきれないよ」
「あの紙で先輩の霊力を薄めた分、きちんと働いてもらうから頼んだよ」
「わかってるよ。そういう約束だからな」

 ドアを通り抜けられることを確認した諸伏は、もう一度朔の名を呼ぶ。

「……ありがとな」
「おう」

 朔は振り返らず、片手を軽く上げる。
 諸伏は晴れやかに笑って、ドアベルを鳴らすことなく店内へ足を踏み入れた。