肆拾陸 後悔先に立たず



 ちゅんちゅんと小鳥が鳴いている。爽やかな風が吹いている空は雲一つなく、見上げた誰もが「ああ今日はいい日になるだろうな」と思うほど清々しく晴れ渡っていた。

 そんな希望に満ちた朝に、部屋の中で頭を抱えて絶望に暮れる人物がいた。

「やっちまった……」

 目の前に広がるまごうことなき事実に、朔は信じられない思いでひくひくと顔を引きつらせる。洗濯機から取り出したその手に持っているのは、不格好な黒い塊……もとい、愛用のニット帽たちである。
 実は昨晩仕事から疲れて帰宅し働かない頭のままなんとか洗濯を試みた際、本来洗濯してはいけないタイプのニット帽までまとめて洗濯機に突っ込んでしまったのだ。そして洗濯を待っている間に寝落ちし……ついさっき目覚めたのである。

「もっとちゃんと確認すべきだったな……」

 早くも本日二度目のため息を零す。今日は幸いにもバイトは入れていない。だが予定は入っていた。バイトよりもよほど厄介な、重大イベントが。寄りにもよって今日こんなことになるなんて……と朔は数時間前の自分を呪う。だがどんなに頭をかかえたところで、目の前のニット帽は元には戻ってくれそうもなかった。そして、そうこうしているうちに部屋にピンポーンとチャイムが鳴り響く。それとほぼ同時にどんどんと扉を叩く音と、賑やかな声。

「朔お兄さーん!」
「準備は出来ましたかー?」
「もしかしてまだ寝てんのか?」
「トロピカルランド、早く行こうよー!」

 ……そう。今日は子どもたちと出かける日なのだ。


***


 聞いた人の心を躍らせるような楽し気なBGM。次はあれに乗ろうと人々のはしゃぐ声。ゴーッとジェットコースターが駆け抜ける音。チュロスの甘く香ばしい匂い。カラフルな風船を持ったキャラクター。ポップコーンの弾ける音。笑顔の溢れる人々(生死問わず)……。

 まるで夢の国のようだ。初めて訪れる遊園地を見渡しながら朔は思った。
 だが一方で本人の表情は生憎の空模様である。

「歩美、次はあれに乗りたい!」
「僕もです!」
「よし、じゃあそっちに行こうか」

 朔がそう言うと子供たちは元気よく走り出した。あんまりはしゃぐんじゃねーよ、と呆れたようにコナンと哀が続く。そのまた後ろを歩く朔は、慣れない帽子をもう一度深くかぶり直した。

 あの後大急ぎで準備を始めた朔は、無残な姿になってしまったニット帽の代わりに予備として持ってきていたキャスケットを被ることにしたのだ。だが思ったよりサイズが合っていないのかプカプカと浮いてしまい正直落ち着かず、今に至るというわけである。朔自身も、必要以上に帽子に触れているせいか挙動不審に見られているだろう自覚があった。
 本当はこういう時の為にホモサピエンス擬態薬を使うべきなのだが、それは先日別件で使用してしまったため、あと3回分ほどしか残っていない。何があるか分からない以上、今ここで消費してしまうというわけにもいかないだろう。

「(絶叫系とか乗りたかったけど、今日は難しそうだな……)」

 ため息を噛み殺しつつ、さっさと列に並んで行ってしまった子どもたちを見送った。ベンチで待ってようかなと思っていると、もうひとりの同行人に声をかけられる。

「乗らないんですか? アトラクション、随分楽しみにしていたでしょう」

 話しかけてきたのは工藤邸に住む大学院生、沖矢昴だ。今日は彼も同行人としてこの遊園地に遊びに来ていたのである。朔はベンチに座りながら歯切れ悪そうに言った。

「いや、今日はちょっと……」
「何かあったんですか?」
「あー……」

 ベンチの隣に腰かけながら尋ねる沖矢に、たははと朔は苦笑しながら頬を掻いた。別に隠すことでもないし、話題のネタにでもしてしまおうか。朔はそう思い、実は、と話を切り出した。

「持ってたニット帽、洗濯失敗しちゃって……全部縮んじゃったんス。それでなんか朝から気分が乗らないというか」
「なるほど、だから今日はいつもと違う帽子だったんですね」
「そうなんス。こんな失敗は初めてで、正直すっげー落ち込んでます」

 がっくりと朔は肩を落としながら言う。納得したらしい沖矢は朔の帽子を見ながらふむと頷いた。そして自身の経験も話して聞かせてくれる。

「そこまで落ち込むことはありませんよ。私もたまにやります。洗濯の失敗」
「昴さんも?」
「ええ。おかげで子供用よりも小さくなってしまったトップスが何着か……」
「わあ……それはお気の毒に」

 沖矢はすっと遠い目をして言った。朔は沖矢が洗濯に失敗している光景を想像してちょっと笑いそうになったのをなんとかこらえるので必死である。すると沖矢が思い出したかのように言った。

「そういえば」
「どうかしました?」
「いえ、朔さんの帽子を外したところを見かけたことが無いなと思いまして」
「そ、そうスか?」

 突然の方向転換に、朔は思わず言葉をつっかえさせた。なんだか話の展開がまずい方向に行ってないか、これ。そう思いつつも、沖矢は話すのをやめようとしない。

「初めて会った時も宅配業者の帽子を被ってましたし、この間博士の家で会った時もニット帽を被っていましたね。そして、今も……」

 意味深なことをいいながら、ちらりと朔に視線を向ける。細められた目の奥がきらりと煌めいた気がした朔は、ぞくりと身を震わせた。その探るような視線からいますぐ逃げ出してしまいたい。そんな考えが頭を過るが、もちろんできるはずもなかった。沖矢は朔の考えを知ってか知らずか、ぐっと眉間にしわを寄せた。

「もしかして……」

 そこで言葉を切る。見つめ合うふたり。これから何を言われるんだと身構える朔は、ごくりと生唾を飲み込んだ。
 そして、沖矢は満を持したように唇を割る。

「若年性の禿頭を患っていらっしゃるんですか?」
「……とくとう?」

 聞きなれぬ言葉に朔は目を丸くする。すると沖矢は何の悪びれもなくしれっと補足した。

「要するに若ハゲのことですよ」
「ハ、ハゲてないッスよ! 正真正銘ふっさふさ!!」

 侵害だとばかりに朔は顔を赤くしながら勢いよく立ち上がった。声も大きくなったため、周囲の視線が一斉にこちらを向く。それに気付いた朔は気恥ずかしそうに身を小さくしながら再びベンチに腰かけた。なんてこと言うんだこの人は……と思う反面、決定的なことを言われなくてホッとする。対する沖矢は何事も無かったかのような涼しい顔でそうなんですか、なんてのたまっていた。

「四六時中、室内でも外さないものですから、てっきり……」

 瞼の奥が、緑に煌めく。

「何か見られたくないものでも隠しているかと思っていました」

 どくんと音をたてて、大きく心臓が跳ねた。
 緩急のついたアプローチに、完全に油断していた朔はなす術も無い。

「あ、はは……」

 あまりにも図星すぎて、ひきつった顔のまま乾いた笑いを零すことしか出来ない。心臓はバクバクで、背中には冷汗がダラダラと伝っているのがわかる。なんとかその場を取り繕おうと、朔は苦し紛れに話を続けた。

「何スか、隠したいものって……。別に俺は、やましいものなんて何も隠してないッスよ」
「ホー……」

 沖矢は顎のあたりに手をやって少し考え込む様子を見せると、それならと一つの提案をしてきた。

「じゃあ見せてもらってもよろしいですか?」
「……はい?」

 朔は思わずぱちくりとまばたきを繰り返す。対する沖矢はその薄く浮かべた笑みを崩す様子はない。

「ちょっと興味がわいたんです」
「ええ何それ急すぎ」
「別にやましいものを隠しているわけじゃないんでしょう?」
「そう、スけど」

 思わずしどろもどろになる朔。すると沖矢はじゃあいいじゃないですか、なんて言いながら微笑んでいた。どこかで変なスイッチが入ってしまったのか、その考えは揺らぎそうもない。朔はどうしたものかと逡巡する。薬を飲む隙が何とかあればいいが、今ここで飲むわけにもいかない。かといってこのまま引き延ばしていても埒が明かないだろう。

 ……もしかしてこれは万事休すなのでは? 朔がそう思った、その時。

「あー楽しかったな!」
「ほんと!」
「次は何乗りましょうか?」

 興奮した様子で頬を赤らめながら子どもたちが帰ってきた。普段はなかなかに手に負えない子どもたちだが、今の朔には救世主も同然だろう。沖矢の視線が逸れた一瞬の隙を見計らって、朔が勢いよく立ち上がる。

「すみません! 俺ちょっとトイレ行ってくるッス!」

 沖矢の言葉を挟む隙を与えず、朔はさっさと駆け出して行ってしまった。すれ違う子どもたちがどうしたんだろうと不思議そうにしている中、コナンがさりげなく昴に尋ねる。

「昴さん……朔さんどうしたの?」
「いえ、大したことはありませんよ」

 そしてうっすらと浮かべた微笑みを崩さずに、小さくつぶやいた。

「少々からかい過ぎたか……」


***


 近くにあったトイレに勢いよく駆け込んだ朔は、そのまま個室に飛び込み鍵をかける。ここまでくれば大丈夫だろう。はあ、と大きくため息をついた。

「まさかここまで追及されるとは……」

 正直トイレに逃げ込む羽目になるほど追いつめられるとは思っていなかった。朝からバタバタしてそういうことにあまり気をつかえていなかったのだが、そんな言い訳が通用するほどこの町が甘くないのも朔は充分知っている。きっと今ごろ沖矢の口からコナンに先ほどの出来事について事細かに伝言ゲームが行われているのだろう。この後のことを考えると正直戻るのも億劫になるが、そういうわけにもいかない。

 とりあえず薬を飲んで、どう対処しようか考えながら戻ろう。そう決めた朔は背負っていた鞄に手をかける。そこでふと、とても懐かしい鉄錆の匂いが鼻についた。朔ははたと動きを止める。……なんだか嫌な予感がした。
 まさか、まさか……そう思いながら足元に視線を向けると案の定、隣の個室からどろりと血が伝ってきていた。

「まじか……」

 朔はこれからのことを考えて大きくため息をついた。