陸 先輩と呼ばせて
朝。記念すべきポアロ初出勤の日。
朔は気に入った紐の長いニット帽ではなく、スタンダードなニット帽を被り、少し緊張した面持ちで店を訪れていた。
従業員入り口前で大きく深呼吸を繰り返す。大丈夫大丈夫、俺は人間、俺は人間。何事も初めが肝心だというが、現世だろうがあの世だろうが、喫茶店店員だろうが獄卒だろうが、好かれる基本は変わらない。明るく! 元気よく!
「俺は田舎から最近上京してきた二十三歳フリーター、望月朔だ」
自分自身(の設定)を今一度見つめ直してから、よしと気合を入れていざ店内へ足を踏み入れる。
がちゃりと入ればあの時の女性店員が居た。彼女は朔に気付いて、ぱっと笑顔を咲かせる。朔はぴしりと立ち止まり、目を合わせ、少し緊張したような声だったがはっきりと言った。
「今日からこちらでお世話になります、望月朔です。よ、よろしくお願いします!」
がば、と音がしそうなくらい勢いよく頭を下げる。女性店員は面食らったように数回まばたきをし、ぷっと吹き出したかと思うと大笑いし始めた。予想外の反応に朔は顔を上げて驚く。
「え!? なんで笑うんスか!?」
「あはは、ごめんね! ちょっと驚いちゃって」
女性店員は笑いながら目じりの涙を拭う。
「初対面の時は結構自信満々に『バイトをもうひとり増やしませんか?』なんて言ってたから、ちょっと遊んでる感じのイマドキの若者って感じだったのに、実際はこんなに一生懸命で可愛い子だったなんて思わなくて」
「か、可愛い、スか」
思わず面食らってしまい、言葉に詰まる。
確かに「現世では(設定上)年齢的にも後輩になる立場が多いだろうから、出来るだけ年上に好かれるように、礼儀正しくしっかりやっていこう」とは朔自身も考えていたのだが、まさかそれが「可愛い」までいくとは思わなかった。というか最初の印象もなんだ、「ちょっと遊んでる感じのイマドキの若者」って。そんなこと思われてたのか。
朔がぐるぐる考えている間にも、女性店員はまだ余韻に浸るように笑っていた。
……最初の印象は悪くない、だろうか。
朔は内心ほっとしたように息を吐く。強張っていた肩が少しだけ緩んだ気がした。
「ああ、自己紹介してなかったね。私は榎本梓。よろしくね、望月君」
「は、はい! よろしくお願いします、梓先輩!」
「先輩っていうのちょっと照れるな……でも、悪くないかも」
へへ、と梓は照れたように笑った。
***
店が営業時間になり、朔と梓とマスターの三人でポアロの一日は始まった。支給のエプロンを装着し、実際に働きながら梓やマスターに店でのルールや接客のあれこれなんかを教わっていく。
だが、流石元あの世一の雑用係。言われた事の飲み込みも早く、かつ機転も利くと、バイト初日にしてマスターからお褒めの言葉を預かった。朔は噛みしめるようにお礼を言う。
実は、十年以上前に閻魔庁の食堂で手伝いをした以来の接客業務で、それなりに緊張していたのだ。そのため、他者から褒められることで「自分はうまくやれているのだ」と確認でき、少し安心したのである。それを見ていた梓も「やるじゃん望月君」とポンと背中を叩いた。……少し照れるなこれは、と朔は思いながらほんのり赤くなった顔を隠すように、ありがとうございますと笑った。
因みに、朝から晩まで居座り続ける浮遊霊の亡者たちは相変わらずわいわいしており、彼らもまた思い思いに喫茶店を楽しんでいる。合コンまがいの事をやっている者も居れば、見えないのをいいことに客にいたずらしまくっている者も居た。どうせこの世の物に触れないのだから意味がないのだが、見えるこっちの身にもなって欲しいとげんなりするばかりである。
「俺以外、梓先輩もマスターも見えてないんだもんなあ」
小声でひっそりとつぶやく。客の中にひとりくらい霊感がある人がいてもよさそうなのに……と思ったところで、いや、見えるからこそ店に来ないのかと真実にたどり着いた。霊感のある人にとって、米花町はかなり住みにくい町であろう。
朔としては正直、今すぐにでも彼らを縛って地獄へ送ってやりたいところなのだが、店はまだ営業時間中。「鍵締めを任されるようになるまで覚えとけよ」と内心悪態をつきながら、朔は彼らを渋々看過していた。
九時半ごろ。マスターが用事でちょっと出掛けており、かつ客が少ない時間が出来た。
梓は先輩後輩互いの親睦を深めようと会話を提案する。出身はどこだとか、今どこに住んでるのとか、初対面にありがちなそういう話だ。
その会話の流れで朔と梓が同い年だとわかると、梓は嬉しそうであったのと同時にどこか安心したような表情を見せる。朔は不思議そうに問いかけた。すると梓は、
「実は年上だったらどうしようとか思ってたんだよね」
と頬をかいた。
内心朔は「本当は俺の方が千年以上も年上だけどね」と思っていたが口には出せまい。「俺がもし年上でも、先輩であることには変わらないから別に気にしなかったと思うッスよ!」と明るく梓をフォローした。
「ついでなんで梓先輩、俺のこと苗字じゃなくて下の名前で呼んでくれませんか?」
「え? いいけど……どうして?」
「その……あんまり苗字は呼ばれ慣れてなくて」
今まで暮らしてたところではみんな顔見知りで下の名前で呼ぶのが普通だったとか、それらしいことを咄嗟に並べれば梓は「わかった、じゃあ朔君って呼ぶね」と特に何も疑うことなく微笑んで了解した。
……本当は、まだ朔自身が望月という苗字に慣れておらず、急に呼ばれた時に反応が遅くなると困るから、という単純な理由だったのだが。
時は流れ十一時。この辺りからじわじわと客が増えだす時間だ。流石にここからは三人で(しかもそのうち一人はバイト初日である)やりくりするのは大変じゃないか? そう朔が思っていたところで梓が「安室さん!」と明るい声を上げた。
朔が視線を梓に向けると、梓の視線の先――スタッフルームから一人の男性が現れる。
日本人離れした褐色の肌、糸のように艶やかな金髪、ブルーグレイの大きな瞳、高身長でしっかりした身体つき、それに爽やかな笑顔。
――イケメンだ。まごうことなきイケメンだ。
しかも、見かけたら思わず見とれてしまうレベル。
「すみません、ちょっと探偵の方の仕事で一時間遅れてしまって……おや」
イケメンが朔のことに気付いたようだ。朔ははっとして頭を下げる。
「きょ、今日から、働かせてもらってます、望月朔です!」
「新入りのバイトの方ですか。初めまして。僕は安室透と言います」
わずかに上ずった声を気にも留めず、よろしく、と爽やかに微笑む安室。よろしくお願いします! 透先輩!と朔は再び頭を下げた。そこへ梓が会話に混じる。
「安室さんもこれで先輩ですね」
「そうですね……こんな可愛い後輩が出来て僕も嬉しいですよ」
「先輩らしいところ、朔君に見せてくださいよ?」
「ええ、もちろん」
ふふ、と安室は微笑んで腕まくりした。
お昼時ということもあり、店は大繁盛でてんてこ舞い。朔はホール担当だったため、客の一声であっちへこっちへ駆け回った。
時々常連だと思われるような人に「新入りさん? 頑張ってね」と声を掛けられ、そのたびに笑顔で応対する。誰かとコミュニケーションをとるのは嫌いじゃない。
因みに梓とマスターは厨房中心、安室は厨房とホールを半々くらい、といったところだろうか。ホールと厨房を行ったり来たりしている安室が接客するたびに、どこからか黄色い呟きが聞こえるので、朔はこの店に訪れる女性客の目的がなんとなくわかった気がしていた。
「あれ」
そこでふと、朔はあることに気が付く。浮遊霊の数が減っているのだ。
朝は席を埋め尽くす勢いで居座っていた彼らだが、今は片手で足りるほどしかいない。席を埋め尽くしているのはほとんどが現世の人たちである。浮遊霊は基本的に現世の人間に触れることはできない。そのため、人が増えたからといって、この場から離れなければならないなんてことはないだろうに。
「……どうなっているんだ?」
「朔君!これ運んで!」
「っすみません今行きます!」
梓の声に大きく返事をした。
そうして慌ただしく働いているうちに、朔はすっかり浮遊霊が減った謎を頭の中から追い出してしまっていたのである。
十三時過ぎになって、ようやく客足が落ち着いてきた。朔と梓は買い出しのために、よく利用するのだというスーパーへ向かう。
「朔君あと一時間?」
「そうッスね……あっという間でした」
「お昼時は忙しいからね」
正直今まで三人でやってこれたのがすごいと思うくらい忙しかったのだが、大変だった?と尋ねられ、まだまだッスよ、と明るく返した。スーパーではアイスクリームや小麦粉、パスタや調味料なんかを買い足していく。特に大量に買ったのは食パンだ。
「大人気でしたね、透先輩のハムサンド」
「そうなのよねーあの人気は凄いわ」
そろそろ中毒者が出るかもね、とおどけたように言う。
安室が考案したのだというこだわりが詰まったハムサンドは、ポアロのメニューの中でも飛びぬけて人気だった。かくいう朔も初めて食べたあの日からすっかり虜である。
安室がハムサンドの考案者だと分かった瞬間思わず「ハ、ハムサンド先輩……!」と目を輝かせながら歓喜の声を漏らしてしまい、その際安室に「その呼び方はちょっと……」と困ったような笑顔を向けられたのは完全に余談だ。
買い物が終わると丁度シフトが終わる時間だった。梓と安室とマスターにお先に失礼しますと挨拶をして、ポアロを後にする。最初は接客に多少不安があったものの、今日一日ですっかり慣れてしまった。バイト初日にしては上々な滑り出しではないだろうか。一緒に働く人たちも優しいし。
「さて」
歩きながら愛用の手帳を開く。この後は十九時から配達員のバイトの予定があるのみ。ちらりと時計を見れば十四時をちょっと過ぎたころ。まだまだ時間に余裕はある。そうなればすることはひとつ。
「本業に取り掛かるか……」