肆′ "狐狗狸さん"
朔の言葉に、バーボンはわずかに眉を寄せる。組織の医療機関でなくわざわざ別の場所に向かわせるということは、そこに協力者でも抱えているのだろうか。ほんの少しだけ好奇心が顔を出す。
「……わかりました。朔くん、住所言えますか」
ゆっくりでいいですから、と付け加えた。朔の言葉を聞き洩らさぬよう、車内は今一度静寂に支配される。朔は一度荒く息を吐いてから、小さく震える唇を動かした。
「……江古田町、――」
途切れ途切れになりながらも最後まで言い終わると、もう一度苦し気に息を吐いた。それを聞いていたライが静かに言う。
「了解。すぐに向かおう」
***
朔が言った通りの場所に向かうと、そこには医療施設ではなく一件の喫茶店が構えていた。
「『胡蝶の夢』……こんな場所に喫茶店なんかあったのか」
スコッチが外観を見ながらぼそりと呟く。一時的に店の前で車を停止させると、ライは後部座席を振り返りながら言った。
「ふたりは先に朔をそこへ連れて行ってやれ。俺は車を置いてくる」
「わかりました」
ライの言葉に素直に応じるバーボン。苦し気に呼吸を繰り返す朔の身体に優しく触れる。
「朔くん、着きましたよ」
「ありがとう、ございます……」
肩で呼吸をしながら朔は小さく笑みを浮かべる。そのままふらふらと立ち上がろうとしたのを慌ててバーボンが支えてやった。足元が覚束ないなりになんとか車から降りると、バーボンの肩を借りながら店へ向かう。スコッチが先に扉を開き、三人は店の中に足を踏み入れた。
カロロン、と軽やかにドアベルが店内に響く。
店に入って奥の方にはカウンターがあり、カウンターの奥の棚には各地のコーヒー豆が壁を埋め尽くすようにずらりと並んでいた。右手側には四人ほど座れそうなテーブル席が二つあり、柔らかい色合いのテーブルや椅子が仲良く並んでいる。頭上はオレンジの温かい光を灯すランプが吊るされ、壁にはメニューボードと思しきプレートがかかっていた。あちこちに少し古びた外国のポスターも貼ってある。
そのカウンターの向こうにはひとりの女性が立っている。栗毛色の三つ編みを肩に垂らした優しそうな女性だ。この店の店員だろうかとバーボンは思う。その向かいの席にはスーツ姿の男がひとり座っていた。
「いらっしゃいま……せ……!?」
こちらに気が付いた女性がにこやかに挨拶してくるが、朔を見た途端に血相を変えてカウンターの向こうから飛び出してきた。
「ちょっと朔くん! この怪我は……」
「ごめ……し、おり、さ」
「ああもう! 君はまた無茶して〜!」
まったく!と女性は朔を肩に担ぐ。
「あの……」
「すみません少しだけ待っててください! すぐ戻りますから〜」
栞はにこやかにそう言うと、ふたりをほったらかして店の奥に消えてしまった。思わずふたりは目を見合わせる。
「……とりあえず座って待つか」
「そうですね」
スコッチの提案にバーボンは素直に頷く。カウンター席にふたりで並んで座ると、先にカウンターに座っていた男がふっと息を漏らすように笑った。
「すみません、騒がしくて」
「いえ、お気になさらず。私は特に気にしておりませんから」
バーボンが謝るが男は微笑みを絶やさずにそんなことを言う。スコッチはといえば、一メートルも離れていないはずの男の顔をきちんと認識することが出来ず、疑問に思いながら何度も目をこすっていた。すると男は思いついたように提案する。
「そうだ。せっかくですし何かお出ししましょうか」
「ああいや、僕たちはただ彼を待っているだけなので、そんな」
「そうですか。まあ彼女のことですから、もう少しすれば戻って来ると思いますよ」
男は慣れた手つきでコーヒーカップを手に取り、口元に運ぶ。思わず見とれてしまいそうなほど、一連の動きは滑らかで優雅だった。
「ここの常連なんですか」
「ええ。通い始めてもう十年以上になりますね」
「そんなに」
思わず目を丸くするスコッチ。
「今ではもう、定期的に来ないと落ち着かなくなってしまって」
「はは、すっかり夢中ですね」
そんな会話を繰り広げていると、店の奥に続く扉が開いた。中から出てきたのは女性店員ひとりである。それを確認するなり男がガタリと立ち上がった。
「それでは私はここで……ごちそうさまです、栞さん」
「はーい。また江古田町に来た際には是非いらしてくださいね、××さん」
「ええ、勿論」
店員に名前を呼ばれ、男は柔らかく微笑む。こんなに至近距離にいるはずなのに名前が聞き取れなかったふたりは同時に顔を見合わせた。だが男はそんなふたりに構うことなく、お代を置いて席から離れる。
男と入れ違いになるようにしてライが店内に入ってきた。
「随分遅かったですね」
「思った以上に手間取ってな。……朔はどうした」
「それをこれから彼女に聞こうとしていたんです」
そう言われたライはちらりと視線を女性店員に向ける。女性店員はにっこりと微笑み、ライをカウンター席に座るように促した。黙ってスコッチの隣に腰かける。
「朔くんの容体は……」
「とりあえず処置はしましたので、一先ず大丈夫ですよぅ。わざわざありがとうございました〜」
「いやいや、僕たちはただ彼に言われるがままに連れてきただけで」
ぺこりと頭を下げる女性店員に困ったように謙遜するバーボン。その隣でスコッチがホッと胸を撫でおろしていた。
「朔くんからよく話しは聞いてましたけど、お会いするのは初めてですねぇ。スコッチさん、バーボンさん、ライさん」
その言葉を聞いた途端、三人はぴたりと動きを止めた。そしてその表情が徐々に険しいものに変化していく。
「その名前……あなた、何者なんですか」
やっとのこと口を開いたのはバーボンだった。その声はわずかに硬い。瞳はしっかりと女性店員をとらえており、一挙一動も見逃さないという力強さが感じられた。だが女性店員はそんな視線をものともせずのんびりと言ってのける。
「そんなに怖い顔しなくても大丈夫ですよう。実は私、こういうものでして」
そう言って女性店員は右手をすっと持ち上げると、親指、中指、薬指をくっつけ……いわゆる狐を作った。それを見た瞬間、バーボンとスコッチはあっと声をあげる。
「「"狐狗狸さん"!?」」
「……こっくりさん?」
声を揃えたふたりに対し、ライはいまいちピンと来ていないようだ。ふたりの言葉の音だけを反芻する。するとスコッチがさっと補足した。
「"狐狗狸さん"っていうのは、日本で有名な情報屋の通り名なんだ。依頼料さえきちんと払えばどんな相手でも取引に応じる……限りなく中立の立場を保った凄腕の情報屋ってところから、"狐狗狸さん"って呼ばれてるらしい。顔を隠した取引にしか応じないせいで、その姿を見たものは一度もいないと聞くが……」
「それがまさか……こんなところでお目にかかれるとは」
「というかそもそも、女性だったなんて知らなかった」
「ホー、なるほどな」
ふたりはしみじみと呟く。女性店員は照れたように笑いながら頬を掻いた。
「そんなに褒められると照れちゃうなあ……えへへ」
「でもそんな"狐狗狸さん"がなぜここに? 朔くんとどんな関係なんですか」
「朔くんとはまあ……ちょっとした知り合いでねぇ、陰ながら色々サポートをしてたのさあ」
こぽこぽとコーヒーを注いだカップを三人の目の前に差し出す。
「彼の尋問に口出ししてるのも私だしねえ」
「……成程。一体あいつはどうやって尋問相手の個人情報を入手しているのかと思っていたが、情報屋の力を借りていたのか」
「そういうこと〜」
納得したように呟くライの言葉に女性店員はにっこりと微笑む。
「怪我の手当てもサポートの内のひとつですか」
「そう! あの子ああ見えて重度の医者嫌いでねぇ、大体の怪我は私が治してあげてるんだ〜 一応、そういう知識も持ち合わせているからねえ」
バーボンに説明し終えると、あっと女性店員は思い出したように目を見開く。そうして、困ったように眉を下げて口元に人差し指を当てた。
「でもこのことは内緒にしてて欲しいな? 朔くんもこのことは組織に一切伝えていないみたいだから」
小声でつぶやく。バーボンはちらりと目配せした。スコッチは誰にも気づかれないくらい小さく頷く。
「黙っているのは構わないのですが、条件を付けても?」
「ほほう〜 どんな条件かな?」
面白いとばかりにバーボンの言葉の続きを待つ店員。バーボンの蒼い瞳が勝気にきらりと光る。
「今後、あなたに是非とも仕事を依頼したいので連絡先を教えていただきたい」
にこやかにそう言ったバーボンの言葉を聞いた途端、女性店員は一瞬目を丸くする。そして三人と順に目を合わせると柔らかく微笑んだ。
「……なるほどねぇ」
女性店員はカーディガンのポケットから小さな栞を取り出した。真っ白い紙に小さな赤いリボンが結ばれたそれを三人に一枚ずつ渡す。
「これは?」
「私の……"狐狗狸さん"の名刺だよ」
「にしては何も書かれていませんが……」
裏表を注意深く観察しながらバーボンが呟く。うふふ、と女性店員は得意げに笑った。
「この紙には特殊な加工がしてあってねえ、端末のカメラで読み取ると私の連絡先がそこに入る仕組みになってるんだ〜 ただし一枚につき一回しか読み込めないから、自分の携帯で読み込んだ後にこの栞を別の人に渡しても意味ないから気を付けてね〜」
「情報制限は徹底しているというわけか」
「そういうこと〜」
栞を眺めながら呟いたライに、女性店員は右手で狐を作りながら得意げに言い放った。
「私はあくまで中立的な立場を徹底しているから、基本的に『どんな仕事でも』受け付けるからねぇ。口の堅さも保証するよ〜」
『どんな仕事でも』、という言葉を女性店員が少し強調して言えば、三人は表情に出さずに反応した。だがそのわずかに空気が変わった様子を肌で感じ取ったらしい女性店員は、内心小さく笑う。
(……本当に、『頼りになる先輩達』みたいだね、朔くん)
よく電話越しで嬉しそうに"先輩"の話を聞かせてくれる彼の声を思い出しながら、女性店員は唐突にぽんと手を打ち鳴らす。
「さて。今日は私が責任を持って朔くんを預かるから、君たちは安心してアジトに戻るといいよ」
「そういえばもう随分深い時間になってしまいましたね」
ちらりと時計を確認しながらバーボンは言う。その言葉を皮切りにスコッチがガタリと立ち上がった。
「今日は色々とありがとうございました、えっと……」
そこで不自然に言葉を途切れさせる。女性店員は察したように口を開いた。
「栞。私のことはそう呼んでくれると嬉しいなぁ」
「わかりました。栞……さん」
「ふふ。こちらこそありがとうスコッチさん。それからふたりもね」
***
次の日。
包帯まみれで共同のセーフハウスに戻ってきた朔は、地面に額をこすりつける勢いで三人に頭を下げていた。
「ほんとすみませんでしたご迷惑をおかけしましたほんとに……」
「気にすんなって、次の任務で取り返せばいいだろ?」
「そうですよ、元はと言えば僕を庇った結果の怪我なわけですし。……というか怪我の具合は大丈夫なんですか?」
「はい。完治にはもう少し時間がかかるみたいスけど、日常生活に支障は無いって言われました。仕事も、無理をしなければ大丈夫だと」
「そうか、なら支度をしろ。早速で悪いが次の仕事だ……行けるか?」
「ッはい!!」