伍′ 悪魔と言ったのは誰だったか
……おかしい。
こんなことは絶対に、おかしい。
今にも落ちそうな瞼を必死にこじ開けながら、バーボンは平静を装ってグラスを握る。
そんな彼の隣には既に力なく地面に転がっているスコッチ。それとさっきから頬杖をついて一点を見つめたまま動かないライ。
……そして、普段と全く変わった様子を見せない朔。
「バーボン先輩? なんか辛そうですけど……大丈夫スか?」
グラスを飲み干して朔は平然と言ってのける。心配そうに向けられる彼の視線には、これっぽっちも含みや企みは見られない。バーボンは「大丈夫ですよ」と無理に口角を引き上げた。
***
遡ること数時間前。
四人で同居するセーフハウスのリビングで、スコッチとバーボンのふたりは武器の手入れをしながらだらりと会話を繰り広げていた。一見ただの世間話だが、その実これは情報共有。彼らにしか分からない特有の隠語を駆使して、組織や公安での仕事についての話をしているのである。セーフハウスといえどもどこで誰が聞いているかわからない。そんなことを危惧してのことだった。
一通り会話を終えると、一足先に道具を片したスコッチがリビングにあるものを持ってきた。それは未開封のウイスキーボトルである。『Devil's whiskey』……直訳で"悪魔のウイスキー"と書かれたラベルが巻きつけられた瓶の中で、なみなみと揺れるそれは琥珀色に輝いていた。
「久々に飲まないか?」
にやりと笑うスコッチに、バーボンは頭の中で予定を確認する。そして特に断る理由が見つからないとわかると、ふっと口元に笑みを浮かべた。それを見て察したスコッチは嬉しそうにボトルをテーブルに置き、グラスを探し始める。バーボンは自身の使っていた道具を軽く片付けるとキッチンに向かった。冷蔵庫の中などを吟味し、つまみに出来そうなものを探す。うーんと考えながら散策するバーボンの背後からスコッチがひょっこりと顔を出した。
「何かありそうか」
「チーズとナッツと……あとはチョコレートだな」
「お、このチョコレート結構いいやつじゃん。誰が買ってきたんだこれ」
「さあな」
全て未開封なのを確かめると、バーボンはそれらと取り分ける様の皿を持ってリビングへ戻った。後に続いたスコッチは、球体状の氷が入ったグラスをふたり分テーブルの上に置く。そしてテーブルを挟んで互いに向かい合うようにして座った。早速開封しようとボトルを手に取ったバーボンがふと疑問を口に出す。
「そういえばこのウイスキー、お前が買ってきたのか?」
「いや。キッチンの隅っこに隠してあったのを引っ張り出してきた」
「……勝手に飲んで大丈夫か?」
「まあ、なんとかなるだろ」
スコッチは小さく歯を見せるように悪戯っぽく笑った。最近なかなか見ることがなかったその表情に、よっぽど飲みたかったのかと内心呆れながらバーボンはボトルを開封する。年季の入ったアルコールの独特な香りがふわりと辺りに漂う。グラスにとくとくと注げば、満月のような氷が琥珀色を受け止めてからりと転がった。それぞれ注ぎ終えると、ボトルを傍に置いて互いにグラスを手に取る。
「んじゃ、乾杯」
スコッチの後に続いてバーボンも乾杯、と口に出す。グラスが触れ合い、かちりと音を立てた。ほぼ同時にグラスに口づけ、舌の上にウイスキーを乗せる。芳醇な香りが鼻孔をくすぐり、口当たりも良くすっきりしていて飲みやすい。奥の方に感じる甘さも主張しすぎず、全体的にバランスの整った印象を受ける。
(この風味、きっとあいつ好きだろうな)
そう思いながらバーボンがちらりと視線を上げれば、案の定スコッチはわずかに目を細めていた。
「うま。こんな美味いウイスキー初めて飲んだ」
「僕も」
思わずもう一口。とても飲みやすいせいか、この勢いではあっという間に瓶を空にしてしまいそうだ。
「そのウイスキー、産地はどこだ?」
「ちょっと待て、今確認する」
スコッチに問いかけられたバーボンはグラスを置き、瓶を手にする。それを見てバーボンは思わず眉を寄せた。
「…………なんて書いてあるんだ?」
「お前でも読めないのか?」
意外そうに目を丸くするスコッチ。そしてバーボンの持つ瓶に視線を移した。じわじわと彼の眼が細められ、眉間にしわが寄っていく。そしてすっかり疑問に満ちた表情に変わってしまった。
それもそのはず。そこに書かれていたのは、見たことも無い言語だったのである。表のラベルはシンプルな英語だったため問題は無かったのだが、裏は全くもって異なる言語だったのだから驚きだ。
「何だこれ、何語かすら見当もつかん」
「僕もだよ。こんな言語……というか文字、初めて見た」
しばらくふたりで裏の文字を解読しようとしたが、どんなに調べても何語かすらわからない。一体何なんだとふたり首を傾げたところで玄関の鍵がガチャガチャと鳴り始める。そして数秒後に解錠音が響いた。
「ただいま帰りまし……ってあーーー!! 先輩たち! 何勝手に飲んでるんスか!!」
元気よく部屋の扉を開いた朔は、テーブルの上の開封されたウイスキーを視界に納めるなりドタドタとバーボンとスコッチに詰め寄る。ショックを受けてわなわなと震える朔に、スコッチは少し眉を下げて言う。
「あー、その。キッチンの奥からボトルを見つけて。美味そうだなって」
「そんな……俺が折角隠しておいたのに……」
「これ朔くんのだったんですか」
「そうスよ。栞さんから貰って、飲むの楽しみにしてたのに……」
あーあーと残念そうにしょぼくれる朔。その姿を見て思わずふたりは申し訳ない気持ちになった。もう一度謝ろうとバーボンが口を開きかけた所で、朔はころりと表情を変える。
「ま、別にいいッスけどね」
「「……え?」」
先ほどのしょぼくれた態度から一転。朔はからりといつものような表情を浮かべている。もう少しなじられるだろうと覚悟していたスコッチとバーボンは面食らったように仲良く声を漏らした。目を丸くしたふたりを見て、不思議そうにしているのは朔の方だ。
「どうしたんスか?」
「ああ、いや。随分あっさりしてるなと」
「……もう少し何か言われるかと思っていたので」
「? 何か言われたいんスか?」
「いや、そういうわけではなく……」
んん?と首を傾げる朔に、バーボンはどことなくもどかしさを覚える。歯の奥にものが挟まってしまい、とれそうで取れないような、そんなもどかしさだ。微妙な顔をするバーボンを他所に、スコッチは補足するようにそっと口を開く。
「その……未開封だったろ、そのボトル。それを俺たちが勝手に開けて飲んだことについて、もっと朔が怒るかと思ったんだよ」
「ああ、そういうことッスか」
ようやく合点がいった、というふうに朔は表情を明るくする。
「はじめはちょっと頭にきましたけど、正直今はそこまで怒ってないッス。それに、手間が省けたなって」
「手間?」
「実は今夜『このウイスキー、先輩方もよかったら一緒に飲みましょう』って誘う予定だったんスよ」
少しだけ照れたようにはにかんだ朔の言葉に、ふたりは思わずぱちくりとまばたきをする。
「僕たちと一緒に?」
「はい。栞さんからもらったんだし、どうせなら一緒に飲みたいなって。だから帰ったら皆さんに言おうと思ってたんスけど……その手間が省けたなって」
テーブルの上に広がるグラスとおつまみの皿たちを見ながら、朔は白い歯を見せてニッと笑う。
「さて。そうと決まれば俺もグラス持ってきますね! それと追加のボトルも」
「追加?」
「四人で飲むのにボトル一本じゃ足りないでしょう? 俺の部屋に何本かあるんで、そいつも一緒に飲みましょ」
久しぶりに酒が飲める!と言いながらソファに鞄を放るように置き、嬉々として部屋に向かおうとする朔。そこへ遅れてやってきたライががちゃりと部屋の扉を開ける。部屋の状況をぐるりと見渡し、いつもと変わらない表情で言った。
「……どういう状況だ」
「ああ、ちょうどよかったライ先輩。先輩のグラスもついでに取ってきますね」
パタパタとキッチンに消えていった朔の後姿を見て、ライは不思議そうに眉を寄せた。
ライに気付かれぬよう、バーボンとスコッチは目配せする。
これはチャンスだ。組織内であまり情報の無い朔とライのことを深く探るための、二度とない大きなチャンス。どんなに強靭な者でも、酒に溺れてしまえば赤子も同然。人の顔に張り付いた仮面を引ん*くのにアルコールは恐ろしいほど強力な武器だった。
(何かふたりの弱みを、つかめればいいが)
バーボンがそんなことを考えている時、スコッチも似たような表情を浮かべていた。
***
それから数分後。
人数分のグラス。人数の割には多すぎるボトル。各種つまみが勢ぞろいしたところで、酒盛りは始まった。
まず四人が初めに手を付けたのが、開封したばかりの"悪魔のウイスキー"。あの一口ですっかり病みつきになってしまったふたりだったが、その魅力に憑りつかれてしまったのはふたりだけではなかったらしい。
「うっわなにこれ超美味しい」
「……美味いな」
「でしょう?」
「だろう?」
目を輝かせる朔と、表情を変えずに呟くライ。そんなふたりを見て何故かバーボンとスコッチは得意げだ。美味しいものを人に勧めるのが好きらしい。美味い美味いと四人で次々飲んでいるうちに、ボトルはすっかり空になってしまった。
次に手を付けたのは日本酒。話を聞けば、朔はどちらかというと洋酒よりも日本酒の方が飲みやすくて好きらしい。ちろりと味見をしたスコッチとバーボンは、日本酒特有の甘さに驚いていた。日本酒をあまり飲んだ経験がないと言っていたライもすっかりその虜である。そして十数分後には朔イチオシだという日本酒を、これまた四人がかりで空にしてしまった。
そんな調子で飲み進め、朔の持参した酒をぱかぱかと片っ端から空にしていく。
そして飲み始めてから約一時間。通算四本目のボトルを空にした時、スコッチがダウンした。量としてはそこまで飲んでいないはずだが、ごろりと床に横になり、そのまますうすうと寝息を立て始めてしまったのである。
(やれやれ。これでよく潜入捜査官が務まるな……)
小さく呆れながら、バーボンは眠りこけるスコッチの赤い顔を見やる。
因みに朔とライは未だにピンピンとしていた。ライはいいとして、朔はこの中でも一番飲んでいるのにもかかわらず一切酔いの気配が見られない。手ごわい男だ、とグラスに口を付けながら思う。
(まあいい。こうなったら僕だけでも何か情報を掴んでやる)
組織で探り屋と評されるほど情報収集能力に長けたバーボンの闘争本能に火がついた。
だがそんなことを言っていられるのもそこまでだった。通算七本目に開けたワインが空になるころ、バーボンの視界がぐらりと揺れ始める。それには本人が一番驚かされた。何本もボトルを開けているとはいえ、飲む量はかなりセーブしている。普段ならばこの程度で酔うことなどない。それなのに。
「バーボン先輩、次何飲みます?」
空になったワインをどかしながら次のボトルを選び始める。その表情には酔いの欠片も見られなかった。因みにライは頬杖をついたまま時折かくりかくりと船を漕いでいる。限界が近いらしい。そんなライを他所に、朔は次々とボトルを手に取っていた。
(まだ、飲むつもりなのか?)
思わず背筋がゾッとする。だがそんなことは露知らず、朔は楽しそうに酒を吟味していた。純粋に飲むのを楽しんでいるその姿に、ますます恐怖を覚える。しばらくああだこうだと悩んだ末に、二本のボトルをバーボンに見せた。その表情はあまりにも嬉しさで満ちている。
「バーボン先輩。『閻魔殺し』と『八塩折之酒』、どっちがいいッスか?」
水で、とはとても言いだせなかった。
***
バーボンがグラスを握ったままがくりとテーブルに突っ伏す。そしてそのまま動かなくなってしまった。いつの間にかライも頬杖をついたまますうすうと器用に寝息を立てている。朔はひとり静かにグラスをテーブルに置いた。
「通算十二本……人間にしてはよくもった方かな。多分」
ひいふうみいと空になったボトルを数えた朔はつぶやく。そして散々散らかした部屋を片付けるため、静かに立ち上がった。つまみの入った皿をシンクに持って行き、まず皿の上に残ったものをごみ袋にざらりと棄ててから水を張った洗い桶に沈める。それぞれのグラスも同じようにシンクへ。テキパキと働くその動きに酔いは一切感じられない。
それもそうだろう。正直、朔はこれっぽっちも酔っちゃいなかったのだ。
鬼は元来ウワバミの者が多いが、朔はその中でもずば抜けて酒に強かった。
閻魔殿で毎年行われる宴会で誰よりも酒を煽る癖に、必ず最後の後始末まできっちり行い、自分の足で自身の部屋まで帰るのである。酒屋で一晩中飲んだ挙句、翌朝けろりとした顔で出勤しバリバリと仕事をこなした……なんてことも数知れず。それほど、朔は酔いとは無縁の人種なのだ。
そんな彼を酔い潰して情報を得ようという、そもそもの考えが間違いだったのである。
一通り洗い物を済ませ、朔はリビングに転がった酒瓶を回収する。これらは総て、朔がこっそりと集めたもの。比率としては地獄から持ってきたもの(勿論、人間が飲んでも問題ないものだ)が半分、現世で買った物が半分といったところだ。
ふと、一本のボトルに目が留まる。一番初めに空にした、"悪魔のウイスキー"だ。栞から「リリスさんから貰ったんだけど、私はお酒飲めないから朔くんにあげるよ〜 現世の人でも問題なく飲めるって言ってたから、先輩と一緒に飲んでもいいかもねぇ」という言葉と共に譲り受けた一本である。
「そういえばこれ、どこの酒なんだろう」
あの味を舌に呼び起こしながらボトルを裏返す。銘柄をほとんど見ずに飲み干してしまったが、もし機会があれば自分でも購入したい。
「リリスさんから貰ったってことは多分、魔女の谷とか……やっぱり」
印字されていたのはこの世に存在しない文字。これは魔女の谷の商品特有の仕様だ。現世の人が見ても読めないよう細工が施されているのである。裏に印字された文を解読していったところ、朔の顔は徐々に苦々しく変わっていった。
「『これを飲ませれば、ものの数時間でどんなウワバミも確実に酔い潰せる!』って……」
それどんなレディキラー。
酔い潰すとか書いてある割に飲みやすかったな、と思ったところでこのウイスキーの銘柄を思い出して朔は小さく苦笑した。まさしく、"悪魔"の名を背負うにふさわしいウイスキーである。この"悪魔"にも潰すことができなかった真のウワバミである朔は、ひっそりと再購入の予定を立てる。
ボトルを全て回収し、綺麗に洗ってビニールにまとめる。それからテーブルを拭き、落ちていたごみをまとめ、ふうと息をついた。これで片付けは終了である。時計を見ればもうだいぶいい時間になっていた。
床に転がって寝息を立てる三人に、それぞれタオルケットをそっとかけてやる。
「こんなに飲んだのは久しぶりッスよ。……また、一緒に飲みましょーね」
そう言った朔の表情は幸せに満ちていた。
***
次の日。
酔いつぶれた三人が、この世の物とは思えないほどの二日酔いに苦しめられたのは言うまでもない。