陸' 女王様の気まぐれ
まるで時が止まったようだった。
床に散乱する書類。規則正しく仕事する空調の音。少し鼻につくような薬品のにおい。
そして――白衣の少女に押し倒される、ひとりの青年。
肩より上で切りそろえられたウエーブがかった茶髪を持つ白衣の少女は、その聡明な瞳で眼下の青年を見つめている。
黒いニット帽の下から金髪を覗かせるラフないでたちの青年も、その少女から目が離せずにいた。
ふたりとも、互いに驚いたような表情をしたまま固まっている。
まずいことになった。
金髪の青年……朔は内心そう思っていた。
***
時を遡ること数時間前。
朔はひとり、組織の所有する研究施設を訪れていた。
なぜ朔がこんな場所にいるのかというと、今朝彼の元に1通のメールが届いたためだった。そのメールには、朔に組織の研究した新薬の被験体になって欲しい、というような旨の文章がつづられている。そのメールを見た同居人の三人は口をそろえて「止めた方がいい」「何があるかわからない」と猛反対。だが朔は「この件を断ったせいで変にNOCだとか疑われても困る」というその一心で、被験体の依頼を承諾したのだ。
自動ドアをくぐって中に入る。建物の中は一見非合法な組織とは思えないほど綺麗で清潔感があった。研究所の入り口にいた受付女性に声をかける。自分の名を伝えればとある部屋番号を伝えられた。そこで実験を行うらしい。礼を言って建物の奥へ進む。
途中で誰ともすれ違うことなく指定された部屋に到着した。ノックをすれば中からどうぞと声が聞こえる。
「失礼します……」
おずおずと挨拶をしつつ入れば、中にいた少女と目が合った。
年は10代半ばといったところだろうか。肩より上で切りそろえたウエーブがかった茶髪、はっきりと意思を持った目、きゅっと引き結ばれた唇、透き通るような白い肌、さらりと身にまとった白衣。少女は朔を確認すると、にこりともせずに言う。
「よく来てくれたわね。今日あなたに投薬する薬の開発研究を担当しているシェリーよ」
「あ、っと……望月朔、ッス」
座って、と言われたので朔は大人しくシェリーの前にあった椅子に腰かけた。その動作はどこかぎこちない。少し緊張しているのだろう。そんな朔に構うことなく、シェリーは1枚の書類を机に置いた。
「これは?」
「同意書よ。この薬はあなた自身の判断で飲んだんだっていう」
「はあ……」
こんな手続きを踏むのか、この組織にしては丁寧だな。そんなことを考えながら朔はペンをとり、同意書にサインをした。書き終えた書類をシェリーは受け取り、ファイルにしまう。いよいよ新薬の治験が始まるのかと内心身構えた朔を嘲笑うかのように、シェリーは真顔で言った。
「じゃあ検査服に着替えてくれる?」
その言葉を聞いた瞬間、朔は思わず固まった。目を丸くし、まばたきを繰り返す。
「……なんでわざわざ着替える必要が?」
「初めに検査してあなたの元データを取ってからの方が、もしなにか副作用が起きた時に原因究明できるでしょ」
「そ、そうなんスか……」
そんな簡単なこともわからないのかとでも言いたげに彼女は補足する。涼しい顔をした彼女とは正反対に、朔は冷汗ダラダラであった。
(……まずい、まずいぞ、とてもまずい。検査服ってことは角と耳を隠すための帽子がかぶれないってことだ。しかもちょうど昨日擬態薬を切らしたばかりで、人間に擬態することも出来ない! ……どうする? どうする?)
必死に他の策を考えるが、どれも状況を打破するための最適解とは言いにくいものばかりだ。
そんな朔の様子を見て不審に思ったシェリーは形のいい眉を寄せた。
「ちょっと? 早く着替えてくれる?」
「あの、このままじゃだめスか?」
「普段着で検査は無理よ。当たり前でしょう」
「ですよね……」
その何とも言えないがっかりとした声色から何かを察したシェリーは、きらりとその鋭い瞳を光らせた。
「それとも何? 何か見られたらまずいものでも隠してるわけ?」
「ち! 違うッスよ!!」
「その慌てよう……怪しいわね」
ぶんぶんと顔の前で手を振るが、疑いはますます深まるばかりであるようだ。その鋭い視線から逃げるように朔はそっと立ち上がり、後ずさる。それを見たシェリーは逃がすまいと立ち上がった。朔が一歩下がれば、シェリーも一歩前に出る。その一進一退がじりじりと続いていた。部屋の中に緊迫した空気が流れる。
「正直に言いなさい?」
「ひぃ!」
そのあまりの気迫に朔は思わず悲鳴を上げた。それとほぼ同時に、トンと朔の背中に壁が当たる。それに気づいたシェリーも徐々に間合いを詰めて来た。
もうこれ以上逃げられない。どうするか、と思った次の瞬間。
「!」
「っ危ない!」
足元に落ちていた紙を運悪く踏んだシェリーがバランスを崩してしまった。それを見た朔は慌てて支えようとしたが、体勢が悪くふたり揃って転んでしまった。倒れる前に体勢を立て直そうと空中でもがいた際に手が当たったのか、どんがらがっしゃんと盛大な音を立てて部屋に物が散乱する。
「いたた……」
背中に痛みを感じつつ朔が起き上がろうとすると、シェリーと視線がぶつかった。彼女は朔に覆いかぶさるように手と膝をついていたのである。
――まるで彼女に押し倒されてるみたいだ。
そう思った瞬間、朔の顔がぶわわと真っ赤に染まる。
「! そのっ、ごめ、俺……!」
わたわたする朔とは対照的に、彼女はニンマリと笑っていた。
えっと思った次の瞬間、朔の帽子に手をかけてさっとひったくる。
「あ゛ーーーー!!」
朔の悲痛な叫び声が研究室に響いた。
***
「それでその上司に言われてあの世からこの組織に来たってワケ?」
「は、はい……」
脚を組んで座るシェリーの前でしおしおと正座している朔。その帽子は外され、隠されていた角と大きな耳が露わになっていた。
朔の帽子の中にある角と耳を見たシェリーが早急に訳を説明するよう求めてきたので、もう隠すのも難しいだろうと判断した朔は総てを打ち明けたのだ。朔の話をすべて聞き終わったシェリーは疲れ切った顔で盛大にため息を吐く。
「……信じられないけど、信じるしか無いようね」
「信じてくれるんスか?」
「だってその角、どう見ても頭蓋骨から直接生えてるんだもの。耳も作りものじゃなさそうだし。ならもう信じるしかないわ」
「そ、そうスか……」
戸惑いながら朔はつぶやく。科学者である彼女が一般的には非現実的とされている自分の存在を信じてくれることがとても意外だったのだ。
内心そんな感想を抱いていると、シェリーは唐突に言う。
「それで? あなたはこれからどうするつもりなの?」
その言葉に朔は思わず固まった。
見上げる彼女の表情はゾッとするほど冷たい。ぞく、と背中に冷たいものが走った。
「どうする、って」
「決まってるじゃない。あなたは今私にすべてを知られてしまったのよ。この組織を潰そうとする存在であることも、人外であることもね」
シェリーは組んだ脚の上に頬杖をつき、朔を見下している。
彼女から目を逸らせない朔は酷い喉の渇きを覚えていた。
「もしそのことを私が喋れば、今すぐにでもあなたは裏切り者の裁きと賞してジン辺りに殺されるでしょうね。あの世で待ってるあなたの上司が拍子抜けするほどあっさりと。もしくはここではない別の研究所に連れて行かれて、格好のモルモットになるという選択肢もあるわ。よかったわね。死にたいと言っても死なせてくれないような生き地獄が、きっとあなたを歓迎してくれるでしょう」
シェリーの挙げた未来予想図が鮮明に朔の脳内を支配する。彼女の挙げた話はどれも絶望的だが、決して夢物語だというわけではなかった。すべて、実際に起きてもおかしくない事ばかりだ。
「さて、もう一度聞くわ。……あなたはこれから、どうするつもりなの?」
朔は彼女の視線に耐え切れず、苦し気に俯いて視線を落とす。
「俺、は」
どう答えるべきなのだろう。どう答えるのが一番正しいのだろう。そんなことが朔の頭の中を支配する。
回答に迷っている様子の朔を見て、シェリーは口元だけで小さく笑った。
「……なんてね」
「へ?」
朔は思わず拍子抜けしたように目を丸くする。それを見てシェリーはますます笑みを深めた。
「冗談よ。私はあなたのことを話したりはしない。もちろんジンや他の幹部にもね」
シェリーの言葉に朔は思わず聞き返した。
「どう、して?」
「さあ? どうしてかしらね」
シェリーは悪戯っぽく笑って朔の質問をはぐらかす。
「でも私、最近ちょっと欲しかったのよね。……とっても気が利いて、使い勝手のいい助手が」
その言葉の意図を察した朔は数秒固まったのち、苦々しい顔をして呟いた。
「人間怖い……」
「あら失礼ね。強かじゃないと、この組織では生き残っていけないわよ」
そう言ったシェリーはとても愉快そうに微笑んでいた。
***
シェリーの研究施設からの帰り道。
ひとり夜道を歩いていると、着信が入った。番号を確認する。この番号はジンだ。朔は周囲に気を付けつつ、迷わず応答ボタンをタップする。
「はい」
『望月か』
「なんですか。ジン先輩」
そう問いかければ、珍しく機嫌のいい様子でジンは続ける。
『喜べ。お前の働きをボスが認めてくださった。よって、本日付でお前を幹部に昇格する』
朔は思わず足を止めた。
恐らくもうそろそろだろうと思っていたが、まさかこのタイミングとは。口元に笑みを浮かべながら朔は返答した。
「それは光栄ッスね」
『幹部昇格に伴い、お前にコードネームを与える』
誰もいない寂しげな路地裏を冷たい風が吹き抜けていく。電話の向こうでジンは淡々と言った。
『コードネームはーー"カミカゼ"だ』
『"カミカゼ"……』
今しがた聞いたばかりのその名を自分でも口にする。それがこれから自分を指し示すものになるという実感がなかなか沸いてこなかった。
『どうだ、気に入ったか』
「ええ、勿論ッスよ」
『これからも組織に忠義を尽くせ。以上だ』
そう言って一方的に電話は切れた。朔はひとり思考をめぐらせる。
カミカゼ……ウォッカベースにホワイトキュラソーとライムジュースをシェイクして作る、比較的度数の高いカクテルだ。味はかなり辛口。その変わった名前の由来は、旧日本海軍の特別攻撃隊の「神風」から命名されたもので――
と、そこまで考えたところで、朔はあることを思い出した。ふっと口元に笑みを浮かべる。
「……はは、すごいな。偶然なんだろうけどこの名前、俺にぴったりだ」
朔は鼻歌を歌いそうなほどご機嫌な様子で路地を進んでいった。