捌' ここに鬼がもうひとり
「もう追いかけっこはこのくらいにしませんか、先輩」
目の前のカミカゼはいつもと変わらぬ笑顔を見せている。
対するスコッチはといえば、逸る心臓を押さえつけることに必死だった。
組織にスコッチがNOCだという告げ口があったらしいと気付いたのが12時間前。そこから大急ぎで身を隠すための手続きやら何やらに追われているうちに、運悪く追手のカミカゼに見つかってしまったのがつい数時間前。そしてそれから地獄の鬼ごっこが始まり、彼がこのビルの屋上に追いつめられ、今に至る。
銃口をスコッチに容赦なくつきつけながら、カミカゼは笑みを崩さずに言う。
「まさか、こんなことになるなんて思っても無かったッスよ」
「奇遇だな。俺もだ」
初めて出会った時から期待の新人だと囁かれていたこいつは、やはり敵に回すには厄介な男だったようだ。現に、あれだけ長時間走り回ったにもかかわらず、息ひとつ切らしてやしない。こっちはもう呼吸器官全般が悲鳴を上げているって言うのに。
「動かないでくださいよ? そうじゃないと、一瞬であの世に行けなくなるんで」
カミカゼの「あの世」という言葉で、スコッチは嫌でも自覚することになった。
そうか、俺はこれから死ぬのか。……こんなところで、あっけなく。
そう思ったら、自然と笑みが零れた。
「――さようなら、スコッチ先輩」
ごめん、ゼロ。俺先に行くよ。
カミカゼが、引き金にかけた指に力を込めるのが見える。
スコッチはゆっくりと目を閉じた。
***
一発の銃声が辺りに鳴り響く。それを聞いた途端、バーボンは思わず足を止めた。
(まさか……!)
最悪の事態が頭を過り、再び足を速める。身体中から嫌な汗が噴き出してきた。心臓は二重の意味でどくどくと早鐘を打っている。カンカンと鳴り響く足音にも構うことなく、屋上へと続く階段を駆け上がっていく。屋上はもうすぐそこだった。
なんとか間に合ってくれ。その一心で足を動かす。ただ、彼が無事でいることだけを祈って。
息を切らしながらようやく屋上にたどり着くと、バーボンは思わず言葉を失った。
屋上一帯がごうごうと燃え盛る炎で埋め尽くされている。灯油か何かを撒いてから火をつけたのだろう、その勢いは激しい。
「ーーっ!」
間に合わなかった。
その絶望感が彼の脳内を支配していく。
脳がフリーズしてしまったように、呆然と立ち尽くしていることしか出来ない。そんなバーボンを嘲笑うかのように、炎は勢いを増していくばかりだ。
「ああ、先輩。遅かったッスね」
「!」
不意に声をかけられ、そちらにさっと顔を向ける。
そこにはカミカゼが立っていた。普段と変わらぬラフな出で立ちだが、その服の所々には血液が付着している。その手にはご丁寧に拳銃まで握られていた。その銃口にも忘れずに血がべったりとついている。
まさか君が、とバーボンが口を開くよりも前に彼は自白した。
「先輩には悪いけど、先に俺が仕留めちゃいました」
その瞬間、怒りで目の前が真っ赤に染まる。
仕留めちゃいました、だと? そんな軽々しい気持ちであいつは殺され、燃やされたのか? そんな、そんなにあっけなく……。
「安心してください。ちゃんと死んだのは確認しましたから」
カミカゼはお気楽そうに微笑んだ。
その瞬間、バーボンは彼の胸倉を勢いよく掴みかかる。
怒りと仇と悲しみとでぐちゃぐちゃに混乱した頭は正常な判断を下すことは出来ない。ふーふーと漏れ出るような荒い息をさせながら、バーボンは目の前の男を睨みつける。
今すぐにでもこの場で殴り倒してやりそうな気迫を見せつけた矢先、男は少し困ったように言った。
「先輩。苦しい」
バーボンの手に自らの指を滑り込ませるようにして、なんとか解こうと試みる。少し冷静さを取り戻したバーボンは、渋々男を解放した。軽く咳込みながら、男は言う。
「俺これからジン先輩に報告に行ってきます。先輩も早く逃げたほうがいいッスよ。ここ結構脆いんで、時期に崩れますから」
「……ええ」
なんとか声を絞り出し、返答する。男はバーボンのことをちらりと見ると、さっさと階段を下りて行ってしまった。ごうごうと燃え盛る炎の中、ひとり取り残される。
すると数秒後、男と入れ替わるようにして誰かがやってきた。
「バーボン、お前もいたのか。……どういうことだ、これは」
やってきた男……ライは、辺りを見回すなり眉を寄せる。バーボンは投げやりに返した。
「どうもこうもありません。裏切り者のスコッチを誰よりも先に追いつめたカミカゼが始末した……。ただそれだけのことです」
「! 彼がスコッチを……そうか」
ライが少し声のトーンを落とす。普段表情が読めない彼にしてはとても分かりやすい表情変化だった。
だがバーボンにとって、そんなことは正直重要な問題ではない。
「ところでライ。今夜のご予定は?」
「何を急に――」
バーボンはライの言葉を遮るように一枚の紙を見せた。先ほどカミカゼが手をほどく際に握らせてきたものだ。
そこにはこう書いてある。
――『今夜九時、あの店で。ライ先輩とふたりで来てください』