拾' 貴方は何も分かっていない



 スコッチが組織を抜けてからしばらくして、ライも組織を抜けることになった。なんでも、部下の些細なミスがきっかけであるらしい。
 だが、折角幹部になるまで組織内に潜り込めたというのに抜けざるをえないというこの状況を、本人は少しも後悔していないようだった。

「しばらく日本を離れる。後は頼んだ」

 ライ……もとい赤井秀一は、バーボンとカミカゼにそう言い残して悠々とアメリカへ旅立っていった。「貴方に言われなくてもわかってますよ」と不機嫌そうなバーボンを見て、カミカゼは困ったように笑っていた。

 チームの半分がNOCだと露見したせいか、次第にカミカゼとバーボンへの組織内での風当たりも変化していった。組織への忠誠を見るためなのだろう。かなり無茶な任務を命じられることが目に見えて増えていった。

「全く、毎日きついッスね」
「辛かったら抜けてもいいんですよ」
「まさか。先輩ひとり置いていくわけにもいかないでしょ」

 そう言って笑ったカミカゼの身体は傷だらけである。
 たまに情報交換と称して店で会うたびに必ずどこかしらに怪我をこさえているカミカゼのことを、バーボンは密かに心配していた。当の本人はこんなの掠り傷だといつも笑っていたが、胸のざわつきは止まらない。

 いつか本当に取り返しがつかないことになるのではないか。
 そんな心配を胸に秘めながら、ふたりはなんとか組織で生き延びていた。


***


 その日は朝から酷い雨で、町全体がなんだかどんよりとしていた。
 定期情報交換のために訪れた『胡蝶の夢』の軒先になんとかたどり着き、ため息交じりに傘を閉じる。『只今準備中』のドアプレートを無視して、店の中へ足を踏み入れた。

 目の前に飛び込んできた光景に、思わず目を見張る。

「あ、先輩。こんにちは」

 先に来ていたらしいカミカゼが、カウンター席に腰かけたまま声をかけてくる。
 ――だが、その左腕の肘から先がすっぱりと、無くなっていた。

 世界から一瞬で色が消えた気がした。
 呼吸が浅くなり、喉が猛烈に乾いて仕方がない。

 しばらくした後、やっとの思いで口を開く。

「……カミカゼ、あなた、それ」
「今日の俺の任務、組織の奴何人かと組んで敵組織の殲滅だったんスけど……いやあ、久々にしくじりました。まさか同行していた奴らにその組織からのスパイが紛れていたなんて」

 カミカゼは困ったように笑う。その表情には一ミリも薄暗いものは無かった。

「完全に不意打ちで避け切れなくて、敵のナイフが腕にぐっさり。その場はなんとか乗り切ったんスけど、徐々に感覚が無くなっていって……脱出するころにはもう左手の指は一本も動きませんでした」

 すっと包帯まみれの左腕に触れる。

「栞さんならなんとかできるかなって思って来たんスけど、どうやらあのナイフに毒が仕込んであったみたいで、傷口が壊死しかけてて。仕方ないから切ってもらったんス。ほんと、利き腕じゃなくてよかったなって」

 すると、そうだと思い出したかのように話を続ける。

「今回の任務のおかげで、俺と先輩への疑いはなんとか晴れたみたいッスよ。ほんと、ここまで長かったッスね〜」

 ――その瞬間、バーボンの中の何かがぶちりと切れる音がした。

「……して」
「はい?」
「どうして、笑っていられるんですか」

 戸惑うカミカゼを他所に、バーボンは続ける。

「わかってます? あなた左腕を失くしたんですよ? それなのに……『よかった』ですって?」
「せ、先輩?」
「本当に……いい加減にしてください」

 ずかずかと歩み寄り、勢いよく胸倉を掴んだ。
 もう数センチで鼻が触れ合う、というところで止まった。カウンター席に座っていたカミカゼは驚いた表情のまま、軽く尻を浮かせる体勢で固まっている。

 バーボンは真っすぐにカミカゼを睨みながら言った。

「無理に押し付けられる任務を馬鹿みたいに真面目にこなして怪我だらけになって、挙句の果てに身体の一部を失って……。それでも『よかった』なんて、あなた本当にどうかしてますよ!」

 自分自身でもよくわからないほど、気持ちが昂る。
 胸倉を掴む手は僅かに震えていた。

「どうして、あなたはいつもそうなんですか。どうして……」
「……俺は」

 ぽつりとカミカゼが口を開く。

「俺ひとりの犠牲で先輩が楽になるなら、それに越したことはないって思ってるんスよ」
「……」

 その言葉を聞いて、バーボンはわかりやすく顔を歪めた。
 怒りと悲しみが入り混じった複雑な表情のまま、ぼそりと呟く。

「本当に、あなたって人は……」

 その直後、バーボンの携帯が震え始めた。

「……電話、出なくていいんスか」

 素っ気なく言うカミカゼに、バーボンは舌打ちをして手を離した。カミカゼは何も言わずにバーボンのことを見つめている。バーボンは一瞬カミカゼに視線を寄こした後、さっさと踵を返して店を出て行ってしまった。カロン、と力強くドアベルが鳴る。
 すると、今まで店の奥に引っ込んでいた栞がほとんど入れ替わるように顔を覗かせた。

「あれ、バーボンさんは?」
「帰ったよ」

 素っ気なくカミカゼは言う。用意してもらった上着をさっと手に取って身に着け、栞に背を向ける。

「ありがと栞さん。俺ちょっと他の任務入っちゃったから、もう行くね」
「あ、ちょ……」

 栞が引き留める間もなく、カミカゼはさっさと出て行ってしまう。カロン、とドアベルが寂しく響く。

「朔くん……?」

 見たことも無いその後姿に、栞はしばらくその場で呆然と立ち尽くしていた。