拾参' それぞれの日常へ



 組織が壊滅した例の日から約二週間あまり。各国の諜報機関に所属する者たちは皆その後処理に追われる慌ただしい日々を過ごしていた。
 大ボスを捕える舞台となったここ日本でも、それは変わらない。

 誰もが思わず二度見してしまうくらいの書類の束に囲まれながら、画面から一切目を話すことなくキーボードを叩く己の上司を見て、風見は言う。

「降谷さん。お言葉ですが、少し休まれた方が」
「休むさ。これが終わったらな」
「……」

 そう言ってもうどれくらいになりましたか。その言葉を風見はぐっと飲み込む。部下には定期的に休みを取るよう気を回すくせに、当の本人がそんな様子じゃ、部下も休むに休めないことをわかっていないんだろうか。
 すると、無精ひげが伸びてきた顎をかきながら降谷は不意に尋ねた。

「例の件はどうだ?」
「いえ。……まだなにも」

 少々心苦しくなりながら風見がそう告げると、降谷は明らかに落胆した表情になった。心なしか、疲労が一層色濃くなったような気さえする。

「……そうか」

 降谷は目を伏せ、噛みしめるようにつぶやいた。

 風見が降谷に頼まれている例の件とは、組織の幹部であるカミカゼの足取り把握である。
 彼は組織幹部らの中でも唯一消息が捉えられていない人物であった。彼は今回の作戦の重要なキーパーソンであったため全力で行方を追っているのだが、公安警察の捜査力を総動員しても一向に足取りが掴めないのである。まるで煙のように消えてしまった彼に、調査を任されている風見もすっかり頭を抱えていた。

「何かわかったらすぐに知らせてくれ」
「はい」

 そう言って降谷は再び仕事に戻ってしまった。風見は一礼して自身のデスクに戻りつつ、考えを巡らせる。

 降谷があそこまでひとりの人物に固執するなど、風見自身ほとんど見たことがなかった。それなのに、部下に調査を任せるほど動向を気にするとは。それに、まだ情報が掴めていないと告げた時のあの表情……。

 何かあるのだろうか、と風見は眉をひそめながら考える。彼と降谷の間には、他の人が知らないような何かがあるのかもしれない。でも、だとしたら一体それは何だというのだろう。

「あ、いたいた。風見さん、これ確認お願いします」

 不意に声をかけられて意識が引き戻される。デスクの横には、己の部下である諸伏が書類を持って立っていた。

「ああ、わかった」

 渡された書類に目を通しながらふと、彼も組織に所属していたことを思い出す。彼は組織でNOCだとバレて始末されそうになったところを間一髪カミカゼに助けられ、以後情報屋の"狐狗狸さん"のもとで過ごしていたらしい。そして組織が壊滅したことをきっかけに、正式に公安に復職したのだ。
 もしや彼なら何か知っているだろうか。そう思い、風見は軽い気持ちで口を開いた。

「なあ」
「なんです?」
「降谷さんとカミカゼ……なにかあったのか?」

 すると諸伏はうーんと煮え切らない顔をする。

「何というか、俺も詳しくは知らないんですよね。栞さんも、ゼロ……降谷も、結局なにも教えてくれなかったし」

 そしてフッと目を細め、小さく笑う。

「まったく。どこに居るんだろうなあ、あいつ」

 ぽつりとつぶやくその顔は、まるで戦友を懐かしむかのように穏やかだった。


***


 断末魔があちらこちらから聞こえてくる、地獄の刑場。
 鉄錆の臭いが充満したそこで、一心不乱に金棒を振るうひとりの鬼獄卒の姿があった。

 彼は慈悲を求める亡者の声には一切聞く耳を持たず、容赦なく金棒を叩き込んでいる。その身が返り血に染まり、亡者が動かなくなってようやく、彼はその手を止めた。ふう、と息をつきながら地面に突き刺した金棒に軽く体重を乗せる。その顔にはどこか疲労が色濃く滲んでいるように見えた。
 それを見ていたお香は、見かねたように心配そうな様子で声をかける。

「朔くん……少しくらい休んだら? ほら、現世での仕事も大変だったんでしょう?」
「いえ、このくらい平気ですよ」

 手を止めた彼――朔は、笑って言う。無理やり作ったような明るい顔は、ますますお香の表情を曇らせてしまうばかりだった。

「そう? ……でも、無理しちゃだめよ。腕のこともあるんだし」
「だーいじょうぶですって。ほら、お香さんも仕事あるんですよね? こんなとこで油売ってたら怒られちゃいますよ」
「……」

 ほらほらと持ち場に戻ることを促す朔に、心配そうな表情を浮かべつつもお香はその場を立ち去った。するとタイミングを見計らったかのように、徐々に肉塊と化していた亡者が復活の兆しを見せ始める。さてあともうひと踏ん張りか。彼が金棒を担いだその時、今度は別の声が聞こえてきた。

「よく働きますね」
「鬼灯さん。……なんかいろんな人に言われるんですけど、俺前からこんな感じでしたからね? みんな心配性なんですよ」

 愛用の金棒を担いでやってきた鬼灯に、朔は振りかぶった金棒を再び地面に下ろしながら言った。その隙を見て、亡者は一目散に朔の元を去ってしまう。それを追い掛けようとした朔を引き留めるように、鬼灯は話を続けた。

「確かにそうだったかもしれませんが、ここ最近は流石に働きすぎですよ。勤怠確認してます?」
「ちゃんと見てますって」

 ひどいなあ、何年ここで働いてると思ってんですか。朔は困ったように笑う。その様子を見て鬼灯はやれやれと溜息をついた。

「そういう見え透いた嘘は鏡を見てから言ってください。気付いてないかもしれませんけど酷い顔ですよ、貴方」
「……別に仕事に支障はきたしてないんだからいいじゃないですか」
「そういう問題じゃないんですけどね」

 鬼灯はすっかり呆れ顔だ。対する朔は相変わらず笑みを浮かべたままである。

「まあ原因に心当たりがないわけじゃありませんし、理解できないわけではないんですが」
「……なら放っておいてくださいよ。これは俺の問題なんだから」
「千年前ならそうしていたでしょうが、今はそうもいきません。私は貴方の上司であり、ここの責任者。従業員の健康に気をつかう義務があります」
「義務、ねえ」

 お節介だなあと、朔は目を伏せながら内心思う。
 ……まるで己を責め立てるように、じくりと義手の付け根が痛んだ。

 仕事に打ち込みながらも、その脳裏に過るのは現世に残してきた未練――あの夜の出来事だった。

『どうして、あなたはいつもそうなんですか。どうして……』

 そう言いながら間近に迫ったバーボンの顔は、見た事のない表情をしていた。そしてそのままこちらに背を向けて去っていく。それから徐々に疎遠になり、ほとんど顔を合わせることも無いまま組織を壊滅させ、地獄に帰還し……今に至るというわけだ。

 あの時、彼がなぜそんなことを言ったのか。今となってはもう確かめるすべがないし、元々確かめるつもりもない。朔に残ったのは、あの時どうするのが正解だったのかという考えと、どうしようもない胸のもやもやとした違和感だけ。
 ……だから朔は、忘れることを選んだのだ。

 忘れればいい。どうせもう現世へ向かうことは無いのだから、彼と出くわすことは二度とないだろう。幸い、仕事は次から次へと舞い込んでくる。それに身を任せればきっとすぐに時間は経って、彼の事も気にならなくなるはずだ。今までだってそうしてきた。だからきっと今回も上手くいくはずだと、そう思っていたのだが……鬼灯にはそれも見抜かれていたらしい。

 でもだからといってもう、どうしようも……。

「というわけで、私から貴方へプレゼントです」
「へ?」

 物思いにふけっている朔の両脇を、ふたりの屈強な獄卒が掴まえた。予想だにしなかった展開に、朔の意識は無理矢理現実に引き戻される。

「ちょ、何!? この話の流れでどこ連れて行くんです!?」
「決まっているでしょう。米花町です」
「は……?」

 朔は信じられない、とでも言いたげに鬼灯を見る。だが鬼灯の表情は涼しげなものだった。

「やり残したことがあるのでしょう。いいからさっさと済ませてきなさい」
「いや俺は……って、話聞いて鬼灯さん!」

 あれよあれよと連行されて、気が付けば米花町についていた。鬼灯は「ではまた後で」と何食わぬ顔で言ったのちに姿をくらましてしまう。まんまと置き去りにされてしまった朔はガシガシと頭を掻きながら盛大な溜息をついた。

「なんなんだあの人……」

 どうしたもんかと辺りを見回す。そもそもここはどこだろうか。話の流れ的には米花町のどこかだと予想はできるが……面倒なことになったもんだ。誰かに見つかる前に早く栞さんのところに避難しよう。

 すると不意に、カシャーンと何かを落とした音が耳に飛び込んでくる。反射的にそちらに視線を向けると――

 ――見覚えのありすぎる金髪碧眼の男が目を見開いていた。