#05


「なにぃぃーーー!?」

 授業が始まったというまさにその時、前の席に座っている黒羽が大きな声を上げて立ち上がった。あまりにもいきなりだったもんだから、クラス中の視線が黒羽に向いている。そんな黒羽は視線を集めていることを気にも留めず、手に持っているスマホに視線を落としながらわなわなと震えていた。画面に表示されているのは……おそらくこのニュース記事だろう。ちょうど俺も見ていたところだ。

 『怪盗キッドに告ぐ! 貴殿が所望するビッグジュエル大海の奇跡ブルーワンダー≠潮留に在する我が大博物館の屋上に設置した 手中に収めたくば取りに来られたし 
 鈴木財閥相談役 鈴木次郎吉』

 ……なんともまあ、大々的にやってくれたもんだね。

 確かこういう広告は出すのにも相当な金がかかると聞いたことがある。これはネット記事だが、これの元になった新聞広告なんかになると、1見開きでウン百万とかなんとか……。相変わらず景気がいいなあ、あの爺さんは。この国の大きな建物のほとんどに資金提供してるし。

 そんなことを考えていると、急にぱっと手を掴まれる。掴んでいるのは俺の前に座っているはずの黒羽だった。手を掴まれるなんて想像すらしていなかった俺は、掴まれた自身の手を見上げながら思わず素っ頓狂な声を漏らす。

「は?」
「すみません! 俺と悠介、急に具合が悪くなったんで帰ります!」
「は??」

 急に何言い出すんだお前。
 そんなことを思っているうちにあれよあれよと引っ張られ、気が付けばあっという間にじいちゃんさんの店のドアをくぐっていた。何の前触れもなく店に飛び込んできた俺たちに、じいちゃんさんはすっかり目を丸くしている。

「坊ちゃま! それに悠介様! この時間は学校では……」
「早退したよ」
「俺は黒羽に無理矢理引っ張られてきました」

 カウンター席にどかりと座る黒羽。もはやお決まりといった感じで俺もその隣に腰かける。じいちゃんさんは少々呆れ気味に読んでいた新聞をカウンターに広げた。そこにはさきほどネットで見たものと同じ記事が掲載されている。

「この広告をご覧になったんですね。……ですが坊ちゃま、これは罠です」
「わーってるよ、んなこと」

 少々不貞腐れたように黒羽は言う。ま、罠だってわかってても反応しちゃうよな、これは……。
 改めて元となった広告に視線を落とす。でかでかと掲載された次郎吉氏の写真と、実際に展示されるらしい博物館の写真が並んでいた。博物館の写真の下には、その博物館を紹介するために撮影をするということまできっちり書いてある。豪華特典解説付きブルーレイねえ……。

「金のかけ方間違ってんじゃねえの?」
「あんのジジイ……」

 黒羽もすっかり呆れているようだ。じいちゃんさんは心配そうに続ける。

「相手は鈴木財閥の相談役……財力に物を言わせてどんな警備を強いてくるか。しかも先手を取られております。盗むとしても、せめて予告状はお控えになった方が」
「確かに、それは俺も言えてると思います」

 俺もじいちゃんさんに賛同する。流石の怪盗キッドといえど、売られた喧嘩を片っ端から全部買ってたらキリが無いだろう。だが黒羽は違うようだ。

「そりゃ逆だろうじいちゃん、悠介。天下の怪盗キッドが正面切って喧嘩売られてるんだぜ? こっちもバーンと予告状出さなきゃ収まらねえよ!」

 身振りを大きくつけながら鼻息を荒くする黒羽。まあ、お前はそういうと思ったよ。結構単純な性格してるもんな。

「とにかくやるからな! じいちゃん、悠介、下調べ頼むよ」
「マジでやんのかよ?! ったく、仕方ねえなあこいつは……」

 にしし、と黒羽は歯を見せて笑った。一度決めたら梃でも動かないこいつがやるといったらやるのだろう。じいちゃんさんもここまで来たら全力でサポートすることに決めたらしい。

 ……やれやれ、今回も面倒なことになりそうだな。
 これから忙しくなるであろうスケジュールを頭に思い浮かべ、俺は額を手で押さえた。


***


「おお……」

 俺は思わず感嘆の声を漏らす。
 その目の前にあるのは、テーブルの上に置かれた博物館の模型だ。細かいディティールまで完璧に再現してある。

 次郎吉氏が大々的に広告を出したあの日から1日。今日はじいちゃんさんの店で作戦会議を練ることになっていた。俺自身も事前に様々な情報を――それこそこの建物の設計データや建物内にある監視カメラの設置位置なんかを調べていた。昨日の夜に「そのデータを送っていただけませんか」と連絡が来たときは「なぜ今?」と思っていたが、まさか本物そっくりの模型が出てくるとは……。そんなこと予想すらしていなかった俺はかなり驚いているが、黒羽慣れてしまっているのかけろりとしている。

「じいちゃんさん、徹底的にやるんですね」
「勿論ですとも。準備はしすぎて困るということはありませんから」

 ふふんとなんだか得意げなじいちゃんさん。知り合いに設計データをもとにこういうものを作れる人が居るらしい。なんでも、蓋を開ければ中もちゃんとしているんだとか。すごいな、その手のマニアに高く売れそうだ。

「こいつがブルーワンダーか……」

 黒羽が模型をまじまじと見つめながらつぶやく。建物の最上階の中心部、一番注目を集めそうな位置に宝石を掲げる女神像がくっついていた。この宝石がブルーワンダーだという。こんな目立つところに宝石を……。

「この位置なら、黒羽のハンググライダーで抱えていけそうですけどね」
「そうも参りません」

 じいちゃんさんの調べによると、次郎吉氏は先鋭ぞろいの警備チームを有しており、それには20機のヘリコプター部隊も含まれている。しかも、まだ募集をかけている最中でこれからさらに増える予定なのだとか。それだけヘリが飛べば、気流を利用するハンググライダーはひとたまりも無いだろう。

「別の足を考えるか……」
「いや、それも難しいと思うぜ」

 黒羽の言葉を遮るように俺は言う。俺が調べた情報では確か、あの建物にはスイッチひとつで宝石をしまう仕掛けが施されている。しかも警備計画に寄れば館内には誰1人として立ち入らず、100台のカメラが常に館内全域をとらえている。もちろん、死角など無い。

 そのうえヘリにもカメラが仕掛けられており、撮影されたすべての映像が警察車両内の監視モニターに送られる仕組みになっているようだった。

「映像、ね……」

 黒羽は考え込むようにしつつも、表情はどこか楽し気だ。本当に、よくそんな表情ができるな。調べながら『こんなん無理ゲーだろ』と思ってしまうくらいに警備は厳重で、俺は途中で完全に目が死んでいたというのに。やっぱ大物はメンタルの作りが凡人なんかとは根本から違うんだろうか。

 それから俺たちは博物館の特番の映像を確認することにした。中身の紹介がメインだろうに、空撮を使うとはなかなか大盤振る舞いだな。流石金持ちはやることがちげーや……。

 そう思っていると、映像に見覚えのある人物が映り込む。日本一の名探偵こと工藤新一……いや、今は江戸川コナンか。原作知識がほとんど無いと言っても過言ではない俺でも、こいつくらいは知ってるさ。どうやら次郎吉氏とも知り合いのようで、その関係で映像に映っているようだ。
 ちらりと横目に黒羽を見ると、これはもう楽しそうに笑っているのがわかった。

「今回もこいつが絡んでいるなら、どーにかして最高のマジックを見せなきゃな」
「本当に、こいつに関わると見境なしだな黒羽」
「うっせ」
「しかし、どうやって」
「切り口は見つけたよ。後は……大海の奇跡ブルーワンダー≠ゥ」

 近くにあった紙に何やらさらさらと書きつける。どうやら今回の作戦が決まったようだ。黒羽が書き上げたそれを見て、俺は思わず顔をしかめた。そしてにやりと口角を上げる。なんとまあ、毎度のことながら意表をつくのが得意だねえ。それがマジシャンの生きざまってやつか?

 いや、というかちょっと待て。この計画まさか……。

「おい黒羽、この計画って――」
「海の上を歩くってのが有名な奇跡だろ? なら怪盗キッドは、その上を行く奇跡を起こさねえとな!」

 にしし、と悪戯っぽく笑う。毎度のことながら俺の意見は無視かよ!
 っとにこのワガママ坊ちゃんは……。

「道具の準備と段取りにどれくらいかかる?」
「……この程度なら多分2、3日くらいじゃないか? じいちゃんさんはどう思います?」
「ええ、私もそのくらいかと。なので今度の土曜日には」
「じゃ、きまりだな」

 そう言って黒羽はPCのキーボードをたたく。予告状の本文を即興で書いているのだ。

『貴方の提案、快く承ります。決行は今週日曜20時 その前夜に下見する無礼をお許しください…  怪盗キッド』

 ――『p.s. blue wonderの名の如く、歩いて頂きに参上しよう…』


***


 時は流れ、土曜日の夜。
 画面の向こうで女性キャスターが真剣な表情で言う。

『怪盗キッドの予告によれば、今日がその予告の日……果たして、キッドは来るのでしょうか?』
「大丈夫。心配しなくてもちゃんと来るよ」

 じいちゃんさんの操縦する車の中で、携帯のワンセグにむかってひとり答えた。じいちゃんさんが車を停めたのを見計らって、俺も外に出る。

 今日の俺とじいちゃんさんは警備チームのヘリ操縦士とその補佐という役回りだ。先鋭ぞろいだというから流石にバレてしまうのではないかと思ったが、かなりすんなり通ってしまって驚いたのをよく覚えている。まあ、じいちゃんさんの持ってる資格の多さで受かったようなもんだろうけど。

 警備チームの集合より少しだけ早く到着してヘリの中に黒羽を忍ばせる。事前に調べた通り、ヘリの待機場所にはカメラは設置されていないようだ。出入り口以外の警備がかなり手薄で助かった。黒羽に「気を付けろよ」と声をかければ「そっちもな」と軽口が返ってきた。随分と余裕だなオイ。

 それから他のチームと合流し、警備の流れを頭に叩き込む。事前に警備計画書で読んだのとほとんど変わらなかったが、一応真剣に聞いているように見えるよう振舞った。

「毎度のことながら上手くいきすぎて怖いですね」
「そうですな。ですが、油断は禁物ですぞ」
「わかってます」

 警備担当長のありがたーいお言葉をしれっと聞き流し、各配置に向かう。事前に知らされていた担当機に乗り込めば、「おせーよ」と黒羽が退屈そうに言った。その手にはスマホがある。どうやら待っている間にテレビ中継をチェックしていたようだ。

「待ちくたびれたぜ」
「それは話の長いお偉いさんに言ってくれ」
「こらこら、発進しますぞ。しっかり座ってくださいませ」

 困ったように言ってじいちゃんさんはエンジンをかけた。身体が重力に逆らう独特の感覚に包まれる。そして徐々に加速していった。眼下の景色がぐんぐん小さくなっていくのを見ながら、俺は思い出したかのように言った。

「そういえば俺、ヘリ乗るの初めてかも」
「マジで!?」

 信じられない!とばかりに目をむく黒羽。……常日頃から怪盗をやっている弊害か、だいぶ一般常識が頭から抜けているようだ。

「……言っとくけど、普通の生活してたらヘリに乗る機会なんてそうそう無いからな?」
「あ、そっか」
「お前なあ……そういう軽はずみな言動でバレても知らねえぞ?」
「悪ぃ悪ぃ。次から気を付ける」
「ほんとかよこいつ……」
「おふたりとも、もうすぐ目的地が見えますよ」

 そういわれて外を見れば確かに、目的の博物館が見えてきた。何度か下見に行ったとはいえ、本当にバカでかい建物だな……。ほうほうと感心していると、じいちゃんさんが静かに告げる。

「もうすぐ目的地点です」
「んじゃ、ショーの初日を始めるとすっか!」

 黒羽は得意げにそう言ってキッドの装いに早着替えする。ヘリの扉を開き、事前に用意したフック付きワイヤーを建物の屋上に引っ掛ければ、準備完了だ。

「じいちゃん、頼んだぜ?」
「くれぐれもお気をつけて!」
「悠介、ちゃんと俺を見て覚えるんだぞ?」
「……ああ、分かってるよ」

 浮かない顔で返事をした俺を見て、黒羽は悪戯っぽく笑う。そしてそのまま夜空へ飛び出していった。

 ハンググライダーを開き、空中を旋回する。その姿が見つかるや否や、観客の歓声が一気に高まった。先ほどフックをかけた建物の向の屋上に降り立ち、同じようにもうひとつフックを引っかける。そして煙幕と共に、空中へ出現した。その瞬間、あちこちから歓声が巻き起こる。観客のボルテージは最高潮だ。
 ……流石、ここまではほぼ事前の打ち合わせ通りだ。

 ヘリの中で傍受している警備無線でひっきりなしに怒号が飛び交っている。上空を確認しろという指示が飛んだ瞬間、どの機体よりも早く了解する。

「私たちも参りましょうか」

 じいちゃんさんはそう言って、ヘリを黒羽の上空に近づけた。そしてじいちゃんさんが上から吊られていない報告をしている間に、さりげなくワイヤーを黒羽にかけ、左右の建物にあるワイヤーを回収する。時間との勝負だったがなんとかうまくいったようだ。じいちゃんさんに成功の意味も込めてガッツポーズをすればしっかりと頷かれる。その頃、今回の主役である黒羽は見ている観客達にショーの開始を高らかに告げていた。

「さあ今宵の前夜祭、我が肢体が繰り出す奇跡を、とくとご覧あれ――」

 そう言って一歩、また一歩と前に向かって足を踏み出していった。じいちゃんさんの絶妙な運転に合わせて足を動かしているだけなのだが、あいつの器用さも相まってかかなりそれっぽく見える。コツコツという足音もいい具合にマッチしているようだ。
 だが数歩進んだところで黒羽は不意に足を止めてしまった。

「どうしたんだ黒羽……」
「ご覧ください。例の仕掛けが作動しております」

 じいちゃんさんが指摘した通りに見れば確かに、ブルーワンダーが建物の中に引っ込んでレプリカと入れ替えられている。なるほど、だからあいつは足を止めたのか。すると黒羽はフッと笑みを浮かべると、再び声を張り上げる。

「さて、前夜祭はここまで。明晩20時、再び同じ場所でお会いしましょう……」

 そして次の瞬間、ぼふんと煙幕が爆発する。その隙にワイヤーを巻き上げ、素早く黒羽を回収した。ヘリの扉が閉まったところで、黒羽はふうと息をついた。

「おつかれ。相変わらずスゲーなお前は」
「まーな」

 にっと笑って互いにハイタッチした。

「んで、学べたか? ちゃんと見てたんだろ?」
「ああ……まあ、な」

 いきなり痛い所をつかれ、俺はそっと視線を逸らす。その様子を見て黒羽は更に追い打ちをかけてくる。

「ま、泣いても笑っても明日はお前がキッドをやることに変わりはねえけどな!」

 ほんっとうに、容赦がねえよこいつは……。


***


 次の日。俺とじいちゃんさんは店で最後の作業に取り掛かっていた。
 カウンターでノートPCをすいすいと操作する俺に、じいちゃんさんはほうと感心したような表情を浮かべる。

「なかなか手慣れておりますな」
「じいちゃんさんの教えが上手いからですよ」

 思った通りのことを言えば、じいちゃんさんは少し照れたようにはにかんだ。なんだ? 萌えキャラか? 
 するとじいちゃんさんの携帯が静かに震えだした。どうやら着信のようだが、相手は誰だろう。まあ正直おおよその予想はつくが……。

「おっと、快斗坊ちゃまから電話ですな」

 やっぱり黒羽だったか。予想が当たった俺は手を止めずに思う。実はあいつは今、下見という体で一足先に博物館前に行っているのだ。じいちゃんさんはスピーカーモードに切り替えてから電話をとった。

『じいちゃん、俺だよ。昨日の3倍ってとこだな』
「かしこまりました、そのように」
「黒羽、そっちの天気はどうだ?」
『あんまりよくねえな。昨日はわりかし晴れたが、今日はひょっとしたら夜にざっと来るかもしれねえ』
「そうか……」

 俺はううんとため息交じりの声を漏らす。この作戦で、雨が降るのが一番厄介なんだよな。なんとか持ってくれるといいが……。俺が作業の手を止めて考え込んでいると、黒羽はそれじゃ、と話を切り出す。

『俺はそろそろ戻るぜ。後は頼んだ』
「かしこまりました」
「気を付けろよ、黒羽」
『わーってる。お前こそミスんなよ? じゃな』

 一方的にそう言って黒羽は通話を切った。俺は作業を再開するが、その気分は晴れない。
 ……逃げられないとわかってはいるのだが、どうにもな。


***


 予告時刻まであと少しと言った頃、俺たちは昨日と同じ地点で待機していた。だがその場に黒羽はいない。ここにいるのは操縦桿を握るじいちゃんさんと――

 ……キッドの服を着た俺だけだ。

「よくお似合いです、悠介様」
「あはは、どうも……」

 慣れない衣装に身を包み、俺は思わず苦笑する。うん、想像の数倍恥ずかしいなこの衣装……。漫画のキャラクターだとわかっている分、コスプレ感が俺の中から消えてくれない。妹が見たらなんていうんだろうなあ、これ。あいつがここにいなくて本当に良かった。

「段取りは大丈夫ですか?」
「はい」

 昨日の下見の後、黒羽とはみっちり個人レッスンを組まされた。空中歩行を行うにあたっての手順に始まり、身振り手振りから表情の作り方まで……いろんなことを徹底的にだ。

 正直かなりきつかったが、あいつも必死だったのだろう。万が一にでも俺が偽物だとバレたら、黒羽もじいちゃんさんもただではすまない。すべての計画が水の泡だ。文字通り、俺の行動にすべてがかかっているといってもいい。足の震えは未だに収まらないが、ここで逃げるわけにもいかないのだ。

「大丈夫です。……おねがいします」

 俺は覚悟を決め、キッドの衣装を隠す黒いマントを羽織り、じいちゃんさんに告げる。じいちゃんさんは頷き、入り口の扉を開いた。強い風が吹きすさび、衣装の上に羽織っていた黒い衣装がひらめく。だが迷っている暇はない。俺は勢いよく踏み出しヘリから飛び立った。
 素早く煙幕を投げ、辺りを煙に包む。そして煙が晴れる前に黒いマントを脱ぎ捨てれば――

 空中に佇む、怪盗キッドの誕生だ。

 あちらこちらから観客の歓声が上がり、空気がびりびりと震えている気さえした。
 正直緊張でおかしくなりそうだが、黒羽やじいちゃんさんのことが頭を過り、なんとか持ちこたえることができた。これで腹が括れた気がする。さて、ここからだ。だがそう思った矢先、俺は気付かれない程度に眉間にしわを寄せた。

「! 来ちまったか……」

 そう、雨が降ってきてしまったのだ。なんとかショーの間だけでも持ちこたえてくれと思っていだのだが、願いは届かなかったらしい。

 まずい、これでは映像の細工がすぐに気づかれてしまう……。これはさっさと仕事を済ませたほうがよさそうだな。

 そう判断した俺は、音楽プレーヤーを起動し黙ったままそっと足を前へ踏み出す。コツリ、コツリ……。足音に合わせて足を動かすのはなかなか大変だが、昨日死ぬほど特訓したから問題ないだろう。アイツに比べれば拙い付け焼き刃だろうが、幸い周りの観客たちもそこまで気にしていないようだ。

 順調に足を進めていた俺だったが、半分ほど歩いた所でブルーワンダーががたりと動き出した。恐らくまたあの仕掛けを始動させたのだろう。ま、そうくるのもアイツの計画通りだっていうから恐ろしいけどな。

『悠介様、あと5秒で次の作戦に移ります』

 耳に刺したインカムの向こうでじいちゃんさんが言う。やれやれ、ようやくか。
 静かなカウントダウンが0になった次の瞬間、俺は両手をポケットから出し、煙幕を投げつける。そしてそれに乗じて勢いよく上昇し、じいちゃんさんの乗るヘリに無事乗り込んだ。ヘリの扉が閉まった瞬間、思わず俺はがくりと膝をつく。

「ああ……緊張した……死ぬかと思った」
「お疲れ様です、悠介様。いい演技でしたぞ」
「そう言っていただけるとありがたいです……」

 俺は苦し紛れに笑みを浮かべた。すばやく衣装から作業服に着替えつつ、じいちゃんさんに尋ねる。

「黒羽は?」
「問題ありません。後は我々が無事に逃げ切るのみです。幸い、事前に仕掛けたアレのおかげで我々はある程度自由に動けますから」

 事前に仕掛けたアレとは、ヘリの機体番号の偽装だ。今俺たちが乗っている7号機の機体番号を、ほとんどすべてのヘリの機体に張り付けておいたのである。すぐにバレないよう、もう1枚ダミーの番号を軽く貼っておいたのも良かったようだ。

「なんとか上手くいってよかった……俺責任重大過ぎて死にそうでしたよ」
「ははは! 確かに、偽物のキッドに扮するのは大変ですからなあ」

 その口調からは哀愁が漂ってくる。じいちゃんさんも苦労してるんだろうなあ……。

「さて、早くヘリを返して坊ちゃまを迎えに……」

 そうじいちゃんさんが言った次の瞬間。
 ――どおん!と身を震わせるような爆発音が辺りに響いた。

 衝撃が空気を伝わってヘリを一瞬大きく揺らす。体勢を立て直しつつ音のしたほうを見れば、そこはもう酷い様子だった。博物館から伸びる一筋の道路。そこの一部がごうごうと炎が燃え盛り、真っ黒い煙がもくもくと立ち上っているのだ。どくりと、心臓が大きく音をたてて跳ねる。呼吸が浅くなる。背中に嫌な汗が伝う。

「じいちゃんさん、もしかしなくても、あの道って……」
「はい。快斗坊ちゃまの、逃走経路です……」

 段々と語尾が小さくなる俺たち。まさか、そんなことが。
 ……とても、嫌な予感がした。

 ヘリを元の場所に返すことも出来ず、俺たちは一目散にその道の周辺へ向かった。ガソリンか何かが爆発したのかというほど火の手も煙も収まる様子を見せない。最悪の事態を想像した矢先、俺は高架下の空き地に見慣れた白いハンググライダーを発見した。じいちゃんさんに伝え、すぐにそこに向かってもらう。

「快斗坊ちゃま!」
「黒羽!」

 橋の下にもたれているあいつを見つけ、俺たちは大慌てで駆け寄る。俺たちを認識した黒羽はこちらを見るなり、へにょりと眉を下げて笑った。

「今回も目当ての宝石じゃなかった……わりい、ふたりとも」
「いえ、いいんです、坊ちゃまが無事ならばそれで……!」

 今にも頬ずりをしそうな勢いでじいちゃんさんは黒羽に縋りつく。よっぽど心配だったんだろうな。その様子を見て黒羽は「大げさだな」と目を細め微笑む。改めて見ると、その身体は満身創痍という言葉がぴったりくるほどボロボロだった。あれだけの爆発に巻き込まれたんだ。無傷である方がおかしい。致命傷とまではいかないが、火傷も所々負っているようだ。

「黒羽」

 俺が名前を呼べば、黒羽が顔を上げてこちらを向く。相変わらず晴れ渡った青空みたいな清々しい色だ。
 ……だがそれが、今は少し気に障る。

 そんな俺の様子も露知らず、黒羽は困ったように笑って見せた。

「悠介、ありがとな。俺の代わりなんてやらせちまって……」
「……」

 俺は何も言わず、黒羽の胸倉をぐっと勢いよく掴んだ。今にも額をぶつけそうな距離でギリギリ静止する。

 じいちゃんさんが慌てたように声を荒げるが、俺はまるっきりそれを無視した。普段より快斗の空色の瞳が見開かれ、その中にありありと俺が映し出される。その表情がどうだったかなんて、知りたくもなかった。

「……ぇから」
「え?」
「お前が、どんなにすごいものを盗もうが、かっこよくマジックを披露しようが……お前が死んだら、意味がねえんだからな」

 あいつがわずかに息を飲むのが分かった。ちょうど切れた雲間から月明かりが差し込み、コントラストを強調する。
 俺は感情に身を任せて、思うままに言葉をぶつけた。

「お前が死んだら、お前の使命はどうなる? パンドラは? 親父さんの死は? ……全部、水の泡だからな」

 止めようとしていたじいちゃんさんも、黙って成り行きを見守っている。

「それだけじゃねえ。俺も、お前を許さない。勝手に共犯者にした挙句、勝手に死なれちゃ迷惑なんだよ」

 だから。そう言葉を切り、少しばかり言いよどむ。

「……だから、死ぬなよ」

 言いたいことは終わったとばかりにぱっと手を離す。軽く腰を浮かしていた黒羽がどさっと尻を地面に打ち付けた。黒羽はしばらく呆然と俺のことを見つめていたが、やがておすおずと視線を下げ、ついにはすっかり項垂れてしまう。

「……悪ぃ。心配かけたな」

 こちらからその表情は窺えないが、声色から判断するにかなりしゅんとしている。流石に反省してくれたか。それならいい。

「悪いと思うなら、次からはもう少し慎重に行ってくれ。……か、」

 ……ああくそ、面倒だな。
 俺は吹っ切るように言い放つ。

「快斗」

 その言葉を口に出した瞬間、がばりと黒羽が顔を上げる。
 それとほぼ同時に俺は黒羽に背を向けた。

「え、」
「ささ、じいちゃんさん、早く帰りましょう。ヘリをここに置いちゃった以上、長居は危険です」
「おい、悠介、今、俺の名前」
「このどうしようもない命知らずの手当てもしなきゃだし」
「ちょ、人の話聞けよ!」

 背後で黒羽が喚く。
 うるせえな。いつも人の話聞かねえくせに、こういう時だけしっかり聞きやがって。

 俺は赤く染まった顔をあいつに見られないよう、さっさと歩みを速めた。


 ……おいおい、
 なんて顔してんだよ、お前。