#06
携帯が震える音で目が覚める。
朝が滅法弱い上ものぐさな俺は、半分寝たまま手さぐりで近くの携帯を探す。充電ケーブル発見。手繰り寄せるように引っ張り、少々乱暴にケーブルを外した。電源ボタンを押す。寝起きでしょぼしょぼとした目にブルーライトはいささかきつい。目を細めながら画面を見れば、着信が1件入っている。黒羽からだ。なんなんだよ朝っぱらから……と思っているとまたもや黒羽から着信が入った。通話ボタンをタップし、のろのろと耳に当てる。
『悠介! 大変だ! 今すぐじいちゃんの店に来い!!』
あまりの大声に耳がキーンと傷んだ。どう考えても寝起きに聞く音量じゃない。少々携帯を離しつつ、会話を続ける。
「んだよ黒羽……まだ8時半だぜ? 日曜なんだからもっと寝かせろよ……」
『そうもいってられねーんだ。鈴木のじいさんがまたキッドに挑戦状を出してきたんだよ!』
「まじか……」
ぐったりと声を上げる。あの爺さん、何度も何度もやられるわりにめげないよな……鋼メンタルかよ。強すぎる。
『とにかくお前も早く来いよ! じゃあな!』
そう言って一方的に電話が切れる。
どうやら、平和な日曜日の二度寝はお預けのようだ。
***
支度もそこそこに家を飛び出し、じいちゃんさんの店のドアをくぐる。既に黒羽もついていたらしく、俺を見るなり目をじとりと細めて「おせーよ」と言った。無茶言うな、こちとら寝起きだぞ全く。欠伸を隠すことなく俺は彼らの元に歩み寄った。
「んで? あの爺さんは何て?」
「はい。こちらをご覧ください」
そう言いながら、じいちゃんさんが見開き2ページに渡るどでかい新聞広告をビリヤード台に広げてみせた。
『怪盗キッドに告ぐ! 貴殿が所望するビッグジュエル
紫紅の爪≠今宵錦座4丁目交差点の中央に配置する これを手中に収めたければ我が挑戦を受けるがよい ゆめゆめ逃げることなかれ!!
鈴木財閥相談役 鈴木次郎吉』
……。
「毎度のことながらやることが派手ですね……あのじいさん」
「ええ……しかも今夜来い、と」
「ああ、無茶苦茶言いやがるぜ」
普段もっと無茶苦茶言ってるのはお前だけどな、という指摘はぐっと飲み込んでおく。話を拗らせたくないし。
俺は携帯を取り出し、さっと場所を検索した。錦座4丁目、っと。
「なるほど、歩行者天国の真ん中に展示するのか」
展示方法はまだ定かではないが、なかなか斬新な展示方法だ。というか普通そんなこと誰もしないだろう。金に物を言わせるあの人だからできるようなもんだ。
「お宝はパープルネイル……ミュールの爪先に、100カラットのアメジストか」
「坊ちゃま。今回はあまりにも時間がなさすぎます。次の機会を待った方が……」
「いいや、今日盗む」
じいちゃんさんの言葉を遮るように黒羽は断言した。その瞳は一ミリも揺らぎそうにない。やれやれ、挑発に乗りやすいのも困ったもんだ。見かねた俺は、じいちゃんさんに助け舟を出すようなつもりで黒羽に苦言を呈す。
「黒羽お前、流石にそれは無茶だろ。あの金持ち爺さんのことだ。もうすっかりおなじみって感じだけど……またどんな手を使ってくるかわかんねーんだぞ?」
「んなもん、盗むだけなら何とでもなるよ」
黒羽の強気な言葉に俺は怪訝そうに眉を寄せる。
「……マジで?」
「決まってんだろ、俺を誰だと思ってんだ。というかなんだよその顔、信じてねえのか?」
「いや別に、そういうわけじゃねえけど」
単純に方法の想像がつかないだけだ。そんな俺を他所に黒羽はただ、と小さく考え込む。
「ただ、折角の挑戦状だからな……出来る限り面白いショーにしてこそ、怪盗キッドだろ」
それに、と言葉を切る。どうにも抑えられないのか、くっと口角が持ち上がった。
「鈴木のヤマなら、ぜって―アイツも来るはずだしな」
その顔は心なしかどこか楽しそうだった。じいちゃんさんは「アイツ?」と首を傾げているが、俺は対称的に呆れたように目を細めている。黒羽が指している人物を痛いほど知っているからだ。
というか最近のこいつ、事あるごとにそればっかだし。ほんと大好きだなお前。
「わかったよ。今回も協力してやる」
「こうなったら仕方ありませんね」
「悠介、じいちゃん! ありがとな!」
黒羽はぱっと顔を輝かせた。どうせこうなると分かっていたくせに。白々しいやつめ。
「しかしお前、今回はどんな作戦で行くんだ?」
「それはこれから考える。実際に現場を見ながらな!」
黒羽はニッと白い歯を見せて笑った。
***
時はあっという間に流れ、夜。
俺は犯行現場がよく見えるビルの屋上で、テレビ局のクルーとして潜入していた。
大慌てで進む作業を進行しながら、俺は数時間前の会話を思い出す。
『……てのが、今回の作戦だ。配置としては、悠介はテレビ局のクルーに紛れて俺の手伝い。じいちゃんは今回裏方に回ってもらう』
『おい黒羽、この作戦俺また責任重大じゃねーか! 流石にこれは荷が重いっつーか……』
『じゃあこれをじいちゃんにやらせんのかよ? 結構身体に負担かかるぜ?』
『ぐっ……それは……』
『んじゃ、決まりだな!』
……うん。今思い出してもかなり頭にくる。
作業を進める手を止めずに、ちらりと眼下を見下す。次郎吉氏が大々的に叩きつけた挑戦状のお陰か、錦座4丁目は普段の数倍は人で溢れかえっていた。キッドが盗む瞬間を一目見ようと集まったのだろう。前から思っていたのだが、この地域の周辺は野次馬根性がすさまじすぎる。パリピかよ。
その群衆の真ん中……ひと際目立つ位置に、今夜の獲物は配置されていた。遠くからでもわかる美しい輝きを放つパープルネイルを取り囲むように4人の警官が配置されている。そのすぐ傍には……次郎吉氏と警察官が言い争っているのが見えた。彼は確か、キッドを捕まえるといつも息まいてる中森警部だな。多分あの感じからして、『こんなところに置くなんてどうかしてる!』みたいな話をしてるんだろう。いつもそんなこと言ってるもんな。いいぞもっと言ってやれ。
『悠介、調子はどうだ?』
群衆に紛れて情報を仕入れに行っている黒羽からの通信だ。ちらりと眼下に視線をやれば、見つけた。ついでにばっちり目が合った。こんな離れてんのになんで目が合うんだよと呆れつつ、なるべく周りのクルーに聞こえないよう、俺は声を潜めるようにして答える。
「わりと順調だぜ。俺がお前の共犯者だなんて思ってもいないんだろうなってくらい仕事を押し付けられる」
『そりゃよかった』
はは、と気楽そうに笑う。俺は作業を進めながら尋ねた。
「そっちはどうなんだよ」
『まあぼちぼちだ。問題はねーよ』
すると向こうで俺を呼ぶ声がした。今行きますと返事してから黒羽に呼びかける。
「じゃあまた後で。しくじんなよ」
『お前もな』
そう言ってぷつりと通信が切れた。はーん、言うじゃねえか。
錦座の大時計の短針がきっかり8を示した時、どこからともなく白い飛行物が現れた。それがハンググライダーだとわかった瞬間、会場のボルテージは一気に高まっていく。それを少しでも近くから撮影しようと、テレビ局のクルーはそれを追って屋上を走る。
「キッドです! 怪盗キッドが現れました!!」
黒羽は現場の上空に到着すると、ハンググライダーから煙幕を吐きながら旋回し始める。そしてぼふんとひと際大きな爆発が上がったかと思うと、上空から姿を消してしまった。キッドはどこに行ったのだと観衆がざわめく。
人々が空に視線を奪われている中――
――そいつは音もなく、展示されたミュールの台座に降り立った。
「か、怪盗キッド!!」
それに気づいた警備員が声を上げる。その声を皮切りに人々もそれに気付いたようで、歓声が波のように伝播していった。俺たちテレビクルーもそれをとらえようと必死である。
するとひとりの女性リポーターが黒羽にマイクを向けた。
「か、怪盗キッドさん! 何か一言!」
いや何やってんだ。早く捕まえろよ警備員。
俺は心の底からそう思っているが、その思いは通じないようだ。マイクとカメラなんてものを向けられれば、元来目立ちたがり屋のアイツが黙っているわけも無い。するとやはり、あいつは得意げに話し始めた。
『ああ……では、鈴木次郎吉相談役に伝えてください。今回は寝耳に水な話……充分な時間が取れず、予告状を出せなかった無礼をお許しいただきたい、とね』
そう不敵に言った次の瞬間、何か仕掛けが作動する音がした。
見てみると、歩行者天国の四方を囲むように大きな網がだんだんとせりあがっていく。突然の出来事に、なんだこれはと辺りの人も混乱しているようだった。なるほど、あの変な地面の仕掛けはこういうことだったのか。地面に一度降りてしまった以上、ハンググライダーは使えない。かといって地上を移動して逃げようにも網を超える際にチェックが入る。まさに四面楚歌、とでも言いたかったんだろうが……。
「アイツの予想した通り、だな」
混乱するテレビクルーに紛れて、俺は小さく呟いた。人々がそこに意識を向けているのを見計らって、俺は持っていたコードを置き、そっとクルーから距離をとる。
今のところ作戦通りだ。あとはショーのメインの仕上げに取り掛かるだけ。
俺はあらかじめ隠しておいた重りを自身の身体に取り付けた。屋上に設置した滑車の具合を確かめてから、片方のフックを同じように身体に固定する。
『ではまた、十数秒後に。時空を超えた先でお会いしましょう……』
アイツのキザなキメ台詞兼合図がクルーのマイクを通して聞こえる。そして次の瞬間、ぼふんと爆発が起きて黒羽は煙に包まれた。数秒してキッドが消えたことがわかると、辺りが再びざわめき始める。それとほぼ同時に通信が入った。
『いいぜ』
「ああ。いくぞ」
俺は深呼吸をして、屋上から外へと踏み出した。
垂れ幕の裏を滑り降りるように落下する。
クソ、覚悟していたとはいえかなり怖いな! 事前にロープの強度も確認済みだから危険は無いのだが、やはりこういうのは気持ちの問題だ。声を出すわけにもいかないため、歯を食いしばって何とか悲鳴を噛み殺す。
途中でカモフラージュのために発射するカードを大勢の人が戸惑いがちに読み上げていくのに焦りを感じながら、俺は下の地面に向かって降りていった。
「『three』」
「『two』」
「『one』」
俺が地面に足をつけた次の瞬間、先ほどまで俺が居た屋上で大きな爆発が起きた。
歓声が上がったということは、ショーは無事成功したのだろう。やれやれ、なんとか間に合ってよかった。
とりあえずこれで俺のメインの仕事は終了だ。あー本当に疲れた。正直もうしばらくこんなことはやりたくない。
彼らがキッドに夢中になっている間に重りと命綱のロープを外し、俺は素早く垂れ幕の裏から抜け出す。そして再び屋上へ戻り、何食わぬ顔でテレビ局のクルーに紛れ込んだ。
俺が戻った時には既に黒羽はハンググライダーで逃走した後だったらしい。何とか逃げられたようでよかったなと思っていた俺の耳に、興奮した様子のリポーターの言葉が飛び込んできた。
「明晩8時! 再び怪盗キッドはこの場所に現れるとのことです! 我々日売テレビは、明日の放送予定を変更し――」
その手には先ほど黒羽が盗んだはずのミュールの片足が握られている。
……また明日、だと?
***
次の日の夜。
俺は昨日と同じようにテレビ局のクルーに混じって慌ただしく働いていた。だがその表情は晴れない。そりゃそうだろう。もうこりごりだと思っていたことをもう1回やる羽目になったんだから。俺はため息を噛み殺しつつ、目の前の交差点を見やる。
今日は昨日とは違って、初めから網を張っている状態のようだ。しかもその網の中には一般人は誰も入れず、警備員を8人待機させているのみ。そのうえ近くのビルの屋上まで封鎖と来た。流石にあの爺さんもやられっぱなしじゃいられないらしい。
不平不満で溢れるテレビ局のクルーに混じって、俺は辺りを見回す。一般の人たちも昨日とは違って網の外に追い出されたことでかなり不満を募らせているようだ。恐らく人で溢れかえっていたのが敗因だとあの爺さんは分析したんだろう。悪く無い着眼点だ。現に例の仕掛けを知っている俺はどうしたものかとかなり頭を悩ませている。
「黒羽、この状況でどうすんだよ一体」
たまらずインカム越しに話しかければ、黒羽はいつもと変わらぬ様子で言い放った。
『大丈夫。そのまま待機してくれ』
「って言ってもよー……」
『いいから。俺を信じろよ』
そう言って通信は切れてしまった。こうなったらアイツを信じるしかないか。俺は指示があるまでテレビ局クルーの手伝いに奔走することにした。
するとしばらくして、ぼふんと何かが爆発する音がした。そちらに目を向けると、網の中で何かがふわふわと漂っている。どうやらパラシュートつきのキッドカードのようだ。恐らく黒羽が投げ込んだのだろう。
『みなさんこんばんは。怪盗キッドです。恐縮ですが、今宵のマジックショーは中止いたしたいと思います』
その言葉が聞こえた瞬間、辺りから残念そうな声が上がる。テレビ局の人たちも信じられないような顔で嘘だろ!?と叫んでいる。
一体何を考えてるんだ、アイツは……。
『観客もテレビも無いこの寂しい状況では、どうにもテンションが上がらなくて……。では皆さん、ごきげんよう』
その言葉を最後にパラシュートは煙幕に包まれ、消えてしまった。人々の不満はさらに増大していく。
そんな中、誰かが声を上げた。
「いーれーろ!」
誰が上げたかもわからないその言葉を皮切りに、次々と入れろコールが蔓延していく。人々は溜まっていた不満を爆発させるように大声でコールした。波のように広がったコールが夜の錦座4丁目に響き渡る……。傍から見たら異様な光景だ。やがて誰かの入っちまおうぜ!という声を皮切りに群衆は勝手に網をくぐり、次々と中に入っていってしまった。高まった観客の熱はまだまだ収まりそうにない。
……なるほど、やっとこいつの狙いがわかった。
「うまいこと考えたな黒羽」
『だから信じろって言ったろ?』
ほどなくして屋上の規制も解除され、俺たちテレビ局のクルーはようやく屋上に駆け付けることに成功した。不満を発散させるように彼らは嬉々としてカメラを眼下の交差点に向ける。
ここまでくれば、あとは昨日とやることは変わりない。……やりたいかどうかは別だがな。
すると程なくして、網の中の上空で小さな爆発が起きた。現れたのはまたもやパラシュート付きのキッドカードだ。
『ではギャラリーも賑わってきたようですので、間もなくショーを開演したいと思います!』
その言葉を皮切りに辺りが歓声に包まれる。本当にキッドが来ることを待ち望んでいるんだ、この人たちは。……どんだけキッド好きなんだよ。
「こっちはいつでも大丈夫だぜ黒羽」
『ああ。今行くよ』
通信が切れた数秒後、リポーターが上空を指さした。その先にいるのは勿論黒羽だ。悠々と網を超えて錦座4丁目上空に現れるその姿を見て、ギャラリーからも次々に歓声が上がる。もっと近くから撮影しようと懸命にカメラを向ける彼らの補佐をしながら、俺はじっと様子を見守っていた。
飛びつかれた翼を休める鳥のように、黒羽はゆったりとミュールの台座に降り立つ。その瞬間、観客のボルテージが最高潮に達した。俺は昨日と同様、その隙にそっとその場から離れる。隠していた重りと命綱のロープを慣れた手つきで身体に固定した。
『長らくお待たせいたしました。では昨夜同様、我が肢体が時空を超える様を、とくとご覧あれ!』
その言葉を最後に、黒羽は再び煙幕に包まれ姿を消した。観客がどこだどこだと探している最中に、アイツからの通信が入る。
『よし、始めてくれ』
「了解」
俺はぐっと歯を食いしばり、屋上から飛び降りた。
昨日と同様に、垂れ幕の裏を滑り降りるように落下する。
一度経験したとはいえ、怖いもんは怖い。高所恐怖症では無いと思うのだが、やはりこの高さだ。飛び降りるのは怖いに決まっている。歯を食いしばって何とか悲鳴を噛み殺す。
途中でカモフラージュのために発射するカードを大勢の人が読み上げていくのに焦りを感じながら、俺は下の地面に向かって降りていった。
「『three』!」
「『two』!」
「『one』!」
もうすぐ地面だ、と思った次の瞬間。
『重りを捨てろ!』
「!」
急にインカムからあいつの声が聞こえてきた。
驚きつつも、指示通り重りを俺の身体から外す。どさりと重りが地面に落下する音がした。これで俺はこのロープを外さない限り地面に降りることは出来なくなった。というわけで今現在、俺と黒羽はビルから宙ぶらりんなわけだが……あいつ、今一体何してんだ?
「おい黒羽、どうした。何かあったのか?」
インカムで呼びかけても反応は無い。
いや、マジでどうしたんだ。垂れ幕の中だから外で何が起こってるのか全く分からねーし。かといって外をのぞき見するわけにもいかねーし。宙ぶらりんは正直ちょっともうきついし……。
どうしたもんか考えあぐねていると、だんだん辺りがざわつき始めたのに気付いた。
「おい! あれキッドじゃね?」
「すごい! ビルの壁に立ってるよ!」
ビルの壁に立ってる? ちょっと待てお前何してんだ! そんなの予定にねーぞ黒羽!
……と声に出して言うわけにもいかず。
一体いつバレるかもわからない時間をハラハラしながらやり過ごす。頼むから早くこの場から助けてくれ黒羽!
そんなことを考えていると、ふいに視界が明るくなった。なんと俺を覆い隠していた垂れ幕が外れてしまったのだ。
まずい、そんなことされたら重り役である俺の姿が観衆に――
「悠介!」
不意に名前を呼ぶ声がした。俺は弾かれたように上を見る。
するとロープから手を離した黒羽が壁を軽く走るようにしながら、こちらに向かって手を差し伸べていた。
「手を伸ばせ!!」
その真剣な表情に、俺は瞬時にこいつがやろうとしていることを察する。
俺は苦し紛れに笑った。
「――ったく! 無茶言うぜお前は!!」
俺は恐怖心をなんとか振り払い、ロープを身体から外す。
そして思い切り壁を蹴った。
ふわりと身体が浮く感覚。
「黒羽!」
俺の伸ばした手を、黒羽が迷いなく掴んだ。
――絶対に、この手だけは離すわけにはいけない。
その一心で俺も黒羽の手を力強く握る。
黒羽は、よくやったとばかりに微笑んだ。
黒羽はハンググライダーを素早く起動させる。
観衆すれすれではあったものの、プロペラを利用して無事空中に舞い上がった。周りの観客の歓声は最高潮だ。屋上から何かブーメランのようなものが飛んできたが、黒羽はひらりとよけて悠々と網を超え、錦座を後にする。なんとか窮地は脱したようだ。
上空を飛びながら黒羽は呑気に言った。
「わりーな悠介、無理させちまって」
「無理とかそういう問題じゃないだろうがこの馬鹿!!」
ハンググライダーから伸ばした固定ベルトを装着し、やっと安心した俺はここぞとばかりに声を荒げた。心臓は未だにバクバクと鳴りやまないし、足もがくがくだ。なんならさっきまで黒羽と繋いでいた手はすっかり痺れてほとんど感覚がない。背中なんか冷汗でびっしょりだ。
「あーあー……今度こそ本当に死ぬかと思った……」
「でも死ななかっただろ?」
「屁理屈はいいんだよこのキザ野郎」
ぎろりと睨むが、黒羽は全く気にしていないようであっけらかんと笑っている。クソ、こいつ他人事だと思いやがって……。
「ほんっとに……もう飛び降りはこりごりだぜ」
「あれ? 悠介お前、高いところ駄目だったっけか?」
「高いところ平気な奴でも、そこから飛び降りるのはまた別の話だろうが」
「そんなもんか?」
「そうだよ!!」
俺の悲痛な叫びが空しく響く。
見事な満月が浮かぶ絶景の夜空を滑空しながら、俺たちはしばらくくだらない言い合いを続けていた。
この手だけは、
死んでも離すわけにはいかない。