#07
思えば、今日は朝から運が悪かった。
前日に降った雨が作った水溜まりを思いきり踏んで靴がぐしょぐしょになったり、授業中に分からない問題ばかりことごとく当てられ恥をかいたり、移動教室先に筆記用具を忘れたことに授業開始数分前に気付いて猛ダッシュしたり、昼休みに買おうと思った弁当が目の前で売切れたり……挙げればキリがない。それくらい今日の俺はありとあらゆる種類の不運に見舞われていた。
仕方ない。今日はそういう日なんだと、一応自分の中で割り切ってはいたのだが……。
「ねえお兄さん、どうしたの? なんか顔色悪そうだけど……」
俺の目の前にいるのは、顔との比率がおかしい大きなメガネをかけた小学生だ。その眼鏡越しでもわかるほど聡明なマリンブルーの瞳を輝かせながら、わざとらしいくらいの猫なで声を出す。こてん、と小首まで傾げるオプション付きだ。どこからどう見たって普通の小学生だが、俺は知っている。
こいつが常人なんて言葉で収まるほど、普通の人間ではないということを。
「大丈夫だ。……多分」
苦々しい顔で俺は返事をする。
ああもう本当に、今日はとことんついてねえな……。
***
どうして俺がこんな状況になってしまったのか。それを説明するために、まずは少しだけ時間を遡ることにしよう。
一日の授業を終えた俺がいつものように帰宅の準備をしていると、母さんから連絡が入った。なんだろうと思いながらメッセージアプリを起動する。
『帰りに米花百貨店でケーキを受け取ってきてくれない?』
そのメッセージを見た途端、俺は思わず顔をしかめる。思ったことをそのまま画面に打ち込んで送信した。
『……なんで米花百貨店?』
すると間髪入れずに既読が付き、連続で返事が来る。
『ほら、今日お父さんの誕生日でしょ?』
『それで最近米花百貨店にできたケーキ屋さんでケーキを注文したの』
『でも仕事が長引いて受け取れなくて……』
『だから学校帰りに受け取っておいて欲しいの!』
最後には可愛らしいキャラクターが頭を下げるスタンプが3つほど連続で送られてきた。俺はため息をつきつつ、渋々返事を打つ。
『……わかった。店の名前は?』
そうして数度やり取りをしてから俺はやれやれと電源を切った。すると、日誌を提出し終わったらしい黒羽がひょっこり顔を出してきた。
「待たせたな! んじゃ帰ろーぜ」
「あーわり、黒羽。俺今日ちょっと用事があるんだ」
「用事?」
黒羽は不思議そうに目を丸くする。そこで先ほど母さんから送られてきたメッセージの内容を説明した。すると、黒羽はけろりとした顔で言ってのける。
「じゃあ俺も付き合うよ。そのケーキ屋、ちょっと気になっててさ」
「……まじかよ」
「おい、なんでそんな嫌そうなんだよ」
いーだろ別に俺がついていっても!と言う黒羽を断り切れず、結局俺たちはふたりで米花百貨店に向かうことになった。
バスに揺られること数十分。平日ということもあってか比較的スムーズに百貨店に到着することができた。人ごみにちらほら制服姿も混じり始めている。もしかしたらこれから混むかもしれないな。人ごみは嫌いだ。さっさと済ませて帰ろう。
「そのケーキ屋って何階だ?」
「あーっと、どこだっけな……」
近くにあった建物内の地図や携帯を見ながら、俺たちはああだこうだとその店を探す。すると10分程度で店を見つけることができた。だがその店の前に並ぶ人たちを見て思わず俺はうわ、と顔をしかめる。
「人だかりやば……」
「ま、最近出来た人気店だからなあ。因みに休日はもっと混むらしいぜ?」
「うへえ……」
正直げんなりしているが、不満ばかり言っても始まらない。とりあえず俺たちはその列に並ぶことにした。現在前から6番目に俺たちは位置している。その列は比較的スムーズに流れているようだった。ものの15分程度で、あとひとりというところまで順調に進んでいく。
すると携帯が着信のメロディーを奏でた。俺ではない、黒羽のだ。
「わり、ちょっと電話出てくる」
「俺は別に気にしないけど、ここじゃ無理な話か?」
「そーいうわけでもねえけど、電波悪すぎて聞き取りにくいんだよここ」
「なるほどな。んじゃ行ってこい。終わったらこの店の近くで待ってるから」
「了解!」
そうにこやかに笑って黒羽はすたこらと駆けていった。そうしているうちに俺の番になる。予約していた名前を言えば、少々お待ちくださいと店員さんに微笑まれた。それからそのまま店の奥に引っ込む。手持ち無沙汰になった俺は特に意味もなく辺りをぐるりと見回した。
そういえば、こうやって米花百貨店に来たのは初めてだ。もしかしたら俺がこの世界に来る前に本来の俺……この世界の空閑悠介は行ったことあるのかもしれないけど。へえ、流石都会だな。大抵のものが何でもそろって――
そこで俺は見てはいけないものを見てしまった。
数メートル先の雑貨屋で、小学生が女子高校生と共に商品を選んでいる。
着こなせているのかわからない特徴的な青ジャケットに赤い蝶ネクタイ、大きなスニーカー、特徴的な跳ね方をした髪。それから、顔の大きさに合っていない大きな眼鏡。一見無邪気で人畜無害そうなその瞳。
……間違いない。
彼は日本一有名な死がm……小学生探偵、江戸川コナン様だ。
妹からの入れ知恵がなくとも彼くらいはもともと知っていたし、黒羽を手伝う際に嫌というほど対峙してきた。最強過ぎる天敵だ。この間の瞬間移動の件然り、最初のエッグの件然り……。なんでも巷で彼はキッドキラーとまで言われてるらしい。こっわ。本当に強すぎる。中身高校生なんだっけ? そんなやつ高校生でもいねーよ。
……まあ現役高校生兼怪盗の助手って奴もなかなかいねーとは思うが。
こうしていると普通の小学生なんだけどな……と思いながらそろそろと遠巻きに見ていると、視線に気づかれてしまったらしい。ふいとこちらを見たので俺はぎょっとして大慌てで視線を戻した。明らかに不自然だっただろう。まずい、やってしまった。心臓が段々と高鳴っていく。手のひらにうっすらと汗をかく。
その時ちょうどケーキを持った店員さんが戻ってきた。
「お待たせいたしました! こちらがご注文の……」
店員さんの説明を遮り、俺は慌てて商品を受け取る。ほとんどひったくるようにケーキを手にしたのがあまりにも挙動不審だったためか、店員さんにはぽかんとされてしまった。だが許して欲しい。正直今の俺はケーキどころでは無いのだ。とにかく一刻も早くこの場所から――
「ねえお兄さん」
「!」
ヒュッと、喉の奥が鳴る。
バクバクと壊れそうな心臓をなんとか押さえつけながら、俺はそっと声のする方へ視線をやる。江戸川少年はその大きな瞳を上目遣いにしながらこちらを見上げていた。
「どうしたの? なんか顔色悪そうだけど……」
純真無垢な顔で、死神は言った。
――そして冒頭に戻る。
スタスタと店を離れて近くの休憩スペースのようなところに逃げ込んだのだが、死神こと江戸川少年は相変わらず離れてくれそうにもない。ねえねえとか声をかけながらずっとこちらの気を引こうとしてくる。本当はすぐにでもこの店から離れたいのだが、黒羽が戻ってこない事にはどうにもできないし。
というかそもそもアイツはどこまで電話しに行ってんだ。……いやこの場合、勝手に店を離れた俺にも責任があるな。探してたらすまん黒羽。俺はここに居ます。
そんなことをあれこれ考えながら少年と目を合わさないように早く時が過ぎるのを待っていると、唐突に少年があれ?と声色を変える。
「お兄さん、もしかしてどこかで会ったことある?」
ぎくりと、思わず固まってしまった。
そう。俺はこの間の瞬間移動の一件で、黒羽と共に逃げる際にその姿を見られているのだ。変装用に眼鏡をして髪型を変えていたが、しょせんはその程度だ。分かるやつはわかるだろう。
それにこいつの中身は泣く子も黙る名探偵。普通ならわからないようなことまで見抜く天才だ。俺の正体を見抜いていたとしても無理はない。
現にやはりこいつは、俺が言い澱んだのを目ざとく見抜き、すぐさま追い打ちをかけてきた。
「やっぱり! しかもお兄さんはわかってるんだね! ずるいや、僕にも教えてよ!」
あーどうしたもんかねこの状況……。
周囲の視線を気にすることなく、ねえねえと俺の身体を揺らしながら声をかけてくる江戸川少年の猛攻をさてどうやって切り抜けようか。俺が無い頭を振り絞ろうとしたその時。
「おや、江戸川くんではありませんか」
不意に見知った声が降ってくる。
ふたりしてそちらを見れば、この場としては実に意外な人物が立っていた。
「は、白馬の兄ちゃん!」
そう、立っていたのは白馬だったのだ。
学生服姿の白馬はいつものように爽やかな笑みを浮かべつつ、ゆったりと歩み寄ってくる。まさかこんなところで出会うとは思っても居なかったのだろう。江戸川少年は俺と同じようにすっかり目を丸くしていた。
そんな白馬は俺の傍まで来たところで、一瞬だけこちらに笑みを向ける。江戸川少年にも気づかれないほど短いアイコンタクトだったが、俺はその瞬間確信してしまった。
……なるほど。そういうことか。
気付いた途端に気が抜けたらしく、俺は小さく息をついた。だがそんな俺に構うことなく、江戸川少年は白馬に質問を投げかけていた。
「知り合いなの?」
「ええ。僕のクラスの同級生の悠介くんですよ。それで今日はふたりでクラス会の買い出しに来ていたんです」
「クラス会の買い出し? 白馬の兄ちゃんが?」
「運悪くじゃんけんに負けてしまいまして」
江戸川少年の意外そうな表情を見ながら、白馬はわざとらしく肩をすくめてみせる。そのやり取りを見ていた俺はさりげなく携帯で時間を確認し、ベンチから立ち上がった。
「白馬。そろそろ帰りのバス来る」
「おっと、もうそんな時間ですか……。それでは僕たちはここで」
「うん。……またね白馬の兄ちゃん」
ごく自然な流れで俺たちはその場を後にする。白馬に受け取ったケーキを預けてから百貨店の個室トイレに入り、身体に何もつけられていないことを確かめる。トイレから出て、俺はケーキを受け取りながら言った。
「ありがとな黒羽」
「おー 礼には及ばねーよ」
この場で変装を解くわけにもいかないためか、声だけ戻した状態で黒羽はにししと笑う。白馬の顔でそんな笑い方するのは違和感がすごいな……。
「まさか白馬の声で『クラス会の買い出し』なんて言葉が聞けるとは思わなかったぜ」
先ほどの江戸川少年とのやり取りを思い出して俺は小さく笑みを浮かべる。さっきは何とか堪えられたが、とうとう我慢できなくなってしまったようだ。その様子を見ていた黒羽も、「あいつとは正反対の言葉だもんな」と言いながらケラケラ笑っている。
百貨店の出口に向かいつつ、俺は黒羽にひとつアドバイスをした。
「それと、一応言っとくけど白馬は俺のこと下の名前で呼ばないからな」
「そーいやそうだったわ」
つい癖で、と笑う黒羽。……つい癖で、のノリで俺の本名をばらすんじゃねぇ。俺がじとりと目を細めると、仕返しのつもりなのか今度はアイツの方から忠告が降ってきた。
「そういう悠介もだぜ? アイツには気を付けろっていつも言ってんだろ?」
「……それに関しては本当にすまん。次からは気を付ける」
俺は先ほどまでの表情を引っ込め、潔く反省する。
まさかこんなところで偶然江戸川少年と会うとは思っていなかったため完全に油断していた。気付いた黒羽が気を利かせてタイミングよく白馬に変装してきてくれなかったらどうなっていたことか……。次に米花町に来るときはもう少し警戒していかねーと。
そんなことを思っていると、黒羽が思い出したかのようにさらりと言った。
「そうだ。明日の朝じいちゃんち集合な」
その言葉を聞いて俺は思わずぴたりと固まる。思いっきり苦々しい表情を浮かべながら、俺はおそるおそる尋ねた。
「……まさか」
「ああ、そのまさかさ」
黒羽は白馬の顔のまま、まるでキッドの時のように不敵な笑みを浮かべる。
「次の獲物
天空の貴婦人≠狙う作戦会議だ!」
まったく、
しょうがねえなぁ、お前は。