こんな明日は願ってない

「かざねー」
「何? 萩兄」

 いつものように3人分の夕食の調理をしている途中。ふと萩原に名前を呼ばれ、最上は振り返らずに声だけで返事をする。ソファでくつろいでいるらしい萩原も同じく最上の方を向かずに続けた。

「もしもさ、俺か松田、どっちかしか助けられないってなったら……どっちを選ぶ?」

 萩原のよくわからない問いかけに、最上は思わず眉を寄せる。

「……何その質問。心理テスト?」
「ま、そういう感じかな?」

 んでどっち?と萩原は答えを促す。最上はうーんと考えながらコンロの火を止めた。そして人数分の皿に盛りつけながら答える。

「どっちも助けるよ」

 盛り付け終わった皿を盆に乗せ、萩原の座るソファの前のテーブルまで運んだ。

「だって私にとって、萩兄も松兄も同じくらい大切だし」

 ことり、と皿を並べていく。

「だから、どっちも助ける」

 最上の答えを聞き終わり、萩原は「ふうん」と吐息にも似た相槌を打った。さてその質問の意図を聞こうと、最上は萩原に視線を向ける。

「……でも助けてくれなかったじゃん。俺のこと」

 ――どろり。
 萩原の口元から血が伝う。

 見開かれた虚ろな瞳はぞっとするような闇色で、最上の方をじっと見つめていた。その身体中から血が噴き出し始める。

 最上は思わずヒュッと息を飲み、皿を取り落とす。
 カーペットの上だったため皿は無事だったが、出来立ての料理が零れて地面に叩きつけられ、ぐちゃりと、思いきり周囲を汚した。

 固まって動けない最上を他所に、萩原は虚ろな瞳をにやりと不気味に歪める。

「噓つき」


***


「――ッ!!」

 がば、と勢いよく身体を起こす。

 視界に飛び込んできた見慣れた自室の風景に最上は、自身が夢を見ていたことを自覚する。疲れ切った様子ではあ、と溜息をついた。時計の秒針の音と自身の発する呼吸音だけが部屋に響く。
 カーテンの向こうはうっすらと白んでいるが、朝にはまだほど遠い。時計を確認するとやはり、目が覚めるには早すぎるくらいだった。その流れで今日の日付が自然と目に入る。

 11/7

「……」

 ――なるほど、そういうことか。

 未だ早鐘を打ち続ける心臓を押さえつけるように、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。最近朝は肌寒いくらいの季節に差し掛かったというのに、身体中汗びっしょりだ。震える手が、自然と近くにあったシーツを握りしめる。そのまま膝を抱えて顔を埋めた。

 所詮ただの夢だ。どう考えたって、彼があんなことを言うはずがない。
 ……そう、頭ではわかってはいるのだが。

「……ごめん、萩兄」

 震える声でつぶやかれた独り言は、誰の耳に入ることなく消えていった。


***


「最上さん?」

 佐藤の呼びかけに、最上はハッと我に返る。慌てて佐藤の方を見れば、心配そうに眉を寄せていた。

「は、はい。すみません、何か?」
「大丈夫? さっきからずっとぼんやりしてるみたいだけど」

 指摘されてから改めて、自分が書類作成にあたっていたことを思い出す。そしてその手が止まっていることも。申し訳なさそうに視線を下げながら最上はもう一度「すみません」とつぶやく。そのやつれたような表情を見て、佐藤はすっと最上の額に手を当てた。

「うーん……熱があるわけじゃなさそうだけど、もしかして体調悪い?」
「いえ、その……今朝は少し、夢見が悪くて。それで、あんまり眠れなくて……」

 最上の言葉を聞いて、佐藤は何か考えるようにうーんと視線を上にやる。そしてひらめいたようにぽんと手を打った。

「よし、じゃあちょっと気分転換に外の空気でも吸いに行こっか」
「え?」
「そうと決まったら即行動よ!」

 ほらほらと急かされるままに最上は佐藤に手を引かれる。最上は慌てて鞄に最低限の荷物を詰め込み、席を立った。

 佐藤が連れてきたのは意外や意外、杯戸ショッピングモールの屋上である。巨大観覧車目当てなのか、平日の夕方にしては人が多い。楽しそうにはしゃぐ人たちの姿を見ながら、最上と佐藤は隣同士ベンチに腰かけて観覧車を見上げる。高所特有の風がすっと吹き抜けて、ふたりの髪を揺らした。

「何となく好きなのよね。観覧車が回っているのを見るの」

 だから私もたまに来るのよ。佐藤は観覧車を見上げたまま言う。最上は何も言わなかった。その黒い瞳にはゆったりと回転する観覧車のカラフルなゴンドラが点々と映っている。

「……あれからもう、3年かあ」

 佐藤はぼそりと呟く。その言葉に、否が応でも例の事件が脳内にフラッシュバックした。
 爆弾犯の思惑により、観覧車のゴンドラ内で松田と共に閉じ込められ、一度は生きることを諦めつつもなんとか生還したことを。あまりにも衝撃的な事件だったため、未だにそれは昨日のことのように思い出される。

 爆弾のカウントダウンである数字のファックスは、あれ以来送られて来ていない。もう動かないのではないかと噂されているが、あの犯人のことだ。思いがけず行動を起こし、再び警察官を狙って犯行を行うのではないかと、当時の事件に立ち会った警察官たちは密かに考えていた。もちろん、最上や佐藤もそのひとりである。

「佐藤さん」

 ふと名前を呼ばれ、佐藤は最上の方を見る。だがその視線は佐藤と交わることはなく、膝の上に軽く置かれた自身の手のひら辺りに注がれている。

「私、次は絶対に捕まえたいです。犯人」

 ぽつりと、最上はつぶやいた。俯いた顔からはその表情を伺い知ることは出来ない。

「捕まえて、敵をとりたいんです」

 まるで独り言のように一方的に言葉を続ける。ぐっと、手のひらが握りこまれた。

「……約束、しましたから」
「……」

 佐藤は何か言おうとして口を開き、そのまま閉じた。どう声をかけたらいいのかわからなかったのだ。周囲の賑やかな声があまりにもこの場の空気とミスマッチで、逆にその重々しさを引き立ててさえいる。
 しばらくふたりの間に沈黙が落ちようとしていた時、不意に明るい声が聞こえてきた。

「あれ? 佐藤刑事と最上刑事?」

 ふたりが声のしたほうを見ると、そこには少年探偵団と保護者である阿笠の姿があった。

「君たち、こんなところで何してるの?」
「ここの観覧車に乗りに来たの!」
「今仮面ヤイバ―とコラボしてて、乗るとこのシールがもらえるんですよ!」

 みてみて!と得意げにシールを掲げる子どもたち。そんな彼らを他所に、コナンは比較的冷静に尋ねた。

「ふたりはどうしてここに?」
「ちょっと気分転換にね」

 そこで佐藤は思いついたかのようにぽんと手を打つ。

「そうだ、みんなお腹空かない? この間の事件のお礼も兼ねて、一緒に甘いもの食べに行きましょ」
「マジかよ!」
「いいの?」
「ええ、もちろん」

 そうと決まったら行きましょうか、という佐藤の言葉に、子どもたちは嬉しそうに頷いた。


***


 佐藤と最上の両名は子どもたちと一緒に杯戸ショッピングモールを後にする。
 するとちょうど路肩に停めた車の近くに松田と高木を発見した。いつものように黒いスーツにサングラス姿の松田は煙草をふかしながら何かを話しているようだ。対する高木は神妙な顔でその話に耳を傾けている。

「へえ……3年前にそんなことがあったんですか」
「ああ。それから俺たちは、その犯人をずっと追ってんだ」
「あら、高木くんに松田くん」

 佐藤が声をかけると、ふたりともぱっとこちらを向く。高木はわずかに目を丸くし、松田は「よう」なんて言いながら軽く手を上げた。

「どうしたんです? コナンくんたちまで」
「偶然この子たちと会ってね。この前の事件の時のお礼に、この子たちにおやつでもご馳走しようと思って」
「ケーキ食べ放題だぜ!」
「うん!」

 嬉しそうに子供たちははしゃいだ様子を見せる。おふたりは?と最上が訊ね返した。

「それが、妙なタレコミがありまして。このレストランの店内を調べたんですけど、結局何も……」
「俺はその電話を近くで聞いててよ。ちょいと気になったんでついてきたんだ。ま、どうやらガセネタだったみてーだけどな」

 煙草を携帯灰皿に押し付けながら松田は言う。因みに一緒に白鳥も来ているのだが、彼はレストランでお手洗いを借りているらしい。すると佐藤が思い出したかのように提案した。

「そうだ、後で由美とカラオケに行くんだけど……あなたたちも行く?」
「カラオケ?」
「そういえば今日でしたね。佐藤さんと由美さんと私で行こうって約束したの」
「最上が行くなら行く」

 松田は食い気味に言った。その即答ぶりに、その場の全員が目を丸くする。松田はしれっと続けて言った。

「久しぶりにこいつの歌が聴きてえなって思ってよ」
「最上刑事の歌を、ですか?」

 いまいちピンと来ていない様子の光彦が首を傾げる。すると松田は得意げな笑みを浮かべて言った。

「お前らは知らないと思うが、こいつ実はめっちゃ歌上手いんだぜ」
「そうなの!?」

 歩美が驚いたように声を上げる。それに便乗するように佐藤もそうそう、と頷いた。

「毎回点数勝負するんだけど、一向に勝てる気がしないのよね。音域も広いし、声もきれいだし、その上レパートリーも豊富……本当に凄いわよ」
「ちょ……急に褒め殺しですか? もう、止めてくださいよ佐藤さん……」
「あら、私は事実を言っただけだけど?」

 困ったように顔を赤らめる最上に、佐藤は悪戯っぽく微笑んだ。今度一緒にカラオケに行こうと子どもたちが誘っている時に、ちょうど白鳥が合流する。待っているのは高木だけだと思っていたためか、ぽかんと目を丸くしていた。ここまでに至った経緯を説明している最中に、佐藤は気を取り直して尋ねる。

「で、高木くんはどうする?」
「え? ええと……僕も行きます」
「白鳥くんは?」
「僕はそういう気分になれないので、遠慮しておきますよ」

 そう言いながら白鳥は車の方へ歩いていった。するとケーキバイキングが待ちきれなかったのか、元太が早く行こうと急かす。再びケーキバイキングへ向かおうとした時、コナンがタレコミの内容について高木に尋ねた。

「どんなタレコミだったの?」
「ああ、『この店に爆弾を仕掛けた』っていう、妙な予告電話があってね。今日は7年前と3年前の爆弾事件が起こったのと同じ、11月7日だから一応来てみたんだけど……」

 高木がそう答えた、次の瞬間。

 ――どん! と白鳥の乗った車が爆発した。

 あまりに急な出来事に、辺りは騒然となる。
 はっと我に返った佐藤は大急ぎで車に駆け寄った。後から最上と松田、高木も続く。白鳥は爆発の衝撃で車の外に放り出されたようで、頭から血を流しながら道路に仰向けに横たわっていた。なんとか瞼を持ち上げて意識を保っているが、その視線は虚ろである。

「危険です……早くここから、離れて……」

 視界に佐藤らをとらえた白鳥はうわごとのように言う。「大丈夫ですか!?」という高木の問いかけに、わずかに頷いた。

「君のように上手く、逃げられなかったようだがね……」

 今にも意識が途切れそうなその様子を見て、たまらず最上は声を荒げる。

「高木さん、すぐにこの道を封鎖して、救急車を呼んでください!」
「は、はい!」

 指示を受けた高木は慌てて駆け出し、その場から離れていった。

「でも、喋れるんなら大丈夫そうね……」
「……いや」

 いつの間にか傍に来ていたコナンが、白鳥の左腕を確かめながら言う。

「右側頭部から出血し、左の手足が麻痺している……これは多分」
「『急性硬膜下血腫』……早く病院へ連れて行かないと、ヤバいわよ」

 灰原が真剣な表情で言った。その一言で一気に最上の不安が煽られる。急激に顔色を悪くする最上を見て、松田はぐっと唇を噛みしめ、指示を飛ばした。

「とにかく、ガソリンに引火したら二次爆発も起きかねねえ。救急車が来るまで、白鳥を車から離すぞ」
「そ、そうね……」

 白鳥をなんとか車から離れた所へ移動させ、車の消火を試みる。消火器を吹き付けて鎮火しているのを見ながら、光彦が憤りを隠すことなくつぶやいた。

「いったい誰がこんなことを……」
「犯人はわからねえが、狙いは警察官だってことは確かだぜ」
「え?」

 コナンは冷静に推察する。恐らく犯人は、店の中に爆弾を仕掛けたというガセネタで警察をおびき出し、刑事が店内の爆弾を探している間に、本物の爆弾を車の中に仕掛けたのだ。店の外に避難させられた大勢の客の陰に隠れて。起爆装置は車のドアを開けると安全ピンが外れ、もう一度開けて外に出ようとすると着火する仕掛けだろう。
 そこまで口にしたところで、再び考え込むように視線を下げる。

「問題は、白鳥警部がどうしてすぐ外に出ようとしたかだけど……」

 すると、横たわっていた白鳥がぐぐ、と腕を持ち上げる。その手には何かが握られているようだった。

「これを……」

 戸惑いながらもそれを受け取った佐藤は、中身を見て驚愕した。ほんの少し間を置いて、内容を読み上げ始める。

「……『俺は豪球豪打のメジャーリーガー さあ延長戦の始まりだ 試合開始の合図は明日の正午 終了は午後3時 出来の良いストッパーを用意しても無駄だ 最後は俺が逆転する 試合を中止したくば俺の元に来い 血塗られたマウンドに貴様ら警察が登るのを鋼のバッターボックスで待っている』」

 佐藤が読み終わると、その場は騒然としていた。
 すぐ傍でそれを聞いていた最上は、佐藤の持つ手紙を凝視したまま固まっている。その顔は絶望と恐怖、それから憎しみがない交ぜになったような、複雑な表情が浮かんでいた。それに気づいた松田は、不機嫌そうに思い切り舌打ちをする。

「あの野郎……!」

 それを傍から見ていたコナンは、ぐっと眉間にしわを寄せた。



 ―――こんな明日は願ってない 悪夢から覚めても悪夢



 長い長い2日間が、静かに幕を開ける。