いつかの話を覚えている?

 犯人を確保し、一通り現場でやれることを終えた一課の面々は、すっかり辺りが暗くなったころに警視庁に帰ってきた。
 彼らの帰りを警視庁で待っていた由美は、その中のひとりである最上を見て驚きの声を上げる。

「ちょ……最上ちゃん、どうしたの? それ……」

 最上は松田の後ろに隠れるように、彼の服の裾を掴みながらひょこひょこと歩いていた。俯きがちな顔の半分を、彼が普段身に着けているサングラスで覆い隠している。

 事件に巻き込まれたことは知っていたが、これは一体どういうことなのだと由美が思わず詰め寄れば、松田はバツが悪そうに視線を逸らす。

「あー……っとまあ、色々あってな」
「色々? 色々って何よ」
「そりゃまあ……いろいろだよ。いろいろ」
「答えになって無いし……」

 じとっとした目で見ても、松田は一向に何があったのか語ろうとしない。他の面々に訳を尋ねるように視線を向けても、困ったように笑うばかりだった。

「そうだ! 面会時間が終わる前に、白鳥くんのお見舞いに行かない?」

 実は警察病院からつい先ほど白鳥が意識を取り戻した連絡があったのだ。いいわね、行きましょうと数人が賛成する中、松田は少し渋ったような顔をする。

「あー悪い。俺と最上はちょっと遅れるから、先行っといてくれ」
「そうなの?」
「ああ。じゃあ、頼んだぜ」

 そう言ってさっさと立ち去ってしまう。最上もそれについていくようにひょこひょこと歩いていった。
 その後姿を見て、由美は何かを察したようにニヤリと笑った。


***


「ほら、これで目冷やしとけ」

 給湯室の冷蔵庫から持ってきた氷で作った即席の氷嚢を最上に渡す。

 誰もいない仮眠室のベッドに腰かけながら、最上は黙ってそれを受け取った。サングラスを外したその眼は真っ赤に充血していて、瞼は妙に腫れぼったい。目元を冷やす最上の隣に、松田もそっと腰かける。ぎしりとベッドがきしんだ。

「落ち着いたか?」

 右目を冷やしながら、こくりと頷く。
 路地裏で松田に諭されてから、最上はずっと涙を流し続けていた。そのためすっかり目が腫れてしまっていたのである。明日も最上は出勤だったはず。だとしたら目が腫れていては困るだろう。
 近くの自販機で買ってきたペットボトルの水に口を付けていると、不意に最上が口を開いた。

「……東都タワーで、爆弾犯からメッセージが届いたって聞いた時」

 こくりと水を飲みながら視線を隣にやる。最上は思いつめたような表情をしながら、膝の上に置いた空いた手のひらを見つめていた。

「すごく、怖かった。松兄まで私の前からいなくなるんじゃないかって、思って……」

 ぐっと、手のひらが握りこめられる。
 今にもまた泣き出しそうなその顔を見て、松田はそっと最上の頭に右手を載せた。そのまま、わしわしと頭を撫でてやる。

「馬鹿だな。俺がお前のそばからいなくなるわけないだろ」
「でも……」
「でもも何もねえよ」

 最上は不安げに眉を下げる。
 その声がまるでぐずる子どもの様でおかしくて、松田は小さく笑ってしまった。

「エレベーターに閉じ込められた時に言っただろ? 『お前に言いたいことがある』って。それだけ言い残して死ねるわけねえだろうが」
「……そういえば、そんなこと言ってたね」

 思い出したかのように言う最上に、松田は思わずまばたきを繰り返す。

「…………まさか、忘れてたのか?」
「ちゃんと覚えてたんだけど、それから色々あったから……ちょっと頭から抜けてただけ」

 誤魔化すように最上は笑う。
 これ以上頭から抜けていたことを追究されては敵わないと、逆に訊ね返すことにした。

「それで何? 言いたいことって」
「……」

 すると、途端に松田は黙ってしまった。
 何かまずいことを言ってしまったかと思ったが、ただ松田はそれを言おうかどうか迷っているだけのようだ。静かに最上は、彼の決意が固まるのを待つ。

 しばらく視線をうろうろと彷徨わせた後、松田は意を決したようにぼそりと口を開いた。

「1年前、お前言ってたよな。『入籍するならあの時の犯人を捕まえてからにしよう』って」
「へ? ……」

 急に昔の出来事を引っ張り出され、思わず素っ頓狂な声が出る。
 最上は少し上の方に視線をやりながら、なんとか頭の片隅から1年前の出来事を引っ張り出した。

 あれは確か、松田の部屋で互いになんとなくだらりとした休日を過ごしていた時のことだ。

『なあ、かざねって今いくつだっけ』

 松田は不意に問いかけた。急な質問に、最上は本から顔を上げずに考える。

『歳? えっと確か……今度26になるけど』

 それがどうかしたの?と聞き返せば、松田はあー、と歯切れの悪い言葉を零した。なんとなくその言葉が気になって、本から顔を上げる。
 松田の視線の先にあるのは、本に夢中で全く気にしていなかったテレビ。画面の向こうでは『結婚するなら何歳がいい?』というテーマで街頭アンケートをとっていた。なるほどそういうことか、と最上は合点がいったようである。

『かざねも、やっぱりしたいって思うか? 結婚』
『うーん……正直そこまでかな。あ、でも』
『でも?』
『もしするなら、萩兄の敵をとってからがいいかな。その方が、心に余裕がありそうだし』
『そ、うか……』

 何の気なしに言えば、松田はどこかぎこちない様子で視線を逸らす。
 松田の様子に違和感を覚えつつも、別段気に留めることなくその会話は終了した。

「……確かに言った、かも」

 過去の出来事を顧みながら、自信なさげに言う。正直そこまで真剣な気持ちで言ったわけではなかったのだが、それが言いたかったことなのだろうか。そんなことを思いつつ視線を松田に戻した。
 彼の表情をみて、思わず目を丸くする。

 松田は、頬と耳をほんのり赤く染めながら口をへの字に曲げて、そっと視線をそらしている。
 その顔はまるで、3年前のあの日のようだった。

「だから、……あー、その……なんだ」

 頭を掻き、しばらくそうやって唸ったかと思うと、深呼吸をひとつしてから最上を目を合わせた。
 その真剣な瞳に真っすぐ見据えられ、思わず心臓が跳ねる。

 ずっと膝の上に置かれていた最上の左手に、両手で包むように触れ、ぎゅっと握る。その手は燃えているのかと思うほど熱を持っていた。

「俺と……結婚、してくれねえか」

 最上は目を見開いて固まる。
 その大きな黒い瞳には、一生に一度の告白をした松田の顔が映っていた。

 ふたりきりの空間に沈黙が落ちる。目の前の彼は、最上の答えを今か今かと待っているようだった。まるで叱られるのを覚悟した子供のように、その表情は硬い。
 彼の心臓の音を代弁するかのように、最上に触れる手はわずかに震えている。どんなに危険な爆弾を解体するときにも決して震えない手が、肝心な時にはてんで駄目のようだ。

 そのことに気付いた最上はくすりと笑う。それを皮切りに、あははと声を上げて笑った。目には涙を浮かべてすらいる。
 まさか笑われると思っていなかった松田は、あっけにとられたようにまばたきを繰り返していた。

「ありがとう、陣平くん」

 彼の両手の上に、自分の右手を重ねる。その手は、彼の熱を落ち着けるようにひんやりとしていた。
 そして、それをそっと握り返す。

「……私でよければ、喜んで」

 最上は松田の目を見つめたまま、とびっきりの笑顔で言う。
 それを聞いた松田は、信じられないような顔で目を見開いていた。

「……いいのか」
「いいって言ってるでしょ」
「本当に?」
「何? それとも断って欲しかったの?」
「そういう、わけじゃねえけどよ……」

 松田の顔はみるみる破顔していく。そして、緊張の糸が切れたように目じりを下げて笑った。目じりにはうっすら光ものが浮かんですら見える。
 最上は自ら松田の胸に身を預ける。彼の鼓動は驚くほど速かった。そっと、互いの背に手を回す。

「まるで夢みてえだ……」
「なんなら、ほっぺたつねってあげようか?」
「いやそれは……っていう前につねってんじゃねえか」

 手加減を知らないそれに、ってえな!と松田は顔を歪める。ぱっと手を離して最上は悪戯っぽく笑う。

「ほら、夢じゃない」
「……ああ」

 頬をさすりながら松田は今にも泣きそうな顔で微笑んだ。松田の胸の中で最上はしみじみとつぶやく。

「でもまさか、仮眠室でプロポーズされるなんて思わなかったなあ」
「そっ! ……それは、その……言うなら今しかねえなって、思って、……」
「あはは、3年前も似たようなこと言ってなかった?」
「……」

 昔を思い出したのか、松田は照れくさそうに苦笑いを浮かべる。

「……本当は、もうちょっとちゃんとしたとこで言おうと思ってたんだけどな」
「いいよ。それ言うなら私だって、こんな泣き腫らした顔だし。お互い様だよ」

 それを聞くと松田は少し身体を離し、正面から最上を見る。自身の身体で影になった最上の瞳には、ありありと自分自身の幸せに浮かれた顔が映っていた。
 こつりと額をくっつけて、わざと声を潜めてささやく。

「とりあえず次の休み、一緒に買いに行こうぜ。……指輪」
「……うん」

 最上は噛みしめるように頷いた。

 幸せを味わうように再び抱き合っていると、外が妙にざわついていることに気付いた。先ほどまで全く意識していなかったが微かに「押すなよ」「もっとそっちよれ」なんて言葉がコソコソを聞こえてくる。
 ふたりは思わず顔を見合わせた。

「……なんか聞こえない?」
「ああ……」

 まさか。声に出すことなくふたりはほぼ同時に思う。
 すると次の瞬間、仮眠室のドアが倒れ、どさーっとたくさんの人ががなだれ込んできた。それは目暮班をはじめとした一課、由美たち交通課、生活課など実に様々な部署の人たちである。

 急に目の前に出来上がった人の山に、思わず目を丸くする最上。
 対する彼らは、あはは……とひきつった笑いを零した。

「お前ら……ッ! 何見てやがんだ!!」

 すべてを察した松田が、顔を真っ赤にしながら叫ぶ。
 それを皮切りに、彼らはどっとふたりのもとに押し寄せてきた。

「松田くん! やるじゃないか!」
「最上さんとお幸せに!」
「泣かすなよ? 泣かしたらここにいる全員が許さねえからな!」
「オイこら、頭撫でんな! 肩組むな! 重いんだよ!」
「最上さんおめでとう!」
「おめでとうございます!」
「あ、ありがとうございます……」
「ほんっとに一時はどうなるかと思ったわ……あ、式には呼んでよね!」

 もみくちゃにされ、松田は顔を真っ赤にしながら怒鳴っている。
 その光景があまりにも幸せに満ちていて、最上はほころぶように笑った。



 ―――いつかの話を覚えている?



 その日の夜。白鳥のお見舞いから帰ってきた最上は夢を見た。
 松田と萩原、そして最上の3人で笑いあって過ごした、穏やかで何気ない日常の夢だった。