冗談もほどほどに

「できちゃったかもしれない」

 ぽろり。
 松田は今まさに火を付けようと咥えていた煙草を落とした。火のついていないそれは、松田の足元のフローリングに音もなくぶつかって転がる。だがそんなことに構っていられる余裕は今の松田にはなかった。ぽかんと、まるで気の抜けたような間抜けな顔で、今言える精一杯の感想を口にする。

「…………え?」
「その、言ってなかったんだけど、ちょっと前から来てなくて。……あれが」

 彼女なりの恥ずかしさの表れなのだろう。松田の隣に座る最上は、少し身体を小さくしてソファに沈むようにしながら言った。そっと、薄い腹を片手でさする。
 あれ、と揶揄されてわからないほど松田も子どもではない。現に、思い当たるような彼女との行為は既に何度も経験済みである。だが、避妊を怠ったことは今まで一度もなかった。いずれ欲しいと思っているが、今じゃない。ふたりともそう考えてのことだった。
 ……なのに。

「まだちゃんと病院に行ったわけじゃないんだけど、一応。言っとこうと、思って」

 最上の声がだんだんと小さくなる。その様子が、いよいよもってこれは現実だと松田に告げていた。心臓が早鐘を打つ。もちろん、どんなに徹底しても100%の避妊なんてありえない。そんなことわかっていた。だがやはり、信じられるかどうかは別だ。

「……ま、じで?」

 口にした言葉は思ったより震えていた。最上はその松田の問いかけに小さく頷く。そしてそのまま俯いてしまった。

 その様子をみた松田の脳内を、様々な感情が駆け巡っていく。愛する者との間に出来た子どもだ。嬉しくないわけがない。本来であればありがとうと言いながら思い切り抱きしめていたところだ。
 だがどう考えても時期が悪い。松田と最上の目的は、例の爆弾犯を捕まえること。ここで彼女が妊娠してしまえば、警察を一時的に休まざるを得なくなる。そんな時に奴が動いたら……。おそらく、彼女は心から悔しがるだろう。何せ、その為だけに警察官になったといっても過言ではないのだから。そんな思いはさせたくない。出来れば、彼女の本懐を遂げさせてやりたい。松田としてもその考えは変わらなかった。

 何度考えてみても、どうするのが最善なのかわからなかった。だがとにかく何か言わなければ。そう思い、考えなしに口を開こうとした、その時。

「……なーんっちゃって」
「は?」

 ばあ。
 顔を上げた最上は普段と変わらぬ表情であった。顔の両サイドに開いた手を寄せ、まるでいないないばあでもしているかのようなポーズをとる。
 それを見ていた松田は状況が読み込めていないようだ。潔く固まったままの松田に、最上はひとつヒントを与えてやる。

「陣平くん、今日は何日でしょうか?」
「今日? 確か4月、1日……」

 その言葉に松田はハッとする。そうか今日は、

「エイプリルフールか!」
「正解」

 ぴしりと人差し指を伸ばす。その顔はしてやったりとばかりに勝ち誇った笑みを浮かべていた。松田は悔しそうに頭を抱えながら大きくため息をつく。

「マジ騙された……お前演技上手すぎ……」
「ほんと? それならよかった」

 ふふ、と最上は楽しげに笑う。こっちの気も知らないで……と松田は小さくつぶやきながら目を細めた。そんなことは露知らず、最上はすっかり上機嫌である。

「焦った顔凄い面白かった。写真撮って佐藤さんたちに見せたいくらい」
「それだけはマジでやめろ」

 後で何を言われるかたまったもんじゃない……。げんなり顔で言う松田に、最上はますます笑みを深める。やられっぱなしでなんだか面白くない松田は密かに反撃策を練る。そしてふとある作戦を思い付いた。これならきっと……。松田は早速作戦を実行に移すことにする。

「いいんだぜ」
「何が?」

 不意に言われた松田の言葉が理解できず、最上はきょとんとした様子で言う。
 すると松田はぐっと最上の腕を引き、彼女を己の方に引き寄せた。あまりに急な出来事に最上は大きく目を見開いた。唇が触れるまであと数センチ、という距離でぴたりと止まる。そして松田は最上から目を逸らさずに、少し低めの声で言った。

「……今のそれ、本当にしてやっても」

 数秒後。松田の言った意味が分かったのか、最上はぶわわと顔を赤くした。まんまと作戦が成功した松田は身体を離しながらふは、と吹き出すように笑う。

「顔、超真っ赤」
「煩い。セクハラで訴えるよ」

 最上は不機嫌そうに言いながら松田の肩を軽く殴る。松田はしばらくの間笑い続けていた。



 ーーー冗談もほどほどに



 ……まあ、いずれは本当にしてやるつもりだけどな。
 内心そう思う、交際2年目の春先。