笑顔と感情の裏側

 静かな朝だ。率直に松田はそう思った。
 ベッドでまだ静かに寝息を立てている最上を他所に、ベランダで煙草に火をつける。煙で肺を満たすと、自然と昨夜のことが頭に過った。

 たった一言。
 それに関することを告げただけで、手が震え呼吸が浅くなるほどのトラウマを、彼女はその胸に未だに抱えているのだと思い知らされ、自然と表情が苦々しくなる。

 吐き出した煙が空気に溶けて見えなくなる。薄っすら白み始めた世界をぼんやりと見ながら松田は静かにつぶやいた。

「もう、10年も経つのか」

 灰皿に灰を落とす。少し短くなった煙草を見ながら、意識を緩やかに過去へ追いやった。


***


 最上との出会いは忘れもしない、中学1年の一学期だ。
 ゴールデンウィークになるかならないか、そのくらいの時期である。

 中学で同じクラスになったのをきっかけに萩原研二という男と仲良くなった。たった1ヶ月にも満たない期間を過ごしただけですごく気が合うと互いに思うほど、ふたりの相性は抜群だった。
 そんなある日、学校で萩原が不意に「明日から一緒に学校行かない?」と提案してきたのだ。

「松田に合わせたい奴がいるんだよね」
「合わせたい奴?」
「そ。俺の友達」
「男?」
「女。それもまだ小5」

 その返答を聞いて松田はわずかに顔をしかめる。彼にとって女はキャーキャーとうるさく、ちょっとしたことですぐに泣いて面倒な存在、位にしか思ってなかったのだ。その上年下だと? 冗談じゃない。

「そいつに会わなきゃ駄目か」
「出来れば会って欲しいかなあ。松田にもかざねの友達になって欲しいんだよ」

 お願い!と萩原に頼まれてしまえばため息しか出ない。渋々松田はその頼みを了承した。

 次の日の朝。
 萩原が案内したのは彼が住むマンションのふたつ隣の部屋だ。そこに合わせたい奴が住んでいるらしい。迷いなくインターホンを押せば、数秒後にがちゃりとドアが開いた。

 出てきたのはどこか独特な雰囲気をまとった少女だった。松田や萩原よりも低い背、不揃いな短い黒髪、長い前髪の下から覗く黒目がちな目、薄手の長袖パーカーにジーンズ、古びたランドセル。一見すると普通だが、どこか違和感を感じる。
 少なくともうるさくはなさそうだな、なんて考える松田を他所に、少女は見慣れぬ人物の存在に対してあからさまに表情を強張らせている。松田は確認も兼ねて少女に挨拶をしてる隣の萩原に話しかけた。

「こいつがお前の言ってたやつ?」
「そ」
「へえ」

 にっこり笑って頷く萩原にぼんやりとした相槌を返す。すると、すっかり固まっていた少女――最上にようやく気付いた萩原は「ごめんね、紹介がまだだったや」と言って隣に立つ少年の説明をし始めた。

「こいつが前話した中学の友達の松田。見た目はちょーっと怖いけど、すっごいいいやつだからさ。かざねも仲良くできると思う」

 萩原の紹介を聞いて最上は改めて松田を見る。ちょっと見た目が怖いと紹介された松田はむすっとした顔で「悪かったな怖くて」とつぶやきながら隣の萩原を睨んでいた。どのように紹介をしたのか気になりつつも視線を最上に向ける。

「あーその、なんだ、……よろしく」

 少しぶっきらぼうになりながらも言葉を選ぶ。年下の少女に対してこのように改まった挨拶をした経験などなく、要領がよく分かっていないのだ。
 その様子を見た最上はぱちぱちとまばたきを数度した後、よろしく、と小さく呟いた。少し緊張を孕んだ、固い声だった。

 こうして邂逅を果たしてからは、一足飛びに距離を縮めていった。

 初めはあまり気乗りしなかった3人での登下校も、気づけば当たり前になっていた。むしろそうでないと落ち着かないくらいに。
 休日も一緒にいることが増えた。過ごす時間と比例するように、3人の仲はますます深まっていった。

 松田に対して警戒心を抱いていた最上も、彼の本質的な部分を垣間見るにつれて少しずつ心を開くようになり、いつの日からか松田の事を萩原に倣って『松兄』と呼ぶようになった。
 初めてそう呼ばれた時は内心かなり戸惑ってしまい、一周回って素っ気ない反応になってしまったが、萩原はすべてお見通しのようだった。

「よかったね、じんぺーちゃん」
「……うるせ」

 ニヤニヤとした表情でからかうように言う萩原の脛をげしっと蹴る。照れ隠しにしては酷くない!?と喚く萩原に知らんぷりをしていると、最上が静かに笑ったのを目の当たりにする。あまり表情を変えない彼女の、貴重な微笑みだ。

「……」

 もやりと、言い表せない感情が胸に広がる心地がする。
 原因不明のそれにどうすることも出来なくて、松田はただ黙って彼女から目を逸らしたのだった。

 月日が流れ、松田と萩原は中学3年、最上は中学1年になった。

 新しい夏服の下に黒い長袖のアンダーシャツと黒タイツを身に纏って家を出てきた最上に、松田と萩原は思わず目を見合わせる。早く行こうと急かす最上に、萩原が素直に尋ねた。

「暑くない? それ」
「これならスカートがめくれても平気でしょ?」
「そりゃそうだけどよ」
「それに今の教室、冷房効きすぎてたら困るじゃん。これくらいがちょうどいいの」

 それより、と最上は適当な話題を提示して話はそれきり流れていく。だが松田はそうはいかなかったようで、静かにふたりの会話を聞き流していた。

 思えば小学生のころから最上は、いつも丈の長い服を着ていた。寒がりなのもあるのだろうが……肌を隠している、というのが本当の理由だろう。萩原から聞いた出会いのエピソード、帰宅する際に見せる寂しそうな表情、家族の話をなんとなく避けること。……本人に深く聞かなくても、予想くらい簡単につく。

 彼女の家は普通じゃないのだ。
 世間とは比べ物にならないほど歪で、ゆがんでいる。

 そんなところからさっさと逃げればいいと松田も萩原も思っていたのだが、それを本人に告げても、最上は困ったように笑うだけだった。

「昔はもっと酷かったけど……最近は落ち着いてるから、大丈夫」

 その笑顔が無理をしていることも松田は知っていた。彼女は案外顔に出やすいから。だが、それをどうにかするだけの……彼女を現状から助け出すような力はない。子どもの自分たちには、どうしようもない。
 そんな当たり前の事実に少しだけ、ムカついた。

 ――あの事件が起きたのは、それから1年後のことだ。


***


 高校1年の冬。

「あ˝ーさっむ」

 自動ドアを出た松田は、吹き付ける夜風に思わずぶるりと身体を震わせた。
 どうしても課題が終わらず、気分転換がてらコンビニに寄ることにしたのだ。購入したエナジードリンクや夜食用に買い込んだお菓子の類がレジ袋の中でがさりと音を立てる。

「さて。さっさと帰……ん?」

 ふと左手方向の道を見ると、遠くから誰かが走ってくるのが見えた。黒い服を着た人物のようだ。よたよたと時々転びそうになりながら懸命に走ってくる。初めはそのまま無視しようかと思ったが、その詳細がわかるにつれて次第に松田の表情は険しくなっていく。

「最上……?」

 それは紛れもなく、見慣れた中学の冬用セーラー服を身に纏った最上だった。
 だが、その様子は明らかにおかしい。

 制服のタイはしておらず、それどころか前のボタンが全て外れていた。しかも中のアンダーシャツは胸の中心から大きく切り裂かれ、下着や肌まで見えてしまっている。スカートもどこかに引っ掛けてしまったように裾が破れており、下に履いているタイツもボロボロで所々穴が開いて血が滲んでいる。靴も履いていないようだ。
 その表情は恐怖が滲んでいて、尋常じゃないほど逼迫した事態が迫っていることは誰が見ても確かだった。

「おい、最上!」

 松田は思わず一目散に駆け出した。その声に気付いたらしい最上は一瞬驚いたような表情を浮かべた後、くしゃりと顔を歪める。途中で転びそうになりながらも迷うことなく松田の元に辿り着き、その胸に思い切り飛び込んだ。ぎゅう、とその腕を強める。

「ま、つにぃ……! たす、助けて、……っまつにぃ」
「おい最上、どうした! 何があった!?」

 松田が問いかけても、半分錯乱状態の彼女は松田に助けを求めながら涙を流すばかりで答えてくれない。ひゅうひゅうと過呼吸気味に喉を鳴らしながら苦しそうに松田の名を呼ぶばかりである。どうにか落ち着けようと彼女を抱きしめる腕を強めた松田は、その震える身体の冷たさに愕然とした。

「クソッ……!」

 冷え切った身体、ズタボロの制服、止めどなく溢れる涙。
 ……彼女の身に何かあったんだとわかるには、十分すぎるくらいだった。



 ―――笑顔と感情の裏側 穢れのない少女を返して



 カッと、自身の血が怒りで熱くなるのがわかった。