恋へと転じて夜が明ける

「とりあえず、これ着てろ」

 来ていた厚手のジップアップパーカーを最上に渡すと、彼女は少々躊躇いつつも黙って身につける。まずは事情を聞くのが最優先だろうと思い、コンビニで最上の分のホットココアを買って近くの公園へやってきた。しんと静まり返った公園は当たり前だが誰も居ない。ぽつりと立っている街灯が周囲をほんのり照らしているばかりだ。
 近くのベンチに並んで腰かける。最上は未だ俯いたまま、渡されたホットココアを両手で握っているだけだ。

「……っと、忘れるところだった」

 不意にそうつぶやいたかと思うと、松田はポケットから携帯を取り出した。素早く操作し、電話帳からある番号を呼び出す。言わずもがな今日この場にいない萩原だ。彼は身内の不幸があったとかで昨日から家族と共に家を空けているのである。何コールかした後に眠そうな声が聞こえてきた。

『どうしたの松田ぁ……俺今ちょうど寝ようとしてたとこなんだけど』
「緊急事態だ萩原。今から俺の家の近くのコンビニまで来れるか?」
『今からだとこの辺もう電車無いから、ちょっと難しいと思うけど……え、何なに、どうしたの?』

 緊迫した松田の声に萩原は戸惑いを隠せないようだ。これまでにあったことを簡単に話せば、萩原はなるほどね、と納得したようにつぶやく。

『それは確かに緊急事態だわ』
「だから言っただろ」
『かざねは今どこに?』
「俺の隣にいるぜ。今近くの公園で詳しい話聞こうと思ってるとこ」
『りょーかい。俺も聞きたいからスピーカーにしてくんない?』
「おう」

 ひとつ返事でスピーカーモードに切り替える。そして最上の方に携帯を近づけた。

『やっほーかざね。松田から大体事情は聴いたよ。……大丈夫?』
「! は、ぎに、ぃ」

 萩原の声を認識した途端、ばっと最上は顔を上げる。携帯にすがりつくように松田の腕を掴むと、その瞳にじわりとまた涙が滲んだ。

『本当はすぐにでもそっちに行きたいんだけど、どうにも難しくってさ。だから電話でごめんね』
「ううん。いいの、大丈夫、私は、私、は……」

 だんだんと語尾が小さくなり、完全にすすり泣く声だけになる。
 意を決したように松田は口を開く。

「何があったか、聞いてもいいか」

 俯きがちのまま、ぐっと松田の腕を掴む力が強まる。
 黙りこくる最上をなだめるように萩原も続けた。

『大丈夫。ゆっくり、落ち着いて、……もし難しかったら話せる範囲でいいから』

 萩原の言葉が彼女を決断させたのかはわからないが、震える唇を一度きゅっと結んだかと思うと、ゆっくりと話し始めた。

「……ま、松兄と別れた後、いつもみたいに家に帰って、家事をしてた」

 彼女は家の家事全般……炊事洗濯掃除などをすべてひとりで担っている。それは幼い頃からずっと強いられていたことであり、拒否しようものなら癇癪を起した両親にきつい"躾"をされるのだと、前に彼女から聞いたことがあった。

「今日は帰るの遅かったから着替える時間もなくて……『帰るのが遅い』って怒られて、お母さんは、今日もいないから、お父さんの分の料理を作って、『味が薄い』とか文句言われて、怒られて」

 ぼそぼそと話す最上の言葉を聞き逃すまいと、ふたりは黙って彼女の声に耳を傾けている。じじ、と街灯の電球がわずかに点滅した。

「その時、お父さん、お酒が入ってたみたいで、ヒートアップしちゃって、いつもより殴る時間が長かったんだ」

 でも、途中で急に様子が変わったの。最上は言う。松田の腕を握る力がわかりやすく強くなった。わずかに震えるその手は、寒さのせいだけではないのは明白である。

「お、『お前も、女なんだな』って言って、押し、倒されて……、っふ、服、破かれて、身体、さわられて……っ」

 瞬間。松田は自身の血が沸騰するのではないかというほどの怒りを感じた。
 携帯を握る手がぐっと強くなる。

 汚らわしい欲望が、彼女をここまで恐怖させたのだ。それがどうしようもなく許せなくて仕方がない。

「痛いのは慣れてたけど、そんなの初めてで、怖くて」

 最上の生々しい話に松田は不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。
 どんなに暴れても押さえつけられ、殴られ、身体をまさぐられ続ける。……もう無理だ、敵わない。そう諦めようとした時。

「手を伸ばしたら、たまたま、近くにあったリモコンが手に届いて、……お、お父さんを、思い切り、殴ったの」

 震える声で白状する。そうして父親がひるんだ一瞬の隙を見て、家から抜け出してきたのだという。

「萩兄のところに駆けこもうとしたけど、いなくて、それで、どうしたらいいのかわからなくなって、それで、松兄を見つけたの。だから、松兄がいなかったら、私、……っ」

 くしゃりと顔が歪んで、再び大粒の涙が零れ落ちる。松田の腕をすがりつくように掴み、ひくひくとしゃくりを上げる最上の傍で、松田は険しい顔をしながら黙って視線を落としていた。

「こ、これから、どうしよう松兄……もう、家に帰れない、し、お父さん、怪我、してた……っどうしよう、叱られる、どうしよう……」

 涙を零しながら怯えたように弱々しくつぶやく言葉を聞いた途端、カッと頭に血が上るのを感じた。

「そんなことより自分の心配しろよ! 襲われたんだぞ!」

 至近距離で浴びせられた語気の強い言葉にびくりと肩を震わせる最上。驚いたせいで涙も引っ込んだようだ。萩原に『松田、声デカい』と軽く窘められ、視線を落としながら小さく謝る。先ほどより声のトーンを控えめにしつつも、その言葉の端々には苛立ちか滲んでいた。

「もうそいつは、親でもなんでもねえ。ただの糞野郎だ。赤の他人だ。……だから、お前がかばう筋合いはねぇんだよ」

 松田の言葉に、最上は再び堰を切ったように泣き始めてしまった。拭っても拭っても、涙が次から次へと溢れてくる。両手が自由になったのをいいことに松田は少しだけ間を詰めると、最上側の手を彼女の後頭部からまわし、そのまま自分の方へぐいと引き寄せた。少しでも最上が落ち着くように、その身体が冷えないようにと、思いながら。
 着ていた服が涙で濡れるのも構わずに、松田は黙って彼女が落ち着くのを傍でじっと待っていた。

『とりあえず今日は一度休んで、落ち着いてから明日朝一で児童相談所に行こう。俺も親に言って一番早い電車で帰ってくるからさ』

 萩原の提案に松田は「それが妥当だろうな」と返す。
 このまま警察署に駆け込むのも出来なくはないし、本来はその方がいいのかもしれないが、最上の精神的な疲労が心配だったのだ。恐らくどちらの選択肢を選んだにせよ、過去のことを自分の口から全て説明しなければならないことに変わりはない。ならば、少しでも精神を安定させてから行った方がいいだろう。そうふたりは判断したのである。
 未だに涙が止まらない最上はしゃくりあげながらも不安げにつぶやく。

「でも……」
「でもも何もねえよ。最上の命が優先だ」
『大事にしたくないのはわかるけど、ここまで被害が出てたら現状維持って方が無理でしょ』

 ふたりの正論にぐうの音も出ない最上。それがわかったのか萩原は明るく笑った。

『ほいじゃ、俺はちょっくら寝るわ。松田、後のことヨロシク』
「了解」
『かざね、また明日ね。今日はもう遅いけどゆっくり休んで』
「……うん」

 小さく返事をする。それを聞いてから松田は通話を切った。携帯をぱたんと閉じてポケットにしまう。ふう、と白い息を吐き出す。

「ひとまず今日は、俺んちに泊れよ」
「……いいの?」
「馬鹿。ここまで来て帰れとは言わねえよ」
「……じゃあ」

 おじゃま、します。最上のつぶやきを聞いて、松田は小さく微笑んだ。
 家に向かう道中、初めは松田が先導するように手を引いていたが、どうにも最上の歩き方がひょこひょことぎこちない。タイツ越しとはいえほとんど裸足のようなものだし、今日はかなり冷える。流石に歩きにくいのだろう。松田はぱっと手を離し、戸惑う最上の前に背を向けてしゃがみ込む。

「乗れ」
「で、でも」
「いいから」

 ほら、と半ば強引に促せばおそるおそる最上は松田に身体を預ける。予想以上に軽いその身体に松田は小さく眉を寄せた。

 程なくして松田の家に辿り着いた。彼の家も最上や萩原と同じような何の変哲もないマンションだ。エレベーターで目的の階まで上り、最上を背負ったままなんとか部屋の鍵を開けると、おかえりとつぶやいた女性――松田の母親がぎょっとした様子で尋ねてきた。

「ちょ、どうしたの陣平!? その子は……」
「前話してた最上。ちょっと訳アリっぽくて連れてきた」

 松田が最上を玄関に下ろすと慌てて母親が駆け寄る。怯えるように松田の母親の顔色を窺う最上に大丈夫だ、と落ち着かせるように言い聞かせた。

「今日一晩泊めるから」
「あんた、帰ってきていきなりそれは」
「悪い」

 松田は言葉を遮るように強引に押し通す。松田の母親はしばらく彼の顔を見ていたかと思うと、はあ、と溜息をついた。

「この子、着替えは?」
「……ない」
「さっさと買ってきなさい。下着だけならコンビニにも売ってるから。その間にお風呂入ってもらうわ」
「……うす」

 松田は気まずそうにしながらも素直に返事をすると、再び家を出て行った。出て行く直前、もう一度最上を落ち着けるように頭を撫でてからばたんと扉が閉まる。さて、と松田の母親は腰に手を当てた。

「戻って来るまでにお風呂入っちゃいましょうか。あら、怪我してるのね……じゃあ軽くシャワー浴びるくらいにしておいたほうがいいかな」
「あの……いいん、ですか?」

 おそるおそる最上は尋ねる。その顔は酷く怯えきっていた。松田の母親は見ているこっちが安心するような笑みを浮かべて言う。

「気にしないで! さっきのは突然連れてきたのにびっくりしただけよ」

 全くあの子ったら……なんて呆れたようにつぶやく。そしてこちらを見て改めて言った。

「ようこそ松田家へ。ゆっくりしていってね」

 どうぞどうぞと招き入れられ、最上はおずおずと一歩を踏み入れる。
 びくびくと様子を窺いながら一歩一歩足をすすめ、案内されるままに風呂場にやってきた。

「洗濯ものはここ、着替えはひとまずこれ。うち女の子がいないから悪いけど、私ので我慢してね。下着は今陣平が買いに行ってるからすぐに来るよ。あ、タオルは好きなのを使ってもいいから」

 簡単に使い方を説明して「終わったらリビングにおいでね」と言って去っていった。
 最上は服を脱ぐと静かに浴室に入り、シャワーを浴びる。温度がまだ低かったせいでぶるりとその身が震えた。適温になったシャワーをざあざあと頭から浴びながら、自身の身体をそっと抱きしめる。松田と会って話を聞いてもらうことで少し落ち着いたが、ひとりになるとまた恐怖がぶり返す心地がした。呼吸が荒くなり、視界が滲む。

 ――コン、コン

 ふと、浴室のドアをノックする音がした。
 不思議に思いながらもシャワーを止めて返事をすると、聞きなれた声が聞こえてくる。

「最上。替えの下着買ってきたから、……ここ、置いとくな」
「う、うん」
「その……サイズとか、よくわかんなかったから、テキトーに買ってきたけど……ひとまず今日だけこれで我慢してくれ」
「わかった」

 それじゃ、と去っていく松田を慌てて引き止めるように松兄、と呼び掛けた。

「どうした?」
「……ありがと。色々ごめんね」
「謝んな。お前は何も悪くねえよ」

 安心させるように柔らかい口調で言うと、松田は去っていった。ふと気が付くと、先ほどまでぶり返していた恐怖が嘘のように消えている。彼と話をしただけで平常時に戻った手を見て小さく微笑んだ最上は、もう一度シャワーの蛇口をひねった。


***


 救急箱を用意したりしながらリビングで待っていると、しばらくしてがらりと脱衣所の扉が開いた音がした。ぺたぺたという間抜けな足音と共に最上がやってくる。髪はタオルで器用にまとめられ、肌は先ほどよりもほんのり色づいていて随分と健康的に見えた。それをみた松田の母が優しい口調で言う。

「おかえり〜 あったまった?」
「はい。あの……お風呂、ありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げる。いいのよ!とほころぶように笑った。

「そうだ、お腹空いてない? 夕飯の残りでよかったらあるわよ」
「え? いや、それは流石に……」
「食ってけよ。飯食ってねえんだろ?」
「そう、だけど」
「じゃあ問題ねえな」

 最上の返答を聞くにテキパキと松田の母は用意をし始めた。どうしたらいいかわからずポツンとしていると、松田が導くように手招く。

「こっち座れよ」

 指示したのは松田が腰かけるリビングテーブルの隣の席だ。最上は一瞬迷うように視線を彷徨わせた後、おずおずと席に着く。だが座ってもソワソワして落ち着きがなさそうだ。

「な、何か手伝うこと……」
「いいから座っとけ。最上は客なんだから何もしなくていいんだよ」

 松田にそう言われてもなお気まずそうな最上。もてなされることに慣れていないのだ。今までずっと家主のご機嫌を窺いながら率先して家事という名の奉仕を強いられてきた弊害だろう。松田は最上に気付かれぬように小さく眉を寄せる。
 程なくしてテーブルにことりと皿が乗せられた。ふわりと湯気がのぼるシチューだ。

「ちょうどひとり分余ってたからタイムリーね」

 そう言いながら用意を終えた松田の母が最上のむかいに腰かける。最上はふたりの顔色を窺いつつ、小さく手を合わせてスプーンを手に取った。ゆっくりと口にスプーンを運ぶ。むぐむぐとその口が動いた。

 ――そして次の瞬間、双眸からぽろりと涙が零れ落ちた。

 それを見ていた松田と松田の母は思わずぎょっとする。わたわたとわかりやすく動揺をしながら最上に話しかけた。

「ど、どうした最上」
「もしかして口に合わなかった?」
「……いえ」

 震える声のまま、最上は答えた。

「美味しいです。すごく、美味しいです……っ」

 次々と零れ落ちる涙を隠すことなく、彼女はシチューを口に運ぶ。
 その光景を見ながら松田は複雑な表情を浮かべていた。


***


 食事と傷の手当を終え、ふたりで松田の部屋へ向かう。最上は初めベッドを使うことを遠慮していたが、横になったら数分もしないうちに眠ってしまった。やはり気を張っていたせいだろう。
 穏やかな寝息を立てて眠る最上の姿を、ベッドの淵に腰かけて黙って松田は見ている。カーテンの隙間から差し込む月明かりが、涙の痕が残る彼女の頬をぼんやりと照らしていた。

「……かざね」

 ぽつりと名前を呼んでみる。なんだか照れくさくてずっと呼べずにいた、彼女の下の名前を。だが彼女は無反応だ。眠っているのだから当然である。松田はそれを確かめると、自身の胸の内を吐露し始めた。

「お前がさ、ボロボロになって、俺のとこに来たとき。……本当に心臓が止まるかと思ったんだ」

 冷え切った身体、ズタボロの制服、止めどなく溢れる涙。
 その上、今までずっとこちらから言っても『平気だから』と笑っていた最上の口から、『助けて』なんて言葉が飛び出したんだ。何か尋常じゃないことが起きたに決まっている。……そして案の定そうだった。

「それにさ、お前があのクソ親父にされたこと、考えただけでぶっ飛ばしてやりたくなる。泣いてるとこ見てたら、泣き止ませてやりてえって、胸の真ん中がすっげえ痛む。……不思議だよな。こんなこと、今までなかったのに」

 そこまで言ったところで、いや、と内心否定する。
 思い返してみれば、松田は最上に対して言葉にできぬ感情を抱いていたことが多々あった。

 彼女に『松兄』と呼ばれた時。
 彼女の家族について思いを馳せる時。
 彼女の貴重な笑みを見た時。
 彼女と萩原の出会い話を聞いた時。

 今回が明白な感情だっただけで、以前から彼女に対して様々な感情を抱いていたのだ。彼女が嬉しそうにすれば嬉しい。悲しそうなら悲しい。顔は笑っていても心から笑っていないのならモヤモヤする。
 彼女の一挙手一投足が、松田の胸の内に生まれる感情の原因となっていた。
 ……こんなことは、生まれて初めてのことだった。

「それで俺、気付いたんだけど、……」

 言葉を発しようとして、躊躇うように一度口を閉じる。
 だが迷いを振り払うように……意を決したように、言った。

「……俺、かざねが好きだ」

 気付いてしまった。出会った時から感じていた胸のざわめきに、ようやく気付いてしまったのだ。

「好きなんだよ……もうこんな思い二度とさせたくないし、それ以外の事からも守りたい。傷つけたくない。今までのこと全部忘れるくらい、幸せになって欲しいんだ」

 ぎゅっと、シーツを握りしめる。聞こえていないのをいいことに吐き出された彼女宛の言葉たちは、彼女の耳に入らぬまま消えていく。

「……その時に、隣にいるのが俺だったらいいのに」

 なんて、な。
 寂しそうに松田はつぶやいた。



 ―――恋へと転じて夜が明ける なによりもなによりも、ずっとずっと



 ふと気が付くと、咥えていた煙草の灰が落ちそうになっていた。随分長いこと考え事をしていたようだ。携帯灰皿に灰ごと短くなった煙草も一緒に中に入れる。

「懐かしいこと思い出した」

 松田は口の端を小さく上げるようにして自嘲気味に笑う。
 あの後、朝になって萩原と合流し児童相談所に駆け込んだ。事情を聞いた職員に言われるがままに手続きを済ませると、最上は義務教育終了まで施設で保護されることが決まった。長い長い夜が明けた最上のあのほっとしたような表情は、今でも脳裏に焼き付いている。10年も昔のことだとは思えないほど、はっきりと。

 ベランダのドアを開けて室内に戻る。ベッドを見ると最上はまだ眠っていた。彼女を起こさぬように近づくと、ほろりと頬に雫が伝うのが見える。

「……」

 松田はそっとその頬に触れ、涙を優しく拭ってやることしか出来なかった。