鈴の音と夜の予感
「はあ……」
自身のデスクで書類を作成しながら、最上は小さくため息をついた。
原因は言わずもがな、松田のことについてだ。
例のお泊り会の日から実に1ヶ月半の時間が経過したが、最上と松田の関係性は相変わらずだ。
何度か勇気を出してみようと思いはしたのだが、結局恐怖が勝ってしまい、振り切れずにいるうちにずるずると時間だけがかかってしまった。
対する松田はといえば、あのお泊り会すらあまり思い出させたくないのか、はたまた別の思惑があるのかはわからないが、ほとんど最上への対応は以前と変わらない。お泊り会も行うが、内容は至って健全なものばかりだ。その結果、最上ばかりがモヤモヤしてしまう状況が出来上がってしまったのである。
仕事に支障は今のところ出ていないが、これ以上悩みすぎると流石に影響が出てきそうだ。現にこの間、あまりにも悩みすぎて『松田と"そういう"行為を行った夢』を見てしまい、佐藤や松田に色々と心配や迷惑をかけてしまった。たったこれだけでこうなってしまうのだから、これ以上放置しておくわけにもいかない。なんとしてでもこの状況を打開しなければいけないのは頭で分かっている。
……わかっているのだが、それをすんなり解決できるならここまで悩んでいない。
もう一度はあ、と溜息を零す。すると背後から「最上さん」と声をかけられた。ぱっと振り返るとそこにいたのは先輩である佐藤だ。
「佐藤さん」
「大丈夫? 顔色悪そうだけど……」
心配そうに佐藤は尋ねる。
「もし悩み事があるならなんでも言ってね? 力になれるかはわからないけど」
佐藤はちょこっと眉を下げて笑う。
そうだ。自分で解決できないならいっそ、人に聞いてもらうのも手かもしれない。最上はそう思い、口を開いた。
「……少し、お時間いいですか?」
***
やってきたのは警視庁の近くにあるカフェだ。ふたりともお昼をまだ食べていないとわかり、話のついでに摂ってしまおうということになったのである。佐藤がベーグルサンド、最上がミックスサンドプレートを注文し、それぞれテーブルの上に揃ったところで佐藤が話を切り出した。
「それで? 私にしたい相談って何かしら?」
その言葉を聞いて最上は飲んでいたアイスティーをテーブルに置き、もぞもぞと座り直す。ここまで来たら言わなくてはと、勇気を振り絞るように膝の上に置いた手をきゅっと握った。
「あの、私……の友人、の話なんですけど」
ほんの少し恥じらいが顔を出したため、自分ではないという体で話を進める。佐藤は気にしていないようで、不快追及をすることなく最上の話を聞いている。
「好きな人とその、……そういう行為をするって時に、怖い記憶がよみがえるんですって。何年も前の記憶なのに、鮮明に」
上手く伝わるだろうかと迷いながら言葉を選ぶ。先ほどまで気になっていた店内の雑音が嘘のように耳に入らなくない。それほど内心緊張していたのだ。
「好きだから一緒になりたいとは思うけれど、それのせいでどうにも上手くいかないというか」
俯きがちだった顔をそっと持ち上げて、佐藤と顔を合わせる。
「そんな時、佐藤さんならどうしますか」
最上の問いかけに、佐藤はそうね、と考え込んだ。アイスコーヒーのストローに口を付けて、離す。
「私はその人じゃないから、ちゃんとした答えになるかわからないけど……」
そう前置きをして、アイスコーヒーを置く。右手の人差し指を立てて、最上の目を真っすぐに見た。
「私なら、相手に全部伝えちゃうわね」
「相手に伝える……」
「ええ。こういうことがあったのとか、怖いとか、全部」
最上は目を丸くしたまま佐藤を見つめていた。佐藤は右手で頬杖をつきながら柔らかく笑う。
「こういうのってふたりで乗り越えていくものだって私は思うもの。もしかしたら一生を共にするかもしれない恋人同士なんだから」
佐藤の落ち着いたトーンの声が真っすぐ最上の鼓膜を震わせる。最上は静かに佐藤の言葉に耳を傾けていた。
「怖い記憶に一生縛られて生きていきたくはないじゃない」
――記憶に縛られたくない。
その考えは、彼女の中に無いものだった。
"あの人"とは物理的に距離を置いているし、今現在どこで何をしているのかもわからない。調べれば出てくるだろうが、知りたいとも思わない。長い間会っていないせいで顔も薄ぼんやりとしている。
それなのに、記憶の中で"あの人"は鮮明に生き続けているのだ。のうのうと我が物顔で居座っているのだ。それじゃあいくら距離を置こうとも、あの人に縛られていることに変わりはない。
物心ついたころから受けてきた仕打ちを、確実に人生の転機となったあの夜を、完全に忘れることは出来ないだろう。
でも、風化させることは出来るはずだ。身体についた傷が段々と薄くなっていくように、少しずつ。時間をかけて。現にあの夜の出来事以外はほとんど風化しつつあったのだから。
『こういうのってふたりで乗り越えていくものだって私は思うもの』
その通りだと最上は思った。
現に彼女は今、ひとりではない。
こうして相談に乗ってくれるような頼りになる先輩もいるし、真剣に仕事をする仲間もいる。
そしてなにより、松田がいるのだ。自分のことを長年好いていてくれて、心の底から信じてくれる、彼が。
「(それも、そうだ)」
怖いのは本当だが、彼と一緒になりたいのも本当だ。
ならば、それを包み隠さず伝えてしまえばよかったのだ。自分で決心してから伝えようと思うあまり悶々としながら抱え込んでしまっていたが、その方が圧倒的に効率がいいし、精神的にも楽だろう。どうして今まで気づかなかったんだ。
すっと呼吸が楽になる心地がする。頭の中にかかっていた靄が消えていく気がした。
それが顔にも出ていたのか、佐藤がにっこりと笑みを深めて続ける。
「だから最上さんも、辛いことがあるなら全部松田くんに言っちゃったほうがいいわよ」
「なっ……! わ、私は別に、自分のことだとは」
思わぬ指摘にわたわたと慌てる最上。あら、違った?なんて言いながら佐藤はニコニコと微笑んでいる。その顔がとても楽しそうで、からかっているのだと容易に分かった。友達という体で話していたがすっかりお見通しだったようだ。
「アドバイス、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる。
そして次に持ち上げた時に、彼女の表情からは迷いはすっかり消えていた。
「彼女にも、そう伝えます」
―――鈴の音と夜の予感
自分のためにも、彼のためにも、一歩を踏み出さなければ。