もし叶うのなら死を

 松田が捜査一課に配属されてから1週間と言ったところ。
 彼はどこかそわそわとしながら自身のデスクに腰かけて書類整理に取り掛かっていた。

 それもそのはず。今日は彼が長い間待ち焦がれていた運命の日なのだ。恐らく、という言葉はついてまわるが、ここ数年の傾向から考えて間違いないだろう。

 4年前の例の出来事以来、彼はこのことだけを考えて生きてきた。どんなに月日が過ぎようと、ほとんどの人が忘れようと、松田だけはその出来事を鮮明に記憶していたのである。ことあるごとに書いていた、永遠に受け取られるはずのないメールは既に数えきれないほどになっていた。

 書類整理をそれとなくこなしながらフロア内に耳を傾けるが、一向に動きがないまま時間だけが過ぎていく。書類整理になんとなく飽きた松田は休憩がてら喫煙所に向かうことにした。時々すれ違う一課の刑事の何か言いたげな視線を無視しつつ、最寄りの喫煙所へ足を向かわせる。

 喫煙所へ到着した松田は、思わずきょとりと目を見開いた。そこには見慣れた最上の姿があったのである。
 松田からすればとても意外だったのだが、壁にもたれるようにして、どこか視線をぼんやりとさせながら煙をまとう姿は様になっている。どうやら松田には気が付いていないらしい。彼は興味本位でその喫煙所に近づいていき扉に手をかけた。がちゃりと扉を開くと彼女が視線を持ち上げる。自然と目が合った。

「松兄」

 少し驚いたような表情を浮かべて呟く。松田は口元だけで小さく笑って、最上の傍に歩み寄った。

「確か今日は聞き込みに行くって聞いてたんだが」
「書類整理が終わらなかったから残らせてもらった」
「なるほどな」
「そういう松兄は」
「俺も似たようなもんだ」
「そう」

 最上からの返答を聞いている間も、右手の指に挟まれたそれから立ち上る煙が気になってしまい、自然と視線がそちらへ流れる。松田はついに耐えられなくなったらしい。少しぶっきらぼうになりながら、最上へ言葉を投げかける。

「意外だな、お前が吸うなんて」
「吸うよ。たまにだけどね。……いいじゃん、別にもう子どもじゃないんだし」

 顔を一度正面に戻し、右手に持っていた煙草を咥え、息を吸う。そしてふうっと煙を吐き出す。細く、長く。吐き出された煙が辺りの空気と混じり、徐々に見えなくなっていく。隣に立つ頭ひとつ以上高い松田の方にちらりと視線を寄こしながら最上は言った。

「……それとも馬鹿にしてる?」
「そういうわけじゃない。確か前、臭いとかが苦手だって、言って……」

 そこまで言ったところで、何かを思い出したように不意に言葉を途切れさせる。その表情は一瞬の内に強張ってしまっていた。ふたりきりの喫煙室に数秒ほど沈黙が流れる。そろりと視線を逸らし、どこかばつの悪そうな表情を浮かべながら、松田がそっと口を開いた。

「……悪い。その」
「いいよ気にしないで」

 松田の謝罪を受けて、最上は視線を正面に戻しながら何でもなさそうに言う。その表情は動かない。灰皿に灰を落として、再び口元に持っていく。

「あの人とは違うから。……それにこれは、おまじないみたいなものだし」

 視線をそっと上にあげて、ふう、と煙を吐き出す。
 ふわりと空中を漂うその煙は、どこか霊的な何かを思わせるようだ。

「早く、目標が達成できますようにって」

 小さなそのつぶやきは、松田の耳にもきちんと届いている。ぼんやりとした彼女の瞳は黒々とした底なしの闇が広がるばかりで、何も映っていないようだ。松田は最上に気付かれないよう、小さく眉を寄せる。

 彼女がまとうその煙の匂い。それはかつて"彼"が好んで吸っていたものと全く同じだった。恐らく、彼女が意図的にそれを選んでいるのだろう。それに気づいた松田は何も言わずに彼女と同じ方向を向き、壁にそっともたれかかった。胸ポケットから自身の煙草を取り出して、かつての"彼"と全く同じ匂いをまとう彼女にそれとなく言葉を投げかける。

「そういえば、あいつ言ってたぜ」

 煙草を咥え、ライターで火を付けながら言う。その言葉を聞いて最上は視線を松田にちらりと向けた。彼女からの視線を確認した松田は、空いた左手をライターと共にポケットに突っ込みながら悪戯っぽい笑みを浮かべてみせる。

「『俺、煙草吸う女の人はあんまり好きじゃない』って」
「……」

 松田の言葉を聞き、最上は一瞬きょとんと目を丸くする。
 それから手元の煙草に視線を移し、少しだけ動きを止めたかと思うと、次の瞬間にはそれを迷わず灰皿に突っ込んでいた。まだ吸い始めで十分長いそれを、何の躊躇いもなく。

 その一連の流れを見て、松田は思わず笑ってしまう。くく、と白い歯を見せながら目を細めて言った。

「ほんっと昔から変わんねえよ、お前は」
「…………」

 松田の言葉に対して最上は何も返さず、視線を下げたまま壁にもたれかかる。松田も同じように顔を正面に向き直り、煙草の煙を吐き出してぼそりとつぶやく。

「あいつに、嫌われたくはねえもんな」

 たった一言。まるで松田自身の独り言のような言葉。

 一見すれば何のことかわからないが、ふたりにとってみればそれだけで充分だった。最上の表情は相変わらず動かないまま、喫煙所に再び沈黙が流れる。だがその沈黙は苦しいものではない。ひたむきに前だけを向いていたふたりが、ふと歩みを止める時間。ほんの少しだけ後ろを振り返ることを許された時間だったのだから。
 まるで時が止まったようなこの空間で、松田の煙草から立ち上る煙だけが音もなく揺れている。

 最上も、松田も、視線は前を向けたまま、ゆっくりと意識を過去に追いやっていた。



 ――もし叶うのなら死を



 "彼"の明るい笑顔が、ふたりの脳内を過る。