気づくのが遅過ぎたある馬鹿の話

 太陽が地平線の向こうにゆったりと沈み始める時間。
 パンザマストが鳴り響く中、マンションの屋上……立ち入り禁止の表示の向こう側に少女は腰かけていた。

 小学生くらいの少女は建物の淵に腰を下ろし、まるで高い椅子に座った時のように空中に足を投げ出してぶらぶらと揺らしている。少し俯きがちの顔には影が入り、子どもだとは思えないほどの虚ろな瞳に拍車をかけていた。ぱつぱつと不自然に切られた髪、みすぼらしい洋服、生傷まみれで思わず目をそむけたくなるような痛々しい身体。それら全てを、まるで血のように真っ赤な夕日が染め上げる。

 少女は何も言わず、自身の腕を見やりながらそっと己の境遇に思いを馳せていた。この傷はお母さんにはたかれた時の。この火傷はお父さんに煙草を押し付けられた時の。ひとつひとつ傷をなぞる度に、当時の記憶が、感覚が、鮮明に蘇る。
 どうして私なんか生まれてきてしまったんだろう。そんな思いと共に。

 少女はゆっくりと立ち上がった。裸足でコンクリートに足を付けたせいか、ぺたりと間抜けな音がする。高所特有の強風がまるで少女を攫おうとするかのようにびゅうと吹き付け、髪と服を揺らした。ここのところロクな食事を摂っていなかったため体重が落ちたのだろう。身体が風に煽られて安定しない。
 ようやく風が緩まると、すっと足先に視線を移し、少女はこの場所の高さを再認識する。だが少女の虚ろな表情は変わらない。

「もう、いいよね」

 屋上のところに靴を揃えて、今までのことを書いた遺書も添えた。後は私がここから飛び降りるだけ。
 ……それですべてが終わる。

 目を閉じて、そのまま一歩踏み出してしまおうとした、まさにその時。

「何してんの?」

 聞こえるはずのない声がその場に響いた。

 驚いた少女が思わず振り返ると、そこには少し年上の見慣れない少年が立っていた。ランドセルを背負っていることから小学生であることは推測できる。少年は柔らかい笑みを浮かべてフェンスに頬杖をつきながら、少女のことを見ていた。夕焼けに照らされてその瞳が温かい光を帯びる。

「そこにいたら危ないよ」
「……誰」
「俺? 君と同じでこのマンションに住んでるんだ。しかもふたつ隣の部屋にね。萩原研二っていうんだけど……知らない?」

 少女は素直に首を振る。すると少年――萩原はそっか、と言った。

「そりゃそうだよな、住んでるところと学校は一緒だけど学年違うし」

 へらりと人好きのする笑みを浮かべる萩原。だが少女の表情は変わらないままだ。どうして私のことを一方的に知っているのだろうとか、そんな疑問が浮かぶが口にする気にもなれない。早くしないと両親が帰ってきてしまう。それまでに飛び降りなければ、少女が立てた計画は破綻してしまうのだ。少し睨みを利かせながら声色を冷たくして言い放つ。

「そんなのどうでもいいから。……早く、ここから出ていって」
「やだ」

 萩原はにっこりと笑いながら言う。少女は目を細めながらぐっと眉間にしわを寄せ、明らかに不快感を露わにした。

「……なんでそんなに私に構うの」
「俺が出ていったら君、ここから飛び降りる気だろ? そんなの見過ごせるわけないじゃん」

 萩原はそう言って、ひらひらと右手に持った紙切れを揺らす。それは靴の傍に添えた少女の遺書だった。それを読んだため自分のことを知っていたのだろう、と少女は検討を付け小さくため息を漏らす。日が落ち始めて少し冷えた風がふたりをぶわりと包み込む。

「……私がここから飛び降りることと、あなたは別に関係ない」
「あるよ」

 萩原はすぱりと言い切った。まさかそんな返事が即答で来ると思ってなかった少女は思わず固まる。きょとんとした顔の少女を見て、萩原はニコニコとしながら得意げに理由を話し始めた。

「今日の給食、カレーだったんだ」
「……」

 だが口から飛び出したのは要領を得ない言葉。
 給食? カレー? それが私となんの関係があるんだ。少女は訝し気に眉間にしわを寄せる。萩原はそんな少女の様子など見向きもせず話を続けた。

「今日帰ってきた算数のテストも100点だったし、近所の犬にも吠えられなかった。絶対吠えるって噂のあの家のだぜ?」

 得意げにふんと鼻を鳴らして瞳を輝かせる萩原。だが少女は未だに萩原の話の意図が掴み切れずにいた。すると萩原は、柔らかく微笑みを浮かべる。

「こんなにいいことがたくさんあったのに、目の前で君に怪我されたら台無しになっちゃうだろ?」

 台無し。
 その言葉に少女は思わず動揺する。

 こんな、同じマンションに住んでいるだけでほとんど接点のない私が怪我を負うことで、彼の気分が損なわれるというのか。
 こんな……この世に必要とされてない私が傷つくことで、彼も傷つくというのか。

 ……私の身を、案じてくれるというのか。

 生まれてから一度も人に必要とされたことのなかった少女は、大きく目を見開き、萩原を見つめる。
 心臓がどくどくと脈打ち、全身の血が沸騰してしまったかのように熱を持つ。今が夕暮れでなければきっと、真っ赤に染まった肌をからかわれてしまっていただろう。それくらい、少女は全身が熱くなったのを感じた。小さく震える唇をそっと噛みしめる。

「だからほら、手出して」

 萩原が少女へそっと手を差し出す。差し出された手は少女の肌と同じく、夕焼けで赤く染まっていた。きらきらとした笑顔が眩しくて、少女はそっと目を伏せる。今にも瞳から何かが――ずっと昔に枯れたと思っていたものだ――零れ落ちてしまいそうだったが、ぐっと静かに堪えた。

「……変なの」

 震える声をなんとか隠して、少女――最上は萩原の方へそっと手を伸ばした。


***


 それからというもの、萩原は最上に対して何かと構うようになった。
 毎朝最上の家のインターホンを鳴らし、笑顔で彼女を迎えに来る。最上の家族からのいびつな視線をものともせずに彼女を連れて学校へと向かうのだ。別に彼女が頼んだわけではない。彼が自ら進んで勝手にやっているのである。
 そのうえ校内ですれ違えば、必ずと言っていいほど萩原から最上に声をかけていた。

「次体育? がんばってね」
「図書館行くの? 俺も行きたい」
「理科室かあ、なら途中まで一緒に行こ」

 下校ももちろん一緒。その日の授業が早く終わった方が遅い方の教室の前で必ず待ち、ともに帰路につくのである。萩原よりも低学年であった最上は彼よりも早く終わる日の方が多い。そのため、初めは彼を待たずにさっさとひとりで帰宅してしまっていた時もあったのだが、翌日萩原がすごく煩いので仕方なく教室の前で待つようになった。

 休日も例外ではない。朝早くに最上の家にやってきては彼女を連れ出し、ふたりで色々な場所に遊びに行った。近所の公園に始まり、図書館、ショッピングセンター、映画館、などなど。あまり外出をした経験のなかった最上は、見たことのない景色に出会うたび静かに瞳を輝かせる。普段ほとんど表情が変わらない最上のそんな表情を見るのが、萩原は好きだった。

 共にすごす時間が増えるにつれて、ふたりの心の距離は近づいていく。最上の萩原に対する表情や態度は、出会った頃と比べて随分と柔らかいものになっていた。
 その内最上は萩原のことを親しみを込めて『萩兄』と呼ぶようになった。その時の萩原の喜びようと言ったら。心を開き始めていた最上も流石に一歩後ずさったほどである。

 彼女を取り巻く環境は相変わらず嵐のようだったが、自ら命を絶とうとすることは無くなっていた。これもすべて萩原のお陰であろう。

 彼は知らない間に、彼女の心のかなり深い位置まで入り込んでいたのである。


***


 ふたりの関係は互いに進級しても変わらなかったが、ひとつだけ決定的に違うことがあった。萩原が中学に上がってからしばらくして、ある人物が現れたのだ。

 朝。いつも通りインターホンに応じた最上は、萩原の隣に立っている見慣れない人物を見て思わず固まってしまった。
 萩原と同じくらいの背丈で、彼と同じ制服を身に着けた少年だ。黒髪蓬髪、寝起きのけだるさが残る鋭い瞳。一見人相の悪い彼は最上をちらりと見るなり隣の萩原に話しかける。

「こいつがお前の言ってたやつ?」
「そ」
「へえ」

 にっこり笑って頷く萩原にぼんやりとした相槌を返す少年。すると、すっかり固まっていた最上に気付いた萩原は「ごめんね、紹介がまだだったや」と言って隣に立つ少年の説明をし始めた。

「こいつが前話した中学の友達の松田。見た目はちょーっと怖いけど、すっごいいいやつだからさ。かざねも仲良くできると思う」

 萩原の紹介を聞いて最上は改めて少年――松田を見る。ちょっと見た目が怖いと紹介された松田は「悪かったな怖くて」とつぶやきながら隣の萩原を睨んでいた。そして視線を最上に向ける。

「あーその、なんだ、……よろしく」

 少し気まずそうに言葉を選ぶ。そしてどこか不器用に微笑んだ。その様子を見た最上はぱちぱちとまばたきを数度した後、よろしく、と小さく呟いた。少し緊張を孕んだ、固い声だった。

 こうして邂逅を果たした彼らは、一足飛びに距離を縮めていった。

 初めは松田に対して警戒心を抱いていた最上だったが、彼の本質的な部分を垣間見るにつれて少しずつ心を開くようになった。そしていつの日からか、萩原に倣って『松兄』と呼ぶようにまで関係を深めていた。
 その時の彼の反応は萩原と比べてドライであったが、「よかったね、じんぺーちゃん」と萩原にからかわれた時の赤く染まった顔を見て静かに喜びに浸っていた。


***


 3人はそれぞれ進学しても時間を見つけて遊びに行き、互いに連絡をこまめに取り続けた。

 月日が流れ、高校に上がると同時に最上は一人暮らしを始めた。その際先に大学生になっていたふたりは彼女のサポートを務めた。最上は高校に通いながらバイトを始め、なんとか日々の生活を忙しくすごしていた。
 そんな中、同じ大学に通う萩原と松田はなるべく彼女の家を訪れ、食事を共にしながら彼女に勉強を教えていた。

「……ま、これくらいできれば及第点だな」
「おわ、った……」

 採点したノートを返しながら松田は言う。それを聞いて最上はぐったりと机に突っ伏した。
 最近高校の定期テストが近いらしい最上。そのため、毎日夜遅くまで彼らの手助けを得ながら机に噛り付いていたのだ。因みに、今日萩原は別の用があるらしく、家にいるのは松田と最上のふたりだけである。

「これで明日のテストはなんとか乗り切れる」
「そーかそーか、それはよかった」

 お疲れさん、と言いながら頭を撫でてやる松田。わしわしと乱暴に髪をかき回せば、少し不貞腐れた声で「やめて」と返ってきた。

「明日も早いんだろ、ほら早く寝ろ」
「うん、そうする……」
「……おいこら、ここで寝ていいとは言ってねえよ」

 机に突っ伏した最上を見て松田は言う。だが最上は動かない。んー、とぼんやりとした返事をしつつ、瞼はきっちり閉じている。それから静かに眠りに落ちていった。何度呼びかけても反応がない最上を見て、松田はため息をつく。
 それから最上を起こさぬようそっと抱きかかえ、彼女の寝室のベッドへゆっくりと横たえた。そっと掛け布団をかぶせてやれば、最上がむにゃりと表情を和らげる。

「……」

 そんな最上を黙って松田は見つめている。
 普段は徹底的に隠している彼女の肌。それが横たわったことにより、僅かにだが自然に晒される。そこに刻まれたいくつもの消えない傷を見て、松田は静かに眉を寄せた。

 そっと、彼女の頬に手を伸ばす。
 だが触れる直前、彼は動きを止めた。ぐっと、手を固く握りしめて、思い留まる。

「…………おやすみ」

 そう小さくつぶやいて、松田は彼女の部屋を後にした。



 ――気づくのが遅過ぎたある馬鹿の話



 気付いてしまったのは、彼ひとりだけ。