「……よし」
寝癖で跳ねていたところを撫でつけながら鏡を見て小さくつぶやく。そこに映ったわたしの顔は、さっきよりも少しだけ自信を持った顔をしていた。
今日は久しぶりのお出かけ……というか、別の場所に移動する日だ。
お兄さんは同じホテルにずっといるということがないみたいで、ちょくちょく住む場所を変える。それは1日だったり1週間だったり、はたまたもっと長かったりと色々だ。ひとつのところに長く住めばいいのに、とは思いつつも……実はこの移動がわたしはちょっと好きだったりする。見たことのない場所に行くワクワク感もそうだけど……何よりも、お兄さんと一緒に外に出られるということがうれしかったから。
その場でくるりと回るようにして身体をひねり、着ていた黒いワンピースに汚れやしわがないことを確かめてから洗面所から出て靴を履く。黒くて丈の短い頑丈そうなこの靴は確かブーツ、というんだったかな。この間お姉さんに買ってもらったもので、かかとが高くないから歩くのが下手なわたしでも歩きやすくてすごくお気に入りだった。
「おまたせ、しました……」
ベッドに腰かけて携帯を操作していたお兄さんに準備ができたことを告げると、ちらりと一度こっちを見てから黙って携帯をポケットにしまう。
「行くぞ」
「は、はい」
立ち上がってさっさと部屋のドアの方へ歩いていくお兄さんの背中を追い掛けて、わたしも慌てて鞄を手に取る。わたしが生活するのに必要なものがすべて詰まったその鞄はかなりの大きさだけど、下にローラーというものがついているからこうして引っ張るだけで運ぶことができるのだ。ガラゴロと音をたてながら部屋の外に出るとサングラスをかけたお兄さんのお友達が待っていた。その人はわたしの存在を確認するや否や、持っていた鞄を代わりに引いてくれる。
「お持ちしやす」
「あ……あり、がと」
「いえいえ」
サングラスのお兄さんは口元を小さくほころばせた。
3人でホテルの駐車場に向かい、いつもの黒い車をみつける。この一連の流れにすっかり慣れたわたしは何も言われずとも、車の後ろの席に乗り込んでシートベルトを締めた。それよりも少し早くお兄さんが助手席に乗り込む。サングラスのお兄さんは持っていたわたしの鞄を一番後ろのトランクという場所に積んでから、運転席に乗り込んだ。
やがて車は動き出し、ホテルを後にする。こういう時くらいしか車に乗れないから窓の向こうの景色がどんどん変わっていくのについつい夢中になって時間を忘れてしまう。車はあっという間に次の目的地についたみたいだった。エンジンが止まり、お兄さんが外に出たのを見てわたしもドアを開ける。
ついたのはいつものようなホテルの駐車場ではなく、ただの開けた空き地のような場所だった。地面は平らにならされて、ぽつぽつと車がとまっているからいちおう駐車場なんだろう。でも、辺りを見ても今までの見上げたら首が痛くなるほどの高さの建物も見当たらない。これは初めてのことだった。
しばらく周りをきょろきょろと見回していると、不意にお兄さんの声が聞こえる。
「こっちだ。早くしろ」
「! は、はい」
声のした方を見れば、お兄さんたちはもう車がとめてある場所から少し離れた場所にいた。慌ててそちらに駆けよれば、それを確かめてからお兄さんたちが歩き始めた。車を止めた場所を出て、左へ。歩いている道に沿ってたくさんの家が建っていて、いろんな人たちが住んでいるんだなとしみじみ思う。人も車もあまり通らない静かな場所に、サングラスのお兄さんが引いているわたしの鞄のガラゴロというローラーの転がる音が響いているのが変な感じだった。
お兄さんたちがわたしにはわからないような難しそうな話をし始めたので、少しだけ後ろの方をてくてくと歩く。広い庭に生えている幹が太くてたくさんの葉っぱがついている木、ブロック塀に囲まれた家の覗き穴から顔を出す犬、まとまって外に置いてあるカラフルな自転車、家と家の間にある狭くて薄暗い通り道……。今までこんな場所を歩いたことがなかったから、あちこち目がうろうろして忙しい。こんな道を通るからにはきっと、今日行くのは今までのホテルとはまた違う場所なんだろう。そう思うと少しわくわくした。
どんな場所なんだろうと想像しながらふたりの背中を追い掛けていると、くんっと何か後ろに引っ張られる感じがする。
不思議に思ったわたしは足を止めて自分の身体を確認する。すると、スカートの端の方からつーっと糸が伸びていた。スカートの端は糸によって不自然に波打っているし、しかもその糸は後ろの方……今までわたしが通ってきた方へ向かっている。
知らないうちにどこかに引っ掛けてしまったのかもしれない。わたしはくるりと後ろを向いて、糸を辿るように来た道を戻り始めた。一体どこまで伸びているんだろう。そう思いながら糸に導かれるように歩いていると、ついに見つかった。
「ここに引っかかってたんだ……」
たどり着いたのはカラフルな自転車が置いてある家だった。ここにあった柵のギザギザしたところに引っかかってしまっていたらしい。糸を外し、台無しになってしまったワンピースを見る。折角お姉さんが買ってくれたのになぁ。なんてしょんぼりしつつも、さてお兄さんのところに戻ろうと足をすすめた。
「あ、れ?」
そこでわたしは思わず目を丸くする。
先ほど糸が伸びていることに気付いた場所に戻っては来たものの、お兄さんたちの姿がないのだ。慌てて辺りを見回してみても、あのきれいな銀色の髪は見つからない。耳をすませても、あのガラゴロという音は聞こえてこない。
「あ……」
取り返しのつかないことをしてしまったとわかって、サッと血の気が引く。
わたしはすっかり、お兄さんたちとはぐれてしまったのだ。
居ても立っても居られなくなって、いろんなところを歩いてみることにした。もしかしたらひょっこり見つかるかもしれない。そう思いながら歩いてみるけど、そう簡単に出てくるはずもない。さっきまであんなにワクワクしていた知らない景色が、今はただ不安のもとでしかなかった。
「お兄さん、どこ……? おにいさぁん……」
辺りを見回しながら小さく呼んでみるけれど、もちろん返事はない。わかってはいたけど、それがとても悲しくて胸が痛んだ。泣きそうになるのをぐっとこらえて、お兄さんを探す。でも一向に見つかりそうになかった。ひとりで知らない場所をとぼとぼと歩いていると、どんどん悲しくなってくる。
「なんでぇ……?」
そうつぶやいた自分の声は今にも泣きそうなほど震えていた。
先ほどよりも明らかに歩くペースが落ちる。俯きがちに歩いていたら知らない間に開けた場所に出たみたいだ。いくつか遊具があるからきっと公園だろう。だんだん足が疲れてきたし、一度休憩しよう。そう思って近くのベンチに腰かける。無意識にため息がもれた。
「……もう、帰れないのかなぁ」
ぽつりとこぼれた言葉はどうしようもない本心だった。帰れないということは、もう二度とお兄さんに会えない、ということだ。自分で言うとますます悲しさがずしりと乗しかかる感じがする。うつむいていると、じわりと涙がにじんで目がぼやけてきた。
……さっきまで頑張って堪えていたけれど、きっともう限界だったんだと思う。
「うぅ……」
堪えきれ無かった涙が溢れてぽた、ぽた、とスカートや手の甲に落ちる。どんどん量が増えるそれは、全然止まる兆しが見えない。どうしよう、泣いてる場合じゃないのに、どうしよう。ぎゅっと膝の上でスカートを握りこむ。
「ひっく、う、おにいさぁ……」
情けないほど声が震えて、鼻水まで出てきた。手のひらで拭っても涙はぽろぽろと溢れ続けている。このまま泣いてたら、そのうち悲しさで押しつぶされてしまいそうだ。どうしよう、どうしよう、……これからどうしたらいいんだろう。
「どうしたの?」
「!」
急に聞こえてきた知らない声にぱっと顔を上げると、そこには不思議そうに目を丸くした女の子が立っていた。肩より上に切りそろえられた黒髪に飾りをつけている。わたしより年下に見えるその子にまったく覚えはない。
その子はわたしが泣いているのに気づくと、あわててポケットからハンカチを差し出してくれる。
「これ使って!」
「でも……」
「いいから!」
はい!と渡されてしまえば受け取るしかない。恐る恐る手を伸ばしてピンク色のハンカチを受け取ると、そっと目元を抑えた。すぐにそれは水気を吸ってじわりと色を変える。
「歩美ちゃん!」
遠くの方から4人の子どもがこちらへ走ってくる。見た目からするに、女の子と同じくらいの年齢の子だ。髪の短い大柄な男の子、ひょろりとしたそばかすの男の子、大きなメガネをかけた小柄な男の子、茶色い髪のきれいな女の子。4人はこちらに到着するなり軽く肩を上下させるようにして息をととのえていた。
「どうしたんですか? 歩美ちゃん」
「急に走り出したからびっくりしたぜ」
「ごめんね、ベンチに座って悲しそうにしてたから気になっちゃって」
歩美、と呼ばれた女の子はやってきた子たちに何があったのかを説明する。それを聞いた子どもたちは不思議そうな顔でこちらを見た。
「この辺りじゃ見かけない子ですね……」
「どっから来たんだ? 名前なんて言うんだ?」
うーんと考え込む様子のそばかすの男の子と、興味津々という風に尋ねてくる大柄な男の子。だけどわたしはその返事に困ってしまった。どこから来たのか、なんて、わたしはわからないのだから。
わたしが困っていることに気付いたのか、呆れたように茶髪の女の子が歩み寄る。
「小嶋君。あんまり質問攻めするのもよく無いわよ。この子が困っちゃうじゃない」
「あ、そっか」
わりーわりーと素直に謝る。この5人の仲の良さがよく分かる気がした。わたしが大丈夫だよと返答すると、黒髪の女の子がこちらに近づいてくる。ひょいと隣のベンチに腰かけて自己紹介をしてくれた。
「私は歩美! こっちが元太くん、光彦くん、コナンくん、哀ちゃん! ねえ、あなたの名前はなんていうの?」
「えと……メイ、です」
おずおずと答えたわたしに、黒髪の女の子……歩美ちゃんが嬉しそうに笑って私の名前を呼んだ。
「メイちゃんはどうしてここに?」
「それが……道に迷っちゃって」
わたしはなんとか頑張ってこれまでのいきさつを説明した。お兄さんたちと一緒に車に乗って、降りて移動しているうちにはぐれてしまったこと。それからどれだけ探しても見つからず困っていたところでみんなに会ったこと。どう話したらいいのかわからなくてわかりにくくなってしまったわたしの話を5人は真剣に聞いてくれた。すべて聞き終わると、光彦くんが「要するに」と人差し指を立てる。
「僕らでそのお兄さんたちを探せばいいってことですね」
「そう、だけど……でも見つかるかどうか」
不安になるわたしに、歩美ちゃんが「大丈夫!」と胸を張る。
「なんたって私たち……」
「「「少年探偵団だから!!」」」
ばーん!とポーズまで決める歩美ちゃんと元太くんと光彦くん。残りのふたり……コナンくんと哀ちゃんはポーズに参加せずに呆れたように笑っていた。探偵団、というのははじめて聞いた言葉だけど、探偵という言葉がついているからきっと何かを探したりするのは得意なのかもしれない。先生も探偵をやっていると前に言っていたし。
わたしが目を丸くしたまま黙っていたからか、3人は得意げに言葉を続ける。
「子どもだからって馬鹿にしちゃいけませんよ」
「こう見えても俺たちスッゲー事件いっぱい解決してんだぜ!」
「そうそう! だからお兄さんもきっと見つかるよ」
きらきらとした笑顔をこちらに向けて歩美ちゃんが言い切る。わたしは未だに信じられず、眉を八の字に下げたままだ。
「見つかるの……? 本当に?」
「うん! 絶対の絶対!」
歩美ちゃんに続いてみんなも勇気づけるようにうなづいてくれた。さっきまでたったひとりだと思っていたせいか、あまりにもみんなが心強くて、またじわりと涙が浮かぶ。
「ありがとう、みんな……」
心の底から出た言葉だった。それを聞いた歩美ちゃんたちはくすぐったそうに笑っている。すると、3人よりも冷静そうな様子のコナンくんが気を取り直したように話を進め始めた。
「それじゃあまず、お兄さんの特徴を聞いていくか」
「そうですね」
「お兄さんの特徴……」
特徴、と言われて何を話したらいいか考え込むわたしに、コナンくんが落ち着かせるように例を言ってくれる。
「なんでもいいよ。髪型とか髪色とか、どんな服を着ていたとか、背の高さとか……思いつく限りの情報が欲しいんだ」
なるほどと思ったわたしはううん、と考え込む。お兄さんの特徴、特徴……。
「お兄さんはわたしよりも身体が大きいの。すごく背が高くて、手も大きくて……それで、いつも真っ黒の服を着てる。部屋では外すけど、外に出る時は絶対に帽子を被ってて、それも黒。髪はとっても長くて、さらさらで、背中くらいまである。色はきれいな銀色だよ」
「なるほど……それだけ特徴的ならすぐに見つかりそうですね」
特徴を書いた手帳を見ながら光彦くんが言う。その言葉に思わず嬉しくなった。もう会えないと思っていたお兄さんに会えると思うと、それだけで顔が緩んでしまう。
「メイちゃん、ちょっと」
「なに? コナンくん」
不意にコナンくんに声をかけられ、そのまま手を引かれた。その表情がさっきまでよりもずっと険しくて、ちょっと焦っているみたいだった。……何か、みんなに聞かせたくない話でもあるのかもしれない。他のみんなの方をちらりと見るとなんだか不思議そうにしていたけど、哀ちゃんだけは俯いていてその表情がよく見えなかった。
元いたところから少し離れたところでコナンくんは足を止め、こちらに向き直る。
「今言ったその人、本当に君のお兄さんなの?」
「あ……えっと、あのね、実はお兄さんって呼んでるのはわたしだけで、本当の兄妹じゃないの」
わたしは正直に白状する。もしかしてそこが気になってしまったのかもしれないと思っていたら、コナンくんはちょっと考えるような仕草をした後に質問を投げかけてきた。
「お兄さんの名前、わかるか?」
「名前?」
「ああ」
真剣な顔でコナンくんは言う。ずずいと身を乗り出してきそうなその勢いにちょっと押されながらもわたしは答えた。
「確か、前に『ジン』って呼ばれてるのを聞いたような……」
それを聞いた途端、コナンくんは焦ったように目を見開いてわたしの肩をがしりと掴んだ。
「本当に? 本当に『ジン』って呼ばれてたのか!?」
「う、うん」
そのすごい勢いにわたしはちょっとびっくりしながらもこくこくと頷く。お兄さんが前にお姉さんに『ジン』と呼ばれているのは見ていたから、それは本当のことだった。
するとコナンくんはわたしから視線を外し、少し俯きがちになる。先ほどよりも顔色が悪くて、表情がすごく強張っている。それはどこか怖がっているようにも焦っているようにも見えて、余計にわたしの心がざわついた。
……コナンくんは、何か知っているのかもしれない。
わたしの知らない、お兄さんのことを。
そう思ったら自然に口が開いた。
「もしかしてコナンくん、お兄さんのこと知ってるの?」
「あ、いや……ごめん、知り合いかと思ったんだけど、俺の勘違いだったみたいだ……」
悪い、と言ってぱっと手を離される。コナンくんはさっきまでの顔なんてまるでなかったかのようにけろっとしていた。……うそだ。勘違いだったなんて。だったらそんな顔するわけない。
「コナンく――」
「おーい! 話終わったかー?」
「早く探さないと夕方になっちゃいますよ!」
もう一度聞こうとしたわたしの声を元太くんの声がさえぎる。待ちくたびれてしまったみたいだった。今行くよ!とコナンくんが返事をして、こちらを見る。
「行こっか、メイちゃん」
「……うん」
もやもやとした思いを抱えたまま、わたしは静かにうなづいた。