「38度7分……完全に風邪ですね」
わたしが手渡した体温計?という小さな細い棒のかたちをした機械を見て先生が言う。わたしは被っていた布団をきゅっと握りしめた。その様子が見えたのか、先生の青い目が少しだけ細くなって、わたしの頭を撫でる。いきなりたおれたわたしのせいでお兄さんに呼び出されたのに、先生は怒るどころかいやな顔ひとつしていなかった。
「きっと疲れが出たんでしょう。市販の風邪薬を飲んで横になっていれば治るはずです。一応素人目の診断ではありますから、もし何かあったら素直に病院に行ったほうがいいでしょうけど」
そんな先生の言葉をお兄さんは黙って聞いていた。先生が来るまでに着替えたから今はいつも外に出る時と々真っ黒な姿をしている。寝る時のかっこうを先生に見られたくなかったのかな。そういえばお兄さん今日は眠っていないけど、眠くないんだろうか。だとしたら悪いことをしたなあ……。そんなことをぼんやり思っていると、お兄さんはおもむろに口を開く。
「こいつの面倒を見られるか。生憎、野暮用が入ってな」
「……そう言いつつも、僕に断る権利はないんでしょう?」
「わかってるじゃねえか」
ハッと息を吐いて、口のはしっこをちょっと持ち上げるようにして笑う。けれどすぐにまたいつもの怖い顔に戻ってしまった。
「昼過ぎには一度戻る」
「はいはい」
先生の返事を受けて、お兄さんはスッとわたしに背を向けた。銀色の髪がゆれる。
「(……あ)」
お兄さんの背中が、遠ざかっていく。
どこかに行ってしまう。わたしを置いて、部屋の外へ。
……それは、ちょっと、いやだ。
「メイちゃん?」
先生が不思議そうにわたしの顔をのぞきこむ。そこでようやく気がついた。わたしが左手を持ち上げてお兄さんに向かって手を伸ばしていることに。
わたしの名前を聞いたからか、お兄さんが足を止めてこちらを振り返る。ぱちり、お兄さんと目が合った。そのせいでまた顔がぶわっと熱くなって、わたしは急いで手を布団の中に引っ込める。
「な、なんでも、ない、……です」
ごめんなさい。手どころか顔もほとんど布団で隠しながらわたしはつぶやくように言う。それからしばらくしてから扉が閉まる音がして、お兄さんが部屋から出て行ったのがわかった。お仕事があるなら仕方がないとわかっていても、ちょっとだけ胸が痛くなる。
「メイちゃん、大丈夫?」
そっと布団から顔を出すと、さっきよりも心配そうな様子で先生がわたしの方を見ていた。
「だ、だいじょぶ」
そう言ってる途中でゴホゴホとせきが出て、先生は「無理はしなくていいよ」と言って優しくわたしの身体をさすってくれた。
「咳がつらそうだね……のど痛い? もし起き上がれそうならこれ、飲めるかな」
「……ん゛、のみ、ます」
わたしがなんとか上半身だけ持ち上げれば、先生は横のテーブルに置いてあったコップをわたしの口に近づけてくれた。ふんわりと立ちのぼる湯気と、甘い匂い。なんだろうと思っていると先生が教えてくれた。
「はちみつレモンだよ。冷ましてあるから、ゆっくり飲んで。急がなくていいからね」
コップにそっと口をつけてなめるようにすこしずつ飲む。ふわりと甘くてちょっぴりすっぱい。おいしい。飲み込んだはちみつレモンがのどを優しくなでるようにすべっていって、さっきよりものどが楽になったような気がした。
「おいしい、です」
「それはよかった」
半分ほど飲んだところで先生がコップをわたしから遠ざける。ことりと音を立ててコップを置きながら、先生は言った。
「お腹の具合はどうかな。何か食べたいものはある?」
少しだけ考えて、ゆっくり首を横に振る。正直あんまり何かを食べたいという気持ちはなかった。先生はそんなわたしを叱るでもなく「そっか」と静かに言っただけだった。
「じゃあ薬を飲んでから、少し眠ろう。休んだらきっとお腹もすいてくるだろうし、その時にまた食べようね」
「……ん」
先生はコップの横に置いてあった白くて小さなつぶをわたしの口に含ませる。続いて口元に近づけられた水と一緒に飲み込めば、先生はえらいとほめてくれた。先生の大きな手がわたしの頭を撫でる。それでふと、お兄さんに頭を撫でられた時のことを思い出した。同じ男の人なのに、どうしてこうも違うんだろう。
「(……だめだ)」
ぼんやりした頭で浮かんでくるのは、お兄さんのことばっかり。
先生に言われたからやめなくちゃいけないのに、こんな気持ちになっちゃいけないのに……わたしはどうしても、お兄さんのことを考えてしまう。それくらい、お兄さんのことがすきなんだ。わたし。
「せんせ」
「ん? なぁに、メイちゃん」
「……ごめ、ん、なさい」
「君が謝る必要なんてないんだよ。メイちゃんが元気になってくれれば、僕はそれでいい」
先生はほほえんで、わたしの身体を支えながら横に寝かせてくれた。
「ゆっくりお休み。大丈夫だよ、眠るまで側にいるから」
汗でしめった前髪をそっとよけるようにして先生が言う。わたしはゆっくりと目を閉じた。少しずつ音が遠くなっていく。とろりと意識が溶けていく。
「……謝るのは、僕の方だ」
なんだかさみしそうな先生のつぶやきが、かすかにきこえた……気がした。
***
暗い空間に、ぼんやりとただよっている。
まるで少し前にテレビで見た、深海の映像みたいだと思った。深くて静かで。身体がふわふわする。海なんて見たことも無いけど、きっとこんな感じなのかもしれない。
身体をひねってまわりを見まわしたけど、わたしの他には誰もいなかった。でも不思議と怖くはなくて、わたしは静かにその感覚に身をゆだねる。ゆらゆら、身体がゆれる。
「(……ん?)」
私の目の前にぽわ、と白くて四角い光が現れた。ちょうどテレビみたいな大きさの、四角い白い光。そっと近づいてみると、何か映像が流れている。なんだろうと思って、わたしはそれをじっと見つめていた。
それは知らない女の子のお話だった。
お父さんとお母さんと女の子の3人、仲良く幸せそうに暮らしていた。けれど、ある日突然お父さんとお母さんがいなくなってしまう。家が火事になってしまったのだ。女の子はなんとか助かってそこから逃げ出すけど、どこに行ったらいいのかも分からない。少しして、女の子の後ろに黒い影が近づいてくる。影から必死で逃げる女の子。その顔は不安そうで、こっちにもその気持ちが伝わってくるようだった。
『怖い』
『お父さん、お母さん』
『嫌だこんなの』
『誰か、助けて。お願い』
『……だれか』
不思議とわたしの呼吸もあらくなって、息が苦しくなってくる。身体が重くて、すごく熱い。どうしよう。ここには誰もいないのに。どうしたら。
その時。
ふと、頬のあたりにひんやりとした感触がした。
「(なん、だろ)」
それは一定のリズムで頬に触れる。少しずつ意識がはっきりしてきて、わたしはそっと目を開いた。涙でぼんやりとしているけど、見なれた部屋が目に映って。それでやっと、わたしが今まで見ていたのは夢だったんだと気付いた。
……そっか、ぜんぶ夢だったんだ。よかった。
ちょっとだけほっとしていると、はっきりしない視界の真ん中で何かが動くのがわかる。
「(誰かいる)」
誰だろう。先生かな。そう思いながらまばたきをしていると、少しずつ視界がはっきりしてきた。でも、そこにいたのは。
「(……お、兄さ、ん?)」
お兄さんがわたしのベッドに腰かけて、こちらの様子をのぞきこんでいる。それがわかった途端、わたしの力がゆるりと抜けた。わたし、まだ夢を見てるんだ。だってお兄さんがここにいるわけないし。だからこれもきっと、夢に決まってる。
「起きたか」
お兄さんの声が聞こえた。いつもよりも優しくて、穏やかな声。お兄さんに会えるだけじゃなくて声まで聞こえるなんて、なんてすてきな夢なんだろう。そんなことを思いながらわたしは小さくうなづく。
すると、わたしの額にお兄さんの手が当てられた。大きな手はひんやりとしてとても気持ちがいい。熱がすうっと吸い込まれて、苦しいのが楽になる気さえする。すごいなあ、お兄さんの手は。まるで魔法みたいだ。
わたしがうっとりと目を細めると、お兄さんは言う。
「……まだ高いな」
そう言ってお兄さんは額から手を離した。途端にまた頭がぼんやりとし始める。視界がゆれて、だんだんまぶたが落ちてくる。いやだ、夢が終わってしまう。そうしたら、お兄さんもいなくなってしまう。
「お、にい、さ」
かすれた声がした。聞こえないかもしれないと思ったけど、お兄さんは何も言わずにわたしのことを見てくれているから、きっと聞いてくれているんだと思う。
「いか、ないで」
あの背中を見てからずっと思っていたことを口にする。本当なら言えないけど、これは夢だから。なにを言ってもいい夢なんだから。
「さみ、しい。から。そばに、いて」
ぎゅっと、布団を握りしめる。
「おにいさん、と、いっしょに、いたい、……おね、がい」
お兄さんは少しだけ目を大きくして、それからまた、いつもの顔に戻ってしまった。そっと、わたしのまぶたに被さるようにお兄さんの手が当てられる。
「……わかったから、寝てろ」
お兄さんは静かに言う。そうしてわたしはまた、ゆっくりと意識を手離した。
***
眠って、起きて、ご飯を食べて、時々薬を飲んで……それを何度か繰り返しているうちにすっかり身体は楽になった。
「これでもう大丈夫そうだね」
体温計を見ながら先生は言う。それを聞いたわたしはほっと胸をなでおろした。するとタイミングよくお兄さんが部屋に入ってくる。それと入れ替わるように先生は「じゃあまたね、メイちゃん」と言って出て行ってしまった。ばたん、と扉の音がして、部屋の中が静かになる。久しぶりに会うお兄さんにちょっぴりきんちょうしているわたしは、布団から出した手をモジモジさせていた。
「具合は」
「あ、えと、大丈夫、……です」
どぎまぎしながら答えると、お兄さんはいつもと変わらない声で「そうか」と言った。心配してくれていた、のかな? そのことにちょっとだけわたしは嬉しくなる。
「良くなったのなら支度しろ。場所を移る」
「! あ、っはい!」
わたしは返事をしながらぱっと顔を上げた。そこでようやくお兄さんの顔を見る。
お兄さんの目の下にはいつもよりもはっきりと、クマが居座っていた。
どうやら、わたしが風邪を引いたせいで眠れなかったらしい。そうか、だからわたしの具合を気づかってくれたのか。自分が眠れないと困るから。
「(お兄さんに悪いことしちゃったなぁ)」
今度からは風邪にも気を付けなきゃ。わたしが静かに決意しながらカバンに荷物を詰めている傍で、お兄さんは小さなあくびをひとつこぼしていた。