お兄さんは考える
 飼っていたガキが風邪を引いた。

 扱いが簡単だろうと思っていたが、そうか、子どもなら簡単にこういうことになってもおかしくはない。考慮するのが抜けていた。今までこいつがそういった素振りを一切見せなかったせいとはいえ、これは完全に盲点だろう。

 苦しそうにその場で俺にもたれるように意識を失ったこいつをベッドに寝かせてやる。赤く上気する顔を見て、一瞬迷ったのちに俺は携帯を手に取った。あまり気は進まなかったが、他よりはまだマシだろうという人物の番号を打ち込んで通話ボタンをタップする。3コールほど呼び出し音が鳴ったのちに、冷静を装いつつも少々苛立ちを隠しきれない声が聞こえてきた。

『どうしました』
「バーボンか。今すぐ俺の部屋に来い」
『部屋に? ……用件は何ですか』
「あいつが風邪を引いた」

 俺がそう言えば少し黙った後に『30分で行きます』と返事がして、そのまま切れた。まぁいい、煙草でもふかしながら待つか。部屋の中で一服しながらこの後の仕事について確認をしていると、約束通り30分でバーボンが到着した。部屋の扉を開けて手にはレジ袋が下がっている。

「どうせ何も無いだろうと思って色々持ってきましたよ。様子はどうです?」

 そう聞かれて俺が顎でくいと示せば、バーボンはつかつかと中に入って子どもの様子を確認し始める。体温を測り、その熱の高さに顔をしかめた。

「きっと疲れが出たんでしょう。市販の風邪薬を飲んで横になっていれば治るはずです。一応素人目の診断ではありますから、もし何かあったら素直に病院に行ったほうがいいでしょうけど」

 そう言いながらバーボンは体温計の電源を切る。俺はこの後の予定を頭の中で組み立てながら言った。

「こいつの面倒を見られるか。生憎、野暮用が入ってな」
「……そう言いつつも、僕に断る権利はないんでしょう?」
「わかってるじゃねえか」

 昼過ぎには一度戻ると伝えて部屋を後にしようとする。だがふと、バーボンが子どもの名前を呼んだのが聞こえた。反射的に足を止めて振り返る。そこには額に汗を浮かべながらもこちらに手を伸ばす子どもの姿があった。目が合った途端、子どもは弾かれたように手を引っ込め、そのまま顔まで布団に潜ってしまう。

「な、なんでも、ない、……です」

 ごめんなさい、と布越しにくぐもった声が聞こえる。何もないなら、いい。俺はその言葉を聞いて、再び子どもに背を向けた。ばたんと扉が閉まる音を背に受けて、頭を仕事に向けて切り替える。


***


『まだ熱が高いようなので、もし泊まるなら別の場所に泊ってください』
『あなたにまでうつったら流石に見てられませんから』

 少し早めに仕事を終えた俺の携帯にバーボンからのメッセージが入る。それを見た俺は小さく舌打ちをした。

「兄貴、どうかしやしたか」
「……いや、なんでもねえ」

 運転席のウォッカを適当にあしらってから俺は煙草を吸おうとコートのポケットに手を伸ばす。そこでふと、煙草を部屋に置き忘れてきた事に気付いた。今から買いに行こうにも、あの銘柄を取り扱っている店はそうそう見つからないだろう。かといって他の物を吸う気分にはならない。少々マニアックな銘柄を最近好んで吸っているつけがここに回ってきたかと俺は眉間にしわを寄せる。

「(仕方ねぇ)」

 俺はウォッカにホテルに寄るよう指示を出す。そのまま待ってろと言い残して部屋に行けば、バーボンは丁度留守にしているようだった。これは都合がいい。俺はサイドテーブルの上に置きっぱなしにしていた目当ての煙草を取り、ポケットに突っ込む。

「……はっ、あ、ぁ」

 苦し気な呼吸音と呻き声が耳をつく。気まぐれに音のしたほうを見れば、子どもが魘されているようだった。目を閉じたまま、びっしょりと身体に汗をかいて、荒い呼吸を繰り返している。全身の肌はまるで林檎のように赤く染まっていた。

「ぃ、やだ、た、すけて、」

 今にも消えそうな声でとぎれとぎれに助けを乞う。子どものそんな姿を見たのは初めてだった。おどおどとはしつつも、こちらに助けを求めたことなんて今の今まで一度もなかったのだから。

「……」

 俺は静かにベッドの縁に腰かける。そしてほとんど無意識に、子どもへと手を伸ばしていた。額に張り付いた髪をはらおうとするが、その熱さに思わず手を引っ込めそうになる。バーボンは風邪だと言っていたが、これは本当にそうなのか? こんなに魘されているのが、ただの風邪だと?

「おい」

 呼びかけるが返事はない。なおも苦しそうに呻いているばかりだ。本当に問題無いんだろうか。そう思った途端、子どもの目の端から涙が一筋流れる。その時、ほとんど反射的に俺は子どもの頬を軽く叩いた。

「おい、聞こえてるのか」

 何度か呼びかければゆっくりと瞼が持ち上がる。ぱち、ぱちと何度かまばたきをして、そろりと目玉が動いた。子どもの潤んだ瞳に俺が映っているのがわかる。

「起きたか」

 俺が呼びかければ、ややあって子どもが小さく頷く。意識が徐々にはっきりしてきたらしい。熱を測ろうかと思ったが体温計が見つからなかったため額に手を当てた。やはり、普段よりも随分と高い。こんな様子で本当に治るのかと思ってしまいそうなほどだ。額から手を離すと、手のひらが子どもの汗でわずかに湿っている。

「お、にい、さ」

 荒い呼吸の合間。子どものか細い声が聞こえる。今にも消えそうなその声は確かに、俺の耳に届いていた。俺はそいつから目を離さず、黙って言葉を聞いている。

「いか、ないで。……さみ、しい。から。そばに、いて」

 ぎゅっと、布団を握りしめるのがわかった。そしてはくりと口が動く。

「おにいさん、と、いっしょに、いたい、……おね、がい」

 その言葉に、数時間前の姿が思い起こされる。
 ……そうか、あれは。

「(俺に行ってほしくなかった、と)」

 潤んだ目で子どもはこちらを見つめている。俺は先ほど額に当てた手を、今度は目元にかざした。そっと、視界を塞いでやる。

「……わかったから、寝てろ」

 そう告げれば子どもは静かに口を閉じた。1分ほど待って、そっと手を外す。子どもの黒い瞳はもう俺を見つめてはいなかった。先ほどよりも少しばかり穏やかになった表情を、呼吸に合わせて小さく上下する胸を見る。そっと息を吐いて、そこで初めて自分が無意識のうちに息を詰めていたことに気付いた。

「……」

 しばらく黙って、子どもの寝顔を見つめていた。この状況もあってか、自然と思考は子どもを中心に巡り始める。
 いつからこうなってしまったのだろう。はじめは本当に誰でもよかったはずだった。それこそ適当に、いざとなればいつでも切り捨てられる。そんな存在でいいと。むしろその方が好都合だと。

 ――だが、今の俺はどうだ?

 知ってしまった。幼い子どもの温もりを、髪の柔らかさを、肌の匂いを、目まぐるしく変わる表情を、……俺を求めて呼ぶ声色を。知ってしまった。知ってしまったからには、もう以前には戻れない。これはそう簡単に替えが効くような代物ではないだろう。……厄介だ。

「(面倒なことになっちまった)」

 この感情が何なのかは、正直まだよく分からない。今まで俺が生きてきた中で一度も感じたことのない感情。それはきっとおそらく、自分が生きていくのに必要ないと思っていた、胸のざわめき。

 ただ、この感情の正体についてひとつ言えるのは情欲ではないということくらいだろう。そんな浅はかな、欲望に塗れたものではない。一緒だなんて到底思えない。

 "これ"はそんなものよりもっと、あたたかくて、やわらかくて、特別な。
 ……そう、特別な。

「そう、か」

 ぽつりと言葉が零れる。俺と子どもしかいない空間は静かで、誰も聞いていないのならと俺は独り言ちる。
 確かにこれは、面倒なことに変わりない。……が、まあ、不思議と、

「悪くはない」

 そう自分でつぶやいて、思わず笑いそうになった。随分と俺も絆されたもんだ。
 ちらりと子どもを見やる。先ほどよりも呼吸が穏やかになっていて、顔色も多少良くなった。今度こそ静かな眠りに落ちたのだと一目で分かる。

「てめえのせいだからな」

 何も知らずに寝息を立てる子ども。
 その眠りを妨げないよう気を付けながら赤く火照ったやわい頬にそっと触れ、俺はもう一度静かに息を吐いた。


***


 子どもの要望通りそのまま居てやろうかと思ったが、現在外出しているバーボンと出くわすのは厄介だと、俺は渋々部屋を後にする。それから別の仕事をひとつ終わらせて、再び部屋に戻ってきた。俺がいない間にバーボンに世話を焼かれたためか、子どもは随分と良くなったらしい。熱もすっかり下がったとバーボンが体温計の数値を見ながら言った。

「じゃあまたね、メイちゃん」

 子どもにそう声をかけてから、役目はもう終わったとばかりにバーボンは部屋を出て行く。それと入れ替わるように俺は部屋に入った。子どもは少々戸惑いながらこちらを見ている。

「具合は」
「あ、えと、大丈夫、……です」
「そうか」

 たどたどしく答える子ども。いつもと変わらないその様子に、少しだけ表情が緩みそうになった。俺はくるりと背を向けて言う。

「良くなったのなら支度しろ。場所を移る」
「! あ、っはい!」

 俺の言葉に子どもは慌ただしく行動を開始する。そこまで急ぐ必要があるわけではないのだが、懸命に支度をするその様子が可笑しくて俺は何も言わずにその様子を視界の端で見ていた。

「(……眠い)」

 そういえば今日は一睡もしていなかったなと思い出す。移動中に少し休めるだろうか。
 ……いや、拠点についてから横になろう。久しぶりに子どもを抱えて、そのまま深く深く眠る。そうだ、それがいい。

 鞄に急いで荷物をつめる子どもの体温を思い出しながら、俺はもう一度静かに欠伸をした。