ちくたくと時計の針の音が部屋に響く。
ひとりベッドに座るわたしは、今しがたお兄さんが出て行ったばかりの扉を呆然と見つめていた。
「ど、どうしよう……」
戸惑いがちにつぶやくが、それに答える人はいない。そりゃそうだ。ひとりなんだから。
『何をしていても構わねェが、0時には必ずこの部屋に居ろ。居なかったら殺す』
お兄さんの最後の言葉が脳内に響く。その凍てつくような表情も同時に思い出して背筋がぞくっとした。
本当は今すぐにでもこの場所から逃げ出したいけど、外に出たところで行く当てなんてどこにもない。それにそんなことをすれば、お兄さんが怒ってわたしのことを殺しに来るかもしれない。そんなのは嫌だ。きっととても痛いだろうし、なにより怖すぎる。
「とりあえず、お兄さんが帰ってくるのを待とう」
わたしは小さくつぶやきながらそう決意した。
ベッドの近くにあるテーブルに鍵を置き、すぐ傍の時計に目をやった。短針がちょうど12に近づいている。長針は6を指していた。つまり今は11時30分。お兄さんが言っていた0時っていうのは夜中の12時のことだから、お兄さんが帰ってくるまであと12時間以上もある。この自由な時間をどう過ごそうか?
そこでふと、自分が今いる場所を思い出す。ここは狭く暗い檻の中ではなく、綺麗で素敵な部屋の中だ。
「……何があるんだろう」
好奇心がムクムクと顔を出す。時間はたっぷりあるのだし、ひとまずわたしは部屋の中を探検して回ることにした。
ぐるりと辺りを見回す。この部屋にあるのは大きなベッドがひとつ、ランプの乗った小さなテーブルがひとつ、それとは別にガラスのテーブルと小さな椅子がひとつずつ、それから大きな薄っぺらい足の生えた黒い板のようなものだ。多分これは"テレビ"ってやつだろう。あの店にいた時に聞いたことがある。確かこの小さい箱みたいなやつにある丸いものを押して……。
「!」
ぷつんと小さな音がして、真っ黒だった画面が動き出した。たくさんの人が楽しそうに喋っている。ころころ目まぐるしく変わる画面はカラフルで、わたしは思わず目を輝かせた。檻の外にこんな素敵なものがあったなんて。小さな箱についている他の丸いものを押せば画面は次々切り替わっていく。面白い。
ひとしきり遊んだところで、わたしは小さな箱を置いてベッドから降りた。冷たいコンクリートとは違う、どこか柔らかな布の感触だ。それがなんだか新鮮で面白くて、わたしはしばらくぺたぺたと辺りを歩き回っていた。だが足元ばかりに気をとられたせいで、壁にごつんと頭をぶつけてしまう。
「いた……」
頭を抑えつつ顔を上げると、もうひとつ部屋があることに気付いた。頭の傷みも忘れ、なんだろうとその部屋に近づいて覗き込んでみる。
中にはトイレとシャワーがあった。店にも同じようなものはあったが、それとは比べ物にならないほど綺麗で清潔感がある。掃除をしっかりしてるからだろうか。浴槽に残った水滴を見て、そういえばお兄さんここでシャワー浴びてたっけ……と考えたところで、今朝のお兄さんのお風呂上がりの姿を思い出して顔が熱くなった。
シャワー室を後にして、もう一度ベッドに腰かける。するとさっきは気づかなかったものを見つけた。ガラスのテーブルの奥のほうに、何やら白くて四角いものが置かれていたのだ。
ベッドから降り、それに近づいてみる。わたしの背丈よりも小さくて白くてつるるとしたそれは、扉のように取っ手がついていた。しゃがみ込んで取っ手をそっとつかみ、恐る恐る開けてみる。がぱ、と不思議な音とともに中からぶああと冷気が溢れだしてきた。
「ひゃ!」
驚いたわたしは思わず扉を閉めてしまう。何だったんだろう今の。思わず腰を抜かしたわたしは、心臓をばくばくさせながらその場にへたりこんでいる。これは触らないほうがいいな……。そう思ってわたしはその白い四角いものからそっと距離を取った。大人しくベッドに戻る。相変わらずふかふかのベッドはわたしのことを柔らかく受け止めてくれた。
テレビから流れる映像を見ながら、ぼうっとわたしは考える。
「お兄さんは今ごろ、何をしてるんだろう……」
あの店に来た時点で普通の人でないのは確かだ。だって人をお金で買うような人が、普通であるはずがないのだから。今までの子たちだってそうだったし。
……でも、どうなんだろう。
頭の中に昨夜の出来事が過る。
決してわたしを傷つけない優しい手つき、背中から伝わるほのかな体温、……目の下にくっきりクマの刻まれた、疲れ切った顔。
「……」
わたしは膝を抱えてうずくまる。
まだ会って1日も経っていないし、正直答えを出すにはまだ早い。これから過ごしていくうちに何度だって印象は変わるだろう。
けど、何となくわたしは思うんだ。
きっと、あのお兄さんは――
***
ガチャガチャという音でふと意識が戻った。
どうやらわたしは知らない間に眠ってしまったらしい。すっかり部屋は暗くなっている。手探りでベッドの近くにあったランプに手を伸ばし、釣り下がっていた紐をぐいと引いた。ぽわと明かりがともり、部屋がそれなりに明るくなる。今何時だろう……。
そう思ったその時、ガチャリとドアが開く音がした。びくりと肩を震わせてそちらを見ると、今朝と変わらぬ様子のお兄さんが立っている。お兄さんがこちらをじろりと見た。相変わらず顔は怖い。
「ぉ、おかえり、なさい……」
無言のままでいるのも感じが悪いかと思い、帰宅時の挨拶を返す。お兄さんは少しだけ黙った後「ああ」と言っただけだった。テーブルの上に置かれたままになっている部屋の鍵を見て、お兄さんはたずねる。
「外へ出たか」
「いえ……」
「飯は」
「な、何も」
そう答えればお兄さんはわずかに目を丸くした。
「一度もか」
わたしは静かにうなずく。店での食事は1日に1度で、たまに与えられないことさえもあった。だから空腹には慣れっこなのだが……もしや何かまずいことでもあっただろうか。
するとお兄さんは何も言わずに、持っていた袋をガラスのテーブルの上に置いた。
「食え」
端的に言う。対する私は少し戸惑っていた。
「……いいの?」
「勝手に飢え死にされても面倒だからな」
いいから食えとお兄さんは睨む。わたしは大慌てでベッドから降り、テーブルに駆け寄った。
袋の中に入っているのは、ビニールで包装された数種類のパンだ。触ってみるとほのかに温かい。わたしは思わず目を丸くした。温かいパンに触れるのは初めてだったのだ。
「早くしろ」
そう急かされ、わたしはあわててひとつ選び取る。丸くて一番温かいパンだ。するとお兄さんも袋の中から無造作にひとつ選び取り、近くの椅子に腰かけた。そしてびりりと包装を破いてからさっさと食べ始める。それを見ていたわたしも真似するようにベッドにちょこんと腰かけてから包装を破り、はぐ、とかぶりついた。
「!」
柔らかく温かいパンの優しい味が、口の中に広がる。もぐもぐと噛みしめれば噛みしめるほどそれはどんどん増していくようだった。しかも中にはとろりとしたものが入っている。これが噂のチーズというものだろうか。まさかこんなに美味しいとは思わなかった。
ご飯がこんなに美味しいものだなんて思いもしなかった。あの店でご飯といえば、乾いて固くなったパンと冷たくて薄いスープとか、そんなのばかり。正直一度も美味しいと思ったことは無かった。だがこれは違う。お兄さんが買ってきてくれたこのパンは、まるで正反対だ。今までの人生で食べてきたものの中で一番おいしい。
ひとくち、またひとくちとパンをかじる度に、涙がわたしの頬を伝っていく。
初めは一筋だったが、次第にほたほたとそれは増えていった。静かに伝う涙を止める方法を知らないわたしは、パンをかじりつつ黙って収まるのを待つしかない。
そんなわたしを叱ることなく、お兄さんは何も言わずに煙草をふかしていた。