抱き枕とお兄さんのお友達
 その日はパンを食べ終わった後、昨日と同じようにお兄さんと共にベッドに横になった。

 相変わらずお兄さんは下着姿でわたしを抱えたまますっかり熟睡しているし、わたしはお兄さんの腕の中で一睡もできずにいた。理由としては、お兄さんが来るまでの間部屋で眠っていたから眠気があまりなかったというのが半分、お兄さんの腕の中という状況にまだ慣れなくて気が高ぶってしまったのが半分だ。すう、すう、と一定のリズムを刻むお兄さんの穏やかな寝息を聞きながら、わたしはじっと暗闇を見つめている。

 結局わたしは、カーテンの隙間がうっすらと白み始めるまで意識を手放すことができなかった。


***


 あっという間に時間は過ぎ、次の日の朝。

 同じように電話の音で目を覚ましたお兄さんは、しばらくの間誰かと話をしていたかと思うと、また不機嫌そうに眉間にしわを寄せて切ってしまった。そして何も言わずに支度をし始める。シャワーを浴びて、適当に髪を乾かし、真っ黒い服を手際よく身に着ければ完成だ。その一連の様子を、わたしはベッドの上にぺたりと座り込んだまま見ていた。今日も部屋でお留守番だろうか。

 それにしても、お兄さんはどうして毎日同じ服を着てるんだろう。こんなところに泊っているくらいだからお金を持っていそうだし、もっといろいろな服を着たらいいのに。お兄さん背も高いし、手足も長いからきっとかっこいいんだろうなあ。
 そんなことを考えながらぼうっとしていると、思った以上にお兄さんを見つめすぎていたみたいだ。お兄さんはこちらをぎろりと睨み、

「何見てやがる」

 ぼそりと不機嫌そうに言う。その低い声にびくりと身を震わせた。わたしは慌てて隠れるように顔を伏せ、身を小さくしながら謝る。

「ご、ごめんなさ……」
「……」

 最後の方は少し小さくなってしまったが、問題ないだろうか。やっぱり怒られるのは嫌だなあ……。身体がいつもの半分くらいになる気がする。
 びくびくと怯えるわたしを置いてけぼりにして、お兄さんは黙って何かをベッドサイドの地面に置いた。

 なんだろう。おそるおそるベッドから身を乗り出すようにして、視線を下げる。
 するとそこにあったのは真っ黒い靴だった。はき口をわたしに、足先をお兄さんに向けている。大きさはちょうどわたしの足くらいだろうか。ピカピカで新しく、なんの飾りもついてないすっきりしたデザインをしている。もしかしてこれはお兄さんが買ってきてくれたのだろうか。でも、なぜそれを今ここに?

 どうしたらいいかわからなくてお兄さんと靴の間を交互に見ていると、しびれを切らしたらしいお兄さんが言った。

「拠点を移動する。お前も来い」

 なるほど、そういうことだったのか。ようやくお兄さんの言いたいことが分かったわたしは慌てて靴に足を通す。初めて履いたとは思えないほど足にぴったりと合っていた。

 荷物を持ってさっさと移動し始めてしまったお兄さんの背中を追いかける。ベッドを降り部屋を出て、エレベーターへ乗り込む。初めて履く靴のせいで歩くのが遅いわたしを気遣ってか、ちらりと背後を見ると少しだけゆっくりとお兄さんは歩いてくれた。特に会話をすることも無く、部屋に来たときと逆の道をたどっていく。数分もしないうちにエレベーターは最下層に到着し、扉が開いた。何も躊躇うことなくつかつかと進み、自動ドアをくぐり抜ける。

 数台の車が止まる駐車場を歩いていると、この間見た黒い車を発見した。そして同時に、その傍にいるひとりの男の人も目に留まる。その男の人はお兄さんよりも身体が太く、真っ黒い帽子を被りサングラスをかけている。服はお兄さんと同じく真っ黒だ。似たような服装……ということは、お兄さんの友達なんだろうか。

 男の人はお兄さんを認識するとアニキ、と声をかける。その声には聞き覚えがあった。昨日の電話の人だ。ということはやっぱりお兄さんの友達か何かなのだろう。そんなことを考えていると、ふとわたしに視線が向けられる。珍しいものを見つけたかのように少々顔を近づけ、まじまじとこちらを見やる。わたしはどうしたらいいのかわからず、視線をそのままにわずかに身を小さくすることしか出来なかった。やっぱりじろじろと見られるのはまだ、苦手だ。

「アニキ、こいつが例の……」
「余計なことはいい。さっさと出るぞ」
「は、はい」

 少々つっかえながら男の人は返事をする。なんだかびくびくしてるような感じだ。友達同士といってもお兄さんの方が偉い人なのかもしれない。

 男の人は慣れ切ったようにお兄さんから荷物を受け取り、前の方の車のドアを開ける。お兄さんはさも当然のようにそこに乗り込んだ。ばたんと扉を閉めると、今度は後ろの扉を開けた。乗れということだろう。ちらちら男の人の様子を窺いつつ、車に乗り込む。ちょうどお兄さんの後ろにあるシートにそっと腰を下ろすと、ばたりと扉を閉めた。そして今度はわたしの背後の扉が開く。どさりと音がしたからさっき受け取った荷物を載せたのだろう。ばたりと閉まる音がすると程なくしてお兄さんの隣の扉が開き、男の人が乗り込んでくる。ちらりと、鏡越しに男の人は言った。

「お嬢ちゃん、あぶねえから一応シートベルトしめててくだせえ」

 こちらを気遣うような、遠慮がちな声。わたしは曖昧に頷いてシートベルトと呼ばれるものを探す。すると肩の少し上のあたりに変わった金具のようなものを発見した。恐る恐る引っ張ると、するすると伸び、ベルトのような長い帯状のものがくっついている。多分これかな? そう思いつつ引っ張って、腰のあたりにあった差込口のようなところにゆっくりとはめこんでみた。かちゃりと小気味いい音がして、ベルトでわたしの身体がシートに固定される。おお……これは便利。
 わたしのシートベルトの音を合図に、男の人は車のエンジンをかける。そして程なくして駐車場を後にした。

 車はすいすいと街中を走っていく。車に乗った経験がほとんど無いわたしは、窓の外の景色がすべて新鮮なものに思えた。見上げると首が痛くなりそうなほど背の高いビル、その隙間から顔を見せる青い空、街中を歩く沢山の人々、道を走るカラフルな車たち……。どれも興味をひいて仕方がない。

 そんなわたしを他所に、お兄さんたちはふたりでずっと話をしている。あまりぴんと来ない言葉ばかり使っているところから、きっとわたしには聞かせたくない話なんだろう。もしかしたらお仕事の話なのかもしれない。仕方ないとはいえ、仲間外れにされたようでわたしは少しだけ複雑な気持ちになった。先ほどまで膨らんでいた気持ちが嘘のようにしぼんでいく。

 ぽすりとシートに身を任せるようにもたれかかった。シートから伝わってくる車の振動が心地よくて、とろりと瞼が重くなる。昨日あんまり眠れなかったせいだろう。

 ……少しだけ。
 少しだけなら、眠ってもいいかな。

 そう思いながらそっと瞼を下ろす。ほとんど時間もかからないうちにすとんと眠りに落ちていった。


***


 どれくらい眠っていたのだろう。

 わたしはゆったりと瞼を持ち上げ、口元を抑えて小さくあくびをこぼす。目をこすりながら窓の向こうを見ると、景色は流れを止めていた。どうやら道の隅の方にとまっているらしい。何か用事でもあるのかな。そんなことをぼんやり思っていると、なんの脈絡もなくわたしが座っていない方……とまっている道に近い方の扉が開いた。そんなことを予想していなかったわたしは思わずびくりと肩を震わせて開いた扉の方を見る。

 そこにいたのはひとりの女の人だった。

 背中あたりまで伸びた色の薄い金髪、サングラス越しにもわかる大きな瞳、白い肌に映える艶のある唇、大きく膨らんだ胸元、スカートから伸びるすらりとした長い脚。どこをどう切り取っても美人だ。
 お姉さんは慣れたように車に乗り込み、扉を閉める。するとお兄さんが不機嫌そうに言った。

「俺たちを足代わりとは、いい度胸だなベルモット」
「あら、別にいいじゃない。私はただ使えるものを使ってるだけよ」

 お姉さんは余裕ありげに微笑む。お兄さんは舌打ちを一度しただけでそれ以上何も言わなかった。すらりとした長い足を組むその姿もきれいで、思わずぽーっと見とれてしまう。
 するとお姉さんがこちらにちらりと視線を向け、興味ありげに顔を近づけてきた。サングラスのむこうにある宝石のような青い瞳がきらりときらめく。

「あら、あなたがジンの?」
「え、と……」

 きれいなお姉さんに見つめられ、思わず言葉を詰まらせる。というかジンって誰のことだろう。もしかしてお兄さんのことなのかな。でも違ったらどうしよう……。反応に困ったわたしはただ視線をうろうろさせることしかできない。
 するとお姉さんはわたしの返事を待たずに、もうひとつの問いを投げかけてくる。

「名前は?」
「……メイ、です」

 それなら答えられる。声が小さくなりながらも答えたわたしに、お姉さんはふっと微笑む。

「可愛らしいじゃない」

 そう言ってわたしの頭を撫でた。お姉さんのきれいな手がわたしの頭を丸く撫でて、するりと髪の毛の間を通り抜けていく。可愛らしい、なんて、初めて言われた。店主に「見た目は上玉だ」と言われたことはあったけど、そんな風に褒められた経験はない。しかもこんなきれいなお姉さんに。なんだか胸のあたりがむずむずして落ち着かない気持ちになる。心なしか顔もすごくあつい、ような。そんなわたしを見てお姉さんはますます楽しそうに目を細めた。
 わたしは居ても立っても居られず、ほとんど何も考えずに口を開く。

「あ、あの」
「ん?」

 どうしたの、とお姉さんはわたしの言葉の続きを促す。本当は続く言葉なんて無いのだけれど、わたしはふと頭に思い浮かんだ疑問をこの機会に思い切って尋ねることにした。

「お姉さんは、お兄さんの……と、友達?」

 わたしの問いに、お姉さんは目を丸くする。ほんの数秒動きを止めたかと思うと次の瞬間、あはは!と実に楽しそうに笑い始めた。目尻に涙すら浮かべている。そんなに面白いことを言った覚えのないわたしはぽかんとした顔のままお姉さんのことを見ていた。
 ひとしきり笑ったお姉さんは、目尻に浮かんだ涙をそっと指先で拭いながら答える。

「友達……そうねぇ、友達、なのかしらね?」

 ふふ、と笑みを零しながらお姉さんはまたわたしの頭を撫でた。ちらりと前の鏡を見ると、前に座っているお兄さんはなんだか納得のいっていないような顔をしている。もしや何かまずいことを言ってしまったのだろうか。でもお姉さんは楽しそうだし……。

 ぐるぐると混乱するわたしを他所に、お姉さんは実に楽しそうに微笑んでいた。