「遅い」
ホテルを入ってすぐのところ。お兄さんは思いっきり眉間にしわをよせ、腕を組んだまま不機嫌そうに言った。心なしか背後に黒いもやのようなものが見える気配がする。そのあまりの気迫に、わたしはそっと半歩後ずさった。
そんなわたしに構うことなく、お姉さんは一歩も引くことなく言ってのける。
「あら。約束は守ったんだからいいじゃない」
「……」
お兄さんは何も言わずにお姉さんをじとりと見る。今が何時なのかはわからないけど、お兄さんが何も言わないということはそういうことなんだろう。
「んじゃはい。この子の荷物よ」
お姉さんは気を取り直したようにテキパキとお兄さんに荷物を押し付……渡していく。そのあまりの多さにお兄さんはぼそりと言葉を零した。
「……多いな」
「あら。これでも厳選したほうよ」
お姉さんはなんでも無さそうに言う。あれからもう何件か店を回り、買った物はさらに増えていたのだ。お兄さんは眉間のしわを深めながら、お姉さんから渡される袋を次々と受け取っていく。その顔を見たお姉さんはああ、と思いついたように言った。
「安心して。この子に免じてあなたに代金を請求するのは止めてあげるわ」
「金の心配をしてるんじゃねぇよ」
「あら、違うの?」
クスクスと楽しそうにお姉さんは笑う。お兄さんと話す時のお姉さんはいつも楽しそうだ。するとお姉さんがそういえば、と思い出したかのように言った。
「この子、文字が読めないみたいなのよ」
買い物が終わってからお姉さんとご飯に言った時。書いてあるメニューの名前が読めなくて、お姉さんにそこを指摘されたのだ。気付いた時からあの店に居たわたしは、文字の読み方なんて習っているはずがない。店に居た他の子伝いに聞いたいくつかのひらがな?が辛うじて何とか読める程度だった。
「それくらいは教えておいた方が、これから先楽になるんじゃない?」
「……考えておく」
お姉さんの提案にお兄さんは無表情のままそう言った。お姉さんはにっこり満足げに微笑むとわたしの頭をするりと撫でてこちらに背を向ける。
「また会いましょうね、メイちゃん」
そう言って足音を響かせながら去っていってしまった。……また会いましょう、かあ。その言葉が嬉しくて、なんだか胸がきゅうっとする。ぬいぐるみの入った紙袋を持つ手に自然と力が入るのがわかった。
お姉さんの姿が見えなくなるとお兄さんはぽつりとつぶやく。
「行くぞ」
「はい」
エレベーターを使って上階へ上り、今日眠る部屋に入る。昨日までいた部屋とそこまで変わらないけど、シンプルさはこっちのほうが買っているような気がした。持っていた荷物を部屋に置いたところで、わたしはおそるおそるお兄さんにある申し出をする。
「あ、あの」
「なんだ」
「おふろ……入っても、いいですか……?」
買い物をしながら、お姉さんは店の外を知らないわたしに普通に生きていくための色々なことを教えてくれた。中でも身体を毎日清潔にすることは『ジョシノタシナミ』と言って、必ずやらなくてはいけない事なのだそう。大変なんだなあと思っていたけれど、それもお兄さんのためだと言われてしまえばわたしに断る理由はない。買ってくれたお兄さんのためなら、わたしもきちんとしなければ。
お兄さんは少しだけ間を開けて、「……好きにしろ」とつぶやいた。
お姉さんに買ってもらったものをいくつか手にしてお風呂場に向かう。ドアを開けるとトイレと手を洗うところ、その隣に湯舟とシャワーがつけてあった。そういえば店のお風呂場しか入ったこと無いけど大丈夫かな……。まあ、多分きっとなんとかなるだろう。そう信じるしかない。
服を脱いで置き、カーテンを閉める。まずは水の温度調節をしなくちゃ。どれを捻ったら水が出るんだろう。手当たり次第にあったものを捻ってみると、いきなり頭上のシャワーから冷水が降ってきた。
「わああぁぁあ!?」
あわてて逆に捻ると無事に止まった。わたしはこの足元のところから水を出したかったのに、なんだったんだ今のは……。一瞬にして心臓はバクバクだ。少し落ち着いたところでもう一度挑戦してみることにする。こっち側に捻るとシャワーから水が出るということは、逆にひねれば……。すると思った通りの場所から水が出た。足先を濡らす水は冷たい。温度を変えるにはどうしたらいいんだろう。すぐ傍にあるのは赤と青の間を動くレバーのようなもの。これかな? 青側に近いレバーを赤側に近づける。すると温度が温かくなってきた。成功したようだ。
一通りの操作を覚えたわたしは、お姉さんに買ってもらったシャンプーやボディソープを開封して全身をくまなく洗っていった。この辺りは店でもたまにやっていたから割と平気だ。それにしてもこれ、いい匂いだなあ。泡の匂いをすんすん嗅ぎながらわたしは思う。お店でサンプル?というのを嗅いだ時もいい匂いだと思っていたけど、これが自分の身体からすると思うとちょっと不思議な感じだ。
泡を流して、新しい服に着替える。寝るときに着るように、とお姉さんが買ってくれたのはもこもこの袖の長いシャツと短いズボンだった。初めて触るその素材はとても気持ちが良くて、ずっと撫でていたいと思うものだった。まるで買ってもらったしろくまのぬいぐるみみたいだなあ……。
着替えをきちんと済ませたのと忘れ物が無いかを確かめてからドアを開ける。コートと帽子を脱いだ状態のお兄さんはベッドに腰かけて何やら携帯を操作していた。
「あの……おわり、ました」
「……ああ」
お兄さんはこちらをちらりと見てそれだけ言うと、また携帯に戻ってしまう。多分、お仕事かな。だとしたら邪魔するわけにはいかない。そっと扉を閉めて、近くにあった椅子に腰かける。さて何をしようかと思ったところでわたしは、今日買ったものの整理をすることにした。お兄さんは時々今日のように眠る場所を移動する。そうなったときに今の紙袋のままではなくひとつにまとめていたほうが楽だ……とお姉さんが言っていたのを思い出したのだ。
早速始めてしまおう。わたしはすっくと立ちあがると、買った物がまとめて置いてあるお兄さんの近くの床にぺたりと座り込んだ。買った物を袋から取り出して、同じく買ってもらった鞄の中に入れていく。洋服は洋服同士まとめて。汚れたものは袋に入れて。お風呂で必要なものもひとつの袋にまとめて……。こうして夢中になっているとだんだん楽しくなってくるなあ。
そこでふと、髪に触れられる感触がした。
反射的に振り返ると、いつのまにかお兄さんがすぐ後ろにいる。予想していなかったわたしの心臓が大きく跳ねた。
「ど、どうか、しましたか……?」
「……いや」
さら、とお兄さんのごつごつとした指がわたしの髪を通り抜ける。
「乾いてねえなと思っただけだ」
「なる、ほど」
なんだそんなことか。何を言われるのかと怯えていたわたしは心の中で少し安心しながら実は、と理由を話す。
「わたし、ドライヤー?っていうのが、その、苦手で……」
だんだん声が小さくなる。昔からその大きな音も、吹き出す焼けるような熱い風も嫌だった。そしてなにより、それを使う時の店主の手つきが本当に乱暴で嫌だったんだ。店の仲間たちには子供っぽいとかよくからかわれていたけど、苦手なものは苦手なんだもん。しょうがないじゃないか。
するとわたしの言葉を聞いたお兄さんは少し目を細めて言った。
「我儘言うんじゃねえ」
「あぅ……ご、ごめんなさい……」
わたしは小さく謝る。わがまま、か。やっぱりそういうのはよくないよね。なんとかして直さなきゃ。でもなあ……。そう思っていると不意にお兄さんは言った。
「こっちに来い」
そう言いながらお兄さんは自らの足の間の床を指さした。思わずぱちりとまばたきをする。なんだろうと思いつつも拒否する理由も無いので、すすすと近づいた。お兄さんの足の間の床におそるおそる座る。これでいいのかな、とお兄さんの方を見上げようとした。すると、首にかけていたタオルで頭を包まれたかと思うと、そのままわしわしとかき混ぜられた。
「!?」
わぷ、と変な声が出てしまうが、お兄さんは何も言わずにわたしの髪をタオル越しにかき混ぜ続ける。これはもしかして、拭いてくれてる? のかな。お兄さんが何も言わないから判断できないけど……。
それにしてもなかなかの強さだ。このままだとわたしの頭と首がどうにかなってしまいそう。流石に耐えられないと思ったわたしは恐る恐る申し出ることにした。
「お、にぃ、さ……ちょっ、と、つよ……」
「……」
あまりにも途切れ途切れになってしまったけど、伝わっただろうか。するとお兄さんは少し手の動きを止め、再び動き出した。だがそれはわたしが苦痛に思わないくらいの、少し加減をしたものだった。伝わったらしい。
ある程度拭いたところで不意に手を止め、お兄さんはその場を離れる。終わったのかと思いきや、お風呂場からドライヤーを持ってきた。逃げられないのかあ……。
そんなわたしを他所にお兄さんはコードを刺し、電源を入れる。ものすごい音と共に熱風が吐き出される。それを容赦なくお兄さんは、タオルを取り除いたわたしの頭に当てた。苦手な爆音と熱風に、おもわずぎゅっと身体を小さくする。するとそれを見かねてか、かちりと音がして風の強さと音が一段階小さくなった。あれ?と思っている間にも、お兄さんの手がわたしの頭の撫でるように行ったり来たりする。
先ほどのタオルの時よりも優しい手つきなのは、わたしを気遣っているから……というのは考えすぎかな。
しばらくしてドライヤーの電源が切られる。確かめるようにわたしの髪に何度か触れると、お兄さんは小さくつぶやいた。
「こんなところか」
そう言うとお兄さんはさっさとドライヤーを片付けてしまった。お兄さんがお風呂場に行っている間に自分でも触ってみる。完全に乾いた髪はドライヤーの熱が移ったのか、ほんのりと温かかった。
「ありがとう、ございます」
「……濡れてたら俺が困る。それだけだ」
戻ってきたお兄さんにお礼を言うと、ぶっきらぼうにそう言われてしまった。確かに、髪が濡れてたら一緒に寝るお兄さんが困るもんね。なら明日からはちゃんと乾かさなきゃ。
するとお兄さんはさっさと服を脱ぎ始める。
「先に寝てろ」
「……はい」
毎度思うけど下着だけになる必要あるのかなあ……。
***
電気が消えた暗い室内。
そして背後から聞こえる穏やかな寝息。
「(やっぱり、まだ慣れない……)」
吐き出したため息は、腕の中のしろくまのぬいぐるみの中に埋もれて消えていった。そんなわたしを他所に、お兄さんはすっかり眠ってしまっている。どんだけ眠るのが早いんだ、と正直呆れてしまうほどだ。
もぞりと寝返りを打ってお兄さんの方を見てみる。肌の色はわたしよりも暗い色だが、長いまつげとか、薄い唇とか、すっとした鼻とか、とにかくパーツのひとつひとつが整っているような感じだ。こうみると綺麗な顔をしているなあ、と少し顔が熱くなった。
……それにしても。
「(不思議な色、だなあ)」
カーテンの隙間から差し込む柔らかい光を受けるのは、お兄さんの長い髪。それは真っ黒のわたしとは違う、銀色をしていた。元からこの色なのかな?と思ったけれど、よく見るとまゆも同じように銀色に近い色をしているから、きっとそうなんだろう。
「(……起きませんように)」
そう心で願いながら、そっとお兄さんの髪に触れてみる。さらりとしたそれは、わたしのものより少しだけ細く感じた。つう、と指に通す。引っ掛かることもなく、するりと抜けていった。そっとお兄さんの方を見ると、全く起きる気配はなかった。
夜の闇の中、ひとりでお兄さんの髪に触れる。さらさら、きらきら。生まれて初めて触るお兄さんの髪は、きれいでとてもすてきだと思った。
「(今お兄さんが起きたら、きっと怒られちゃうだろうなあ)」
でも、もう少しだけ……。
心の中でそう思いながら、わたしはしばらくお兄さんの髪を指先でもて遊んでいた。