なんとなくお兄さんとの生活に慣れてきたころ、その人は現れた。
いつものように部屋を出る支度をするお兄さんの様子を見ながら、わたしはぼーっとベッドに腰かけていた。目を擦りながらあくびをこぼしていると、支度を終えたお兄さんが時間を確認する。今日もわたしは部屋でお留守番かな。そう思っていると、コンコン、と部屋の扉がノックされた。
「入れ」
お兄さんが言うと、ガチャリと扉が開く音がする。静かな足音をさせて入ってきた人はわたしの知らない人だった。お兄さんと同じくらいの背丈。金色の髪に青い目。色の濃い肌。服はシャツと黒いベスト、それから黒いズボンを着ている。
わたしが誰だろうと思っている間に、男の人はお兄さんを見るなり不機嫌そうに言った。
「急に呼び出して何のつもりですか、ジン」
その声色が冷たくて、わたしは少し肩をすくませてしまう。顔を隠すように身体を小さくして、思わずぎゅっとぬいぐるみを抱きしめる。男の人はようやくベッドの上のわたしに気付いたようで、ぱちりと目が合った。そして訳がわからないといった表情をする。するとお兄さんは言った。
「俺がいない間、こいつに文字を教えろ」
「……はい?」
男の人は眉間にしわを寄せながら目を丸くした。かくいうわたしもすっかり驚いている。わたしに文字を教える……? 確かに前お姉さんが『文字くらいは読めるようになっておいたほうがいい』とは言っていたけど。でもなんで、この男の人に?
「組織幹部の僕を家庭教師か何かだと勘違いされているなら、いますぐ病院に行くことをおすすめしますよ」
数歩お兄さんに歩み寄りながら、とげのある口調で男の人は言う。だけどお兄さんは特に気にしていないみたいだった。
「お前に拒否権は無ぇ。だが、そうだな……こいつに気に入られれば、今度の任務にテメエを推薦してやってもいい」
「!」
男の人はわかりやすく驚いていた。その様子を見てお兄さんは口の端を上げ、悪い笑みを浮かべる。今度の任務……って何の話だろう。そんなわたしを置いてけぼりにして、ふたりの話は進んでいく。男の人は少しだけ考えるそぶりをすると、やれやれといったようにため息をついた。
「そこまで言われては仕方ありませんね」
「……それでいい」
それだけ言うと、お兄さんはさっさと部屋を出て行ってしまった。バタン、カチャリ。それだけの音を残して。
「やれやれ……本当にいつも強引だな」
ドアの方を見つめながらため息交じりにお兄さんは言う。その声はひどく呆れている感じがした。気持ちを切り替えるようにさて、と言いながらこちらへ向き直る。先ほどまでの不機嫌そうな顔はどこへやら、優しそうな表情をしながら男の人はわたしに尋ねてきた。
「初めまして。僕の名前はバーボン。君の名前は?」
男の人――バーボンさんのあまりに優しい声色に驚きながらも、わたしはぬいぐるみごしに様子を窺いながらおずおずと口を開く。
「……メイ」
「メイちゃんか。可愛い名前だね」
わたしのわずかに震えた声を聞いて、バーボンさんはにっこりと微笑んだ。きらきらと光る、まるで物語に出てくる王子様のような笑顔だ。ベッドに歩み寄りながら、「座ってもいい?」と訊ねられたのでこくこくと頷くと、バーボンさんはありがとうと言ってわたしより少し離れたベッドの淵に腰かけた。
「歳はいくつ?」
「10歳、だと思う。たぶん」
「多分?」
「……昔のこと、あんまり覚えてない」
言葉を迷いながらそう答える。実際わたしは例の店に来る前の記憶がおぼろげで、ほとんど曖昧なことばかりだった。これまでどこで何をしていたかもはっきりとは思い出せない。それに店で伝え聞いていた話も相まって、わたしの持っている知識は随分とかたよったものになっている。わたしの答えを聞いて、バーボンさんは少し困ったような顔をした。
「そっか……ごめんね、悪いこと聞いちゃったね」
「ううん、いいの」
わたしは首を振って答えた。記憶がおぼろげなのはちょっとさみしいけれど、もしかしたらいつか思い出せる日が来るかもしれない。そう思っているのも本当のことだったから。
するとバーボンさんはほっとしたように表情を緩めて次の質問をした。
「メイちゃんはどうしてこんなところにいるんだい?」
「買ったんです。お兄さんが、わたしのことを」
「そうなんだ……」
わたしの返答を聞いたお兄さんは少し考えるような素振りを見せると、こちらの様子をうかがうように尋ねてくる。
「ジンには何もされてない?」
「何も、って?」
「例えば……メイちゃんのことを叩いたりとか、嫌なことを無理矢理やらせたりとか」
バーボンさんのたとえを聞いて、わたしは勢いよく首を横に振った。
「お兄さんは優しい、です。ごはんくれるし、ドライヤーしてくれるし、一緒に眠ってくれるし、それに」
「……一緒に眠る?」
お兄さんのやってくれたことを指折り唱えていると、どういうことだとばかりにバーボンさんは眉間にしわを寄せる。
「メイちゃんとジンが?」
「う、うん。ぎゅってしてくれる」
「ぎゅって?」
「うん。ぎゅって」
「……」
わたしの言葉を聞いたバーボンさんは何か気持ち悪いものを見たような顔をしていた。そんなシュミが、意外すぎる、とかなんとか小さくブツブツつぶやいている。何か変なことを言ってしまったかとわたしが不安になるのを他所に、新たな質問を投げかけた。
「メイちゃんはジンと出会ってどのくらいになるのかな」
「どのくらい……」
あまり意識していなかった私はうーんと考えながら、過ごしてきた夜を数えて指を折る。でも10を超えたあたりで分からなくなってしまった。困ったな。首を傾げていると、バーボンさんが「無理をしなくていいよ、なんとなくでいいから」と言ってくれた。
「10より多い、くらい」
「そっか。じゃあ割と最近だね」
バーボンさんはうんうんと頷きながらわたしの話を聞いてくれた。そこではっとした顔をする。
「ごめんね! ずっと僕ばっかり質問して……メイちゃんは何か聞きたいことあるかい?」
「えっ」
突然の展開に思わず声が出る。なんでもいいよ!と笑って言うバーボンさんに、何か言わなきゃと焦ったわたしは考えるままに口を開いた。
「バーボン、さんも、えっと……お兄さんの、友達?」
わたしの質問にバーボンさんは一瞬目を丸くした後、ふっと息を吐くように柔らかく笑った。
「そうだね……友達、というよりは、仕事仲間かな」
「そう、なんだ」
へええ、なんて気の抜けた声を漏らしながら相槌を打つ。こんなに突飛な質問にもしっかりと答えてくれるなんて、意外と悪い人じゃないのかもしれない。ぼんやりとそう思った。
そこからわたしたちはたくさん話をした。お兄さんの今まで生きてきた話やわたしの昨日見た夢の話まで、色々な話を。夢中になって話していたわたしたちはだんだんと距離が近づき、気がついたらほとんど隣同士になるくらいの距離になっていた。
そこでふと、あることに気づいたわたしはバーボンさんの袖をちょいと引きながら尋ねる。
「あの……文字の勉強は?」
「勉強も大事だけど、まずは仲良くなるのが先かなと思ったんだ。そのほうが、メイちゃんもやりやすいだろう?」
そう言ってゆったりと微笑む。なんて優しい人なんだろうとわたしは素直にそう思った。
「でもそろそろ始めたほうがいいかな」
ちらりと時計を見ながら言う。そうしてわたしたちは文字の勉強を始めることになった。
ちょうどそこにあった紙とペンを利用してわたしは簡単なひらがなを教わる。そしてその合間合間にさっきの話の続きをしていた。バーボンさんの話はどれも面白くてわかりやすくて、ずっと聞いていたくなる感じがして、まるで話の中に出てきた学校の先生みたいだった。それを本人に伝えると、「嬉しいけどなんだか照れるね」と笑っていた。
でも、お兄さんの話になったときにわたしが「お兄さんはいい人だ」と言ったときだけ表情が曇った気がしたのは、一体なんでだろう。
***
時間はあっという間に過ぎていく。
部屋に帰ってきたお兄さんと何やら話をした後に「また来るね」と言って、バーボンさん……もとい先生は出て行った。また来てくれるらしい。その事実が嬉しくて笑みが堪えきれない。ぬいぐるみを撫でながらにまにまと笑みを浮かべるわたしに、服を脱ぎながらお兄さんは言う。
「気に入ったか」
わたしはこくこくと頷いた。
「次はその、いつ会える?」
「……そのうちな」
「!」
また会える。その事実がとてもうれしくて、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。
その日寝るまで、お兄さんはなんだか不機嫌そうだった。