そっと、頬を風が撫ぜる感触がする。
暗いところに沈んでいた意識がゆっくりと浮上する感覚。夢と現実の境が少しずつはっきりしてきて、今まで感じなかった五感が徐々に鮮明になっていく。
「んー……」
もう少し、あと少しだけ眠っていたい。そんなまどろみの中でも意識は覚醒していく。起きるしか、ないのかぁ。観念した俺は仕方なくそっと瞼を持ち上げた。一目散に飛び込んできた陽の光が思いのほか眩しくて、呻きながら目を細める。もぞりと身体を動かし、腹筋を利用して上半身を起こす。さらりとしたシーツの感触が心地いい。くあ、とあくびをすれば目尻に涙がにじんだ。
「あぁ……?」
声が掠れている。なんでこんなとこで寝てんだっけ。前後の記憶が曖昧になっていた俺はぼそりと独りごちる。確か俺は、ええと。
――『よう、15年ぶりだな』
――『お前がどうあがこうが、ここがお前の死に場所なんだよ。門叶ハル』
――『安心しろ、死なせはしない。……右腕は諦めてもらうしかないけど』
――『門叶。あいつは何なんだ? 君と何の関係が……』
――『お前、何者だ』
――『呪霊狩りは呪術師に。悪魔狩りは……デビルハンターに任せな』
……ああ、そっか。
「死んだんだった、俺」
はは、と乾いた笑みが零れる。あーあ、今世も結局長生きできなかったな。
死んだということは、ここはさしずめ天国といったところだろうか。すっかり自分が死んだ事実を受け入れた俺は呑気にそんなことを考える。仕方ないだろ、死ぬのはこれが初めてじゃないんだから。
目も光に慣れてきて瞼を持ち上げることが苦ではなくなり、寝ぼけ眼のピントが定まってきた。それをいいことに、ゆるゆると辺りを見回しながら周囲の様子を確認し始める。統一性がありつつも使用感のある家具。陽の光が透けるカーテン。ハンガーにかかった黒いジャケット。観葉植物。無造作に積まれた本。写真立て。天国にしては妙に生活感がある。病院やホテルなんかじゃない、誰かの私室のようだ。ならば、誰の。
……というか、あれ?
「ここ、って」
そうだ、久しく来ていなかったから……来ることが出来なかったから、忘れていた。
ここは紛れもなく15年前に俺が前世でデンジたちと暮らしていた家。しかも俺の部屋だ。
「なんで俺、こんなところに」
確かにちゃんと死んだんだよな? 俺。いや流石にあれだけ動いて死んでない方がおかしいだろ。現に俺の身体は右腕がくっついているどころか、あれだけあった傷すらひとつもないんだし。着てるのはボロボロになった制服ではなくこれまた見覚えのある懐かしい部屋着だし。でもじゃあ、なんで?
頭が混乱してきたところで不意にガチャリとドアノブが動く音がして、俺は大袈裟なくらい肩を跳ねさせる。まさか俺以外に誰かいるとは思わなかったのだ。こんなところにいるなんて一体誰だ。一気に警戒心を強める俺を他所にドアノブは回り、ゆっくりと扉が開かれる。
「やっと起きたか、寝坊助」
そこに現れた人物を見た瞬間、俺の目が今にも零れ落ちそうなほど見開かれたのが自分でもよくわかった。
「ア、キ」
ちょっと驚いたように目を丸くしたのは正真正銘、俺が一度でいいから会いたいと心の底から願った親友だった。いつもの部屋着に、いつも家で過ごす時の髪型。ご丁寧に両腕までばっちり生えそろって、その身体には傷ひとつない。
……アキが、俺の目の前にいる。
それを認識した瞬間、俺は寝起きにも関わらず布団を跳ね飛ばし、足がもつれて転げそうになりながらベットから降りてアキに駆け寄った。勢いを殺しきれずにそのまま飛びつく。うお!とアキは驚いたような声を出した。ずるりと腰が抜けたように足に力が入らなくなって、俺もアキも一緒に床に崩れ落ちた。どたん!と盛大な音がするが知ったこっちゃない。
「大丈夫か?」
問いかけに答える代わりにぎゅうとアキを力強く抱きしめる。……温い。ここは天国のはずなのに、血が通った生きものの熱がたしかに腕の中にある。胸に耳を当てる。その心臓は確かに動いていて、どくりどくりと規則正しく音を立てながら与えられた仕事を全うするために働いていた。
「……あったかい」
「そうだな」
「アキ、アキだ。ほんものの、本物のアキだ」
どうして心臓が動いているのか、という疑問よりも、親友に会えた喜びの方が俺の中では勝っていたらしい。思わずほろりと涙が零れる。ああ、やっと会えた。あれだけ会いたいと願っていたアキに、やっと。15年頑張ってきてよかったと素直に思った。
ぼろぼろと止めどなく溢れる涙を拭うこともせず、俺はひたすらアキを抱きしめる。対するアキはといえば若干上ずった声で苦言を呈しながら俺の背中をぽすぽすと軽く叩いた。
「ハル、少し離してくれ。流石に苦しい」
「アキだ……ほんものだ……」
「……ったく、仕方ねえな」
はあ、と呆れたようにため息をついて、アキは諦めたように俺の背中を緩くさすりはじめた。先ほどから一向に涙が止まらない。涙腺が馬鹿になったみたいだ。アキの部屋着が汚れるとか、そんなことはすっかり頭から抜けていた。
「あいたかった」
「ああ、俺もだよ」
「アキに、もう一度……一度でいいから会って、謝りたかったんだ」
「謝る?」
何を?とアキは不思議そうに言う。嗚咽の合間に俺は大きく口を開けて息を吸った。情けなく喉が震える。
「……マキマから助けられなくて、ごめんって。おれは、そのために、そのためだけに生まれてきたのに。なのに、助けられなかった」
次々溢れる涙に感化されるように、ぼろぼろと本音も零れ落ちてくる。ぐちゃぐちゃになった感情のせいで、脳みそが麻痺してよくわからなくなっていた。頭が痛い。呼吸が苦しい。視界が涙でよくわからない。思わずぎゅう、と指先に力を込めればアキの着ている服に皺が寄った。
「……お前を死なせたのは、俺だ。おれのせいだ。っぜんぶ、おれの」
「それは違ぇよ」
俺を遮るようにアキが言葉を重ねた。思わずハッとして顔を上げれば、正面からアキと目が合う。眉尻を下げて目を細めながら微笑むその顔は、俺にはさながら慈愛に満ちた聖母のように見えた。大袈裟な比喩表現では決してない。あいつのそんなに優しい表情は、長い付き合いといえど初めてだった。
「俺が死んだのは、お前のせいじゃない」
「っでも、おれが、おれがあの時」
「だぁから違うって」
ゆっくりと、まるで子どもにでも言い聞かせるようにアキが言う。その声色は今まで聞いたことがないくらい、とびきりに優しかった。
「お前が何をしようと、俺は遅かれ早かれ死んでたんだよ。寿命も残り少なかったしな」
「そんなことわかってんだよ! でも! ……でも、だとしても、おれは、……アキを、たすけたかったんだ」
最後の方はほとんど聞き取れないほどか細いものだった。けどきっと、この距離のあいつには聞こえているはずだ。俯きながら、アキの胸元にぽすりと頭を預ける。
初めは本当に些細な、軽い気持ちだった。知ってる漫画の世界に転生して、知っているキャラと顔なじみになったから死亡フラグを回避させたかった。原作の知識があるなら出来るんじゃないかって、ただそれだけ。
でも、実際に一緒に過ごしてみて、アキに対する感情が確実に変わったんだ。ただの漫画に出てくるキャラクターではなくひとりの人間として、親友として、俺の中のお前はかけがえのない存在になっていった。原作だけではわからないお前の素顔に触れて、本当に助けたいって気持ちが強くなった。後半は目標どころか、ほとんど俺の生きる目的みたいになってたんだぜ。
悪魔に取られた寿命がどうにもならないのならせめて、穏やかな最期を。たとえそれで俺がどうなったっていい。なんとしてでも、悲惨な結末を変えてやる。
……そう思って俺は、おれは。
「ありがとな」
泣きじゃくる俺をなだめながらアキが言う。見慣れた手がそっと背中を優しく撫でる。
「こんなに大切に思ってくれる親友を持てて、俺は幸せだよ」
窓から吹き込んできた風がふわりとカーテンを膨らませる。時計の音とアキの心臓の音が一定のリズムを規則正しく刻んでいる。それを聞いていると、なんだか不思議と少しずつ昂っていた感情がなだらかになっていくのが自分でもわかった。
「確かに俺は死んだよ。未来の悪魔が言った通り、本当に悲惨で酷い死に方をした」
でもな、とアキは言葉を切った。ぎゅっと俺を抱きしめる腕を強める。
「俺は俺の人生に関して、思い残すことは何も無いんだ。結局復讐も成し遂げられなかったし短い人生だったけど、ちゃんと戦って生き抜いた。お前はきっと否定するだろうが……俺は『あれが俺の人生だった』って、胸を張って言えるんだ」
アキの言葉がじんわりと俺の中に染み渡るような感覚になる。だんだんといつもの落ち着きを取り戻し始めた俺を様子を見ながら、それになと続けて言った。
「お前が俺を助けようとしてくれてた。どんな
未来になったとしても、その気持ちだけはゆるがない事実だろ? ……俺はそれだけで十分だ」
ぽす、と俺の頭にアキの手が置かれる。続いて一定の速さでその手を動かし始めた。まるで兄が弟を慰めるような、優しさに満ちた手つきだった。
「だからもう、いいんだよ」
ほら深呼吸してみろと促されるままに、俺はゆっくり呼吸を繰り返す。吸って、吐いて。もう一度。
あれだけ溢れていた涙がようやく止まり、呼吸が落ち着いたのを見計らってか、アキがこちらの顔を覗き込みながら訊ねる。
「落ち着いたか?」
「……ん」
ひっでえ顔だな、とアキがくしゃりと笑う。
「ならリビングに行こう。ハルに話したいことがあるんだ」
……俺とお前の、未来について。
***
アキに連れられるままに部屋を後にして廊下を進み、リビングに辿り着いた。泣きすぎて正直視界がぼんやりしているがここも正真正銘、早川家のリビングである。家具や小物の配置、デンジとパワーが暴れてつけた壁の傷など細かいところまで記憶と合致していて、俺はまたもや懐かしい気持ちになった。しきりに部屋を見回す俺を他所にアキが言う。
「すげえよな、マジであの部屋まんまだろ」
「……アキ、ここがどこだか知ってんのか?」
「知ってるっつーか、教えられたっつーか……まあいいや。その話もしたいからちょっと手伝ってくれ」
そう言いながらアキは台所に足を向ける。俺はぺたぺたと間抜けな足音をさせながら、言われたとおりにその後に続いた。台所では蓋のされた両手鍋と炊飯器が仕事の真っ最中である。この匂いからするに、メニューはおそらく。
「カレーか?」
「正解。ちょうどさっき出来たとこだったんだ」
アキが鍋の蓋をとると、ぶわりと水蒸気が膨らむように飛び出す。それと共に香辛料の独特な香りが鼻をついた。具材は大きめに切られており、中の色は若干黄みが強い。アキが作るカレーだ。懐かしさに襲われるのと同時にきゅうとお腹が寂しそうに鳴き、口の中にじゅるりとよだれが溢れる。寝てる間に腹が減っていたみたいだ。……あれ? というか。
「変だな。死んでんのに腹減るとか」
「そりゃそうだろ。死んでないんだからな、俺もお前も」
「……ん?」
お玉で鍋の底をかき混ぜながら、なんともなさそうにアキは言う。だが俺は内心混乱状態だった。
死んでない? 俺も……アキも? いやいやいや。
「死んでないってお前……死んだだろ、どう考えても。だって俺はこの手で銃の魔人を――」
そこまで言いかけてハッとする。そういえばこいつ、俺が呪術の世界に転生したことを知ってるのか? ……いや、知らないはずだ。知っているわけがない。ならあの出来事について……銃の魔人と一騎打ちしたことについて言われても困るだけだろう。ここは前世の、デンジと一緒に戦った時のことだって誤魔化そうか。うん、それがいい。方針を自分の中で決めたところでアキは「ああ、」と軽い調子で。
「殺されたな、確かに」
「!」
「にしても炎の刃とは考えたな。一か八かのとっておきというだけある。熱かったぜ、かなり」
流石に今の返答には息を呑まざるを得なかった。
呆然と立ち尽くす俺を他所に、アキは何でもなさそうに炊飯器の蓋を開ける。一粒一粒が艶やかに輝く白米がぎっしり詰まった光景は誰もがため息をつくほど美しい。こんな状況でなければ、俺も確実にため息をついていたはずだ。
……まさか、そんな。
「あれ、お前だったのか……?」
信じられない気持ちで尋ねる。若干声が震えていたのが自分でもよく分かった。頼むから違うと否定してほしい。あれは……あの時の銃の魔人は、アキではなかったと断言してほしい。そうでないと、俺は。
縋るような思いで返答を待っていると、アキはそっけなく言う。
「そうだよ」
その瞬間、時が止まったかと思った。夢ならばどんなによかったか。アキの言い間違いならどんなによかったか。だけどいくら待ってもアキは言い間違えだと発した言葉を訂正しようとしない。それによって、これはどうしようもない現実であることが思い知らされる。
目を見開いて言葉を失う俺に対し、しゃもじで軽く米をかき混ぜながらアキは続けた。
「俺もあの世界に転生してたんだよ。人間としてじゃなく、銃の魔人としてな」
「――ッ!!」
ぎゅっと思わず手を握りしめる。手のひらに爪が食い込む痛みに構っていられなかった。呼吸が浅くなる。喉から口のあたりが嫌に乾いていて、なんとか生唾を飲み込むが大して変わりはしなかった。アキは炊飯器をかき混ぜるのをやめて呑気に皿に米を盛り付けている。俺の気持ちも知らないで。
……じゃあ、やっぱり。
「俺、……アキを、この手で、殺して……」
「だから違うって言ってんだろ。俺たちは死んでない」
何度言えばわかるんだとばかりにアキはびし、と米粒のついたしゃもじをこちらに向ける。俺の目の前すれすれに突き付けられたしゃもじに驚いていると、アキは大袈裟なほどため息をついた。その眉間にはばっちり皺が寄っていてうんざりしているのが一目で分かった。
しゃもじを俺から離しながら、アキは落ち着いた声で言う。
「俺たちはひとつになっただけなんだ」
「ひ、ひとつになった?」
「ああそうだ。この辺のことは俺も
アイツから聞いただけだから正直よくわかってはいないんだが……」
しゃもじを炊飯器横に立てかけて、蓋を閉める。続いてカレーの鍋にあるお玉を手に取った。流れるように一杯分掬うと、とろりと白米の乗った皿の上に流し入れた。
「ひとまず食おうぜ。話は食いながらでもできるだろ」
ん、と突き出されるままに俺は皿を受け取る。先に座っとけと言われてしまったので俺は渋々台所を離れた。歩いて数歩の距離にあるちゃぶ台の、いつも俺が座っていた場所に皿を置いた。食器棚からアキの分のスプーンを持って戻ると、丁度アキもやってくる。いつもの場所……俺の向かい側に皿を置いて座った。ついでに冷蔵庫から水も持ってきてくれたようで、2リットルのペットボトルと共にふたりぶんのコップがテーブルに置かれていた。スプーンを渡してやれば素直に受け取ってくれる。俺が座ると「さて」と仕切り直したように言った。
「聞きたいことは山ほどあるだろうから、好きに聞いていいぜ。俺の知ってる範囲で、答えてやる」
後半を少し強調するようにしてアキは言い、スプーンを手に取った。確かに、目が覚めてから聞きたいことは増える一方である。一体何から訊こうかと一瞬迷ったが、まずはアキが答えやすそうなものから尋ねることにした。スプーンを持ちながら俺は問いかける。
「……お前は、いつからここに?」
「ちょうど2週間くらい前だな。俺たちがやり合った日に、気づいたらここに居たんだ」
2週間前……しかもその日が俺たちが戦った日だっていうのなら今は8月の14日とかそのあたりだろうか。まあここでの時間と現実の時間が同じだとは限らないけど。
「因みにお前はずっと寝てたよ。2週間」
「いや起こせよ」
「起こそうとしたけど起きなかったんだよ。別に無理に起こす必要もねえかって思って、自然に目を覚ますのを待ってたんだ」
なんて言いながらカレーを頬張るアキ。俺もつられるようにスプーンを口に運んだ。うん、美味い。すごく懐かしい、いつもの味だ。正直この時点でちょっと涙腺が緩んでいたが、ぐっと堪えて次の質問に移る。
「ここは一体どこなんだ? 天国……にしては見覚えがありすぎてありがたみも何もねえんだけど」
むぐむぐと口を動かしながらアキは言った。
「生得領域って知ってるか」
「一応高専で習ったから知ってるけど」
確か呪力で作られた空間で、階級の高い呪霊なんかがたまに使うらしい。術師の最終奥義的な位置づけの領域展開もこれと似たような原理で、術者の心象を表すこともある……とかなんとか。正直割とあやふやだったりするけど、多分そんな感じの認識で合ってると思う……多分。
俺がそう答えると、アキはこちらを見ながら言った。
「それがここだ」
「……は?」
いったい何を言ってるんだと混乱する俺に、アキは続けて言う。
「ここは、俺とお前の生得領域なんだよ」
五体満足な転生者お兄さん(冷静じゃない)
→死んだと思ったらよくわからない場所にいるわ前世の親友と再会するわで冷静になれるわけがないよね。お兄さんのメンタルはぐちゃぐちゃ。更なる新事実は次回も続くからどうか気を確かに持ってほしい。頑張れお兄さん。
五体満足なお兄さんの親友(冷静)
→めちゃめちゃ落ち着いてるしなんなら相手を落ち着かせて癒すほどの聖母オーラをまとっている。強い。何やらまだお兄さんに伝えていないことがある様子だが、それはまた次回。因みにカレーの詳細に関しては完全にねつ造です。アキくんの得意料理が知りたい。