みるみるうちに彼の整った眉間にしわが寄る。
「……そういえば荷物がほとんど無かったんだった」
小さく独り言を呟いた後少しだけ考えるような顔をして、ぐっと目を閉じた。怒られるだろうかと身構えるように身を小さくする。
だが彼は私の予想に反して、くるりと私に背を向けた。すたすたとどこか別の部屋に消えたかと思うと数分もしないうちにまた戻って来る。手には男性用だと思われる未開封の色の薄いスウェット。それとこれまた未開封の男性用下着。
「あなたの着ていた服は今洗濯中です。あと30分もすれば済みますから。……本当は今すぐちゃんとした女性ものの服を買ってきたいところですけど、この時間ならもう店もほとんど閉まってますし、何よりあなたをこのまま放置していくわけにもいかない。嫌でしょうけど、未開封の僕の物でちょっとの間だけ我慢してください。無いよりは幾分かマシでしょうから」
そう言って彼は私に服を手渡した。その表情はどこか申し訳なさそうというか、おそるおそる、渋々、といった感じに見える。本当に止む負えなかったのだろう。私は小さく頷いて、手渡された服を着るために脱衣所に戻る。
とりあえず巻いていたタオルの上からスウェットをかぶり、中で器用にタオルを外す。ジャケットを借りた時から思っていたが、彼の服は私にとってかなりオーバーサイズだ。これだって、上を着ただけで太ももの半分を覆う長さである。これは下をつけても何処にも引っかからず落ちてしまいそうだ。
一先ずスウェットの下を身に着ける前に、未開封だと凄く念を押された彼のシンプルな下着を拝借し、身に着けるのを試みる。正直それもぶかぶかだ。でも下に何もつけずに彼の部屋をうろうろするのも悪いだろう。こう……頑張れば、なんとかいける。スウェットの下は案の定無理だったので早々に諦めたが。別に見えないからよし。
「バーボン」
「ああ、どうです。着れまし――」
脱衣所から出てリビングに移動すると、先ほどと変わらずそこにいた彼は私の姿を見た途端固まってしまった。
不自然に目を見開き、言葉の途中だったためか口をぽかんと開けたまま。
「バーボン?」
「――! いえ!! あの! なんでもないです! はい! すみません!!」
心配して私がもう一度声を掛けたところ、彼はわたわたと慌てたような様子で私に謝り始めた。肌の色味がみるみるうちに耳のあたりまで濃く変わっていく。どうしたんだ急に。君の名前を呼んだだけだぞ。
彼はしばらくわたわたすると今度は急にげほげほとせき込み始め、呼吸を整えるのに少しの時間を要した。せわしない。
「そういえばあなた、明日の予定は?」
「夜から仕事」
「じゃあ昼に色々買いに行きましょう」
「バーボンの仕事は」
「仕事があったんですが、先ほど、偶然、休みになりまして。ちょうど暇なんですよね」
「えっと、お金……」
「それくらい出しますよ。本当はあなたの家に行って取ってくるのがいいのかもしれませんが、折角ですし」
折角ってなんだろう。私にしか使いどころがないくらい金が有り余ってるのかな。人に好かれそうな見た目してるのに、意外。
そんなことをうだうだ考えていると、彼は前触れもなく私の髪に触れた。
「うわ、やっぱりまだちゃんと乾いてないじゃないですか。ちょっと、タオル貸して」
私の首にかかっていたタオルをひっつかむと彼は私をソファに座らせた。彼はというと、私が座るソファの背もたれの後ろに回り込み、後ろからタオルで私の頭を包む。そのまま優しく私の髪を拭き始めた。
「ある程度拭いてからドライヤーで乾かすと傷みにくくなりますから」
そう言いながら私の髪を拭く。大半の行為はわさわさとせわしないものであるが、時折挟まれる地肌を揉むように拭く行為がまるでマッサージでも受けている気分だ。マッサージなんて受けたこと無いけど。強すぎず弱すぎず、力加減も絶妙である。
されるがままソファに身体を預けて大人しくしていれば、なんだか頭がふわふわしてくる。今まで味わったことが無い感覚だ。自然と瞼が落ちる。
彼の大きな手が、タオル越しに私の頭をかき混ぜていく。パパともウォッカお兄ちゃんとも違う、男の人の大きな手。ごつごつと節榑立った、私なんかの細っこい手と比べ物にならないような、しなやかで美しい手。
段々意識がまどろみ始めた時に彼はそっと「眠っても構いませんよ」といった。その声の優しいこと優しいこと。
ああ、やはり彼は世話焼きだ。
彼には、兄になってもらおうと思ってたのに、これは、まるで――
「ママ」
「ママ? 僕のことですか?」
彼の言葉を聞いて急激に脳が覚醒する。しまった口に出ていた。これじゃあパパの時と同じじゃないか。
思わずソファから身を起こし、彼の方を見れば怒っている様子はない。少しだけ驚いたようにきょとんとした顔をした後、優しく目じりを下げて口元を緩ませた。
「ちょっとからかうつもりだったんですけど……本当に僕に向かって言ったんです? ママって」
「え、と」
彼の蒼い瞳が私を急かす。返答によっては彼の気を悪くしてしまうかもしれないと言葉に詰まる私を見て、彼は慌てたように言葉を付け足した。
「ああ、別に怒ったりしませんよ。……でもそうですね、一緒に暮らしてる間くらいは甘えてください。母親のように、とまで出来るかわかりませんけど」
そういうと彼は私の頭に触れた。タオル越しでなく、直接彼の手を髪で感じる。そのまま髪と髪の間に指を滑り込ませ、するりと毛先まで櫛のように指を動かす。だいぶ乾いてきましたね、と満足そうに呟いた。
その瞬間。ほろりと、頭の片隅に追いやられたせいですっかり固まって、原型をとどめていなかった記憶のかけらが、その姿を現した。
――誰かの顔だ。
優しそうに笑う、バーボンそっくりの少年の顔。
細められた目は紛れもない、強く輝く蒼である。
今のは、まさか――
「色?」
彼に呼びかけられてはっと意識が引き戻された。いつの間にか止めいていた息を吐き出す。彼は少し心配そうに、こちらの様子を窺うように覗き込んでいた。小さく首まで傾げて。
「どうかしましたか」
「……なんでも、ない」
わずかに上ずった声。それを聞いて彼は別段何とも思うことはなかったようで、そうですかとだけ言って軽く流した。それから彼は「ドライヤー取ってきますから待っててください」と言って、私の傍から一時的に離れた。そのわずかな時間、私は思考の海に沈む。
――あの少年の顔を見た時、懐かしい感覚に陥った。でも、どこで会ったんだ? 全く記憶が無い。それにあの顔は彼を幼くした姿にそっくりだ。彼と私は数か月前に会った時が初対面であるはずである。でも、あんなに似ている人間が他人だとは、私には思えない。……もしかして知らない間に会っていたのか? いつ? どこで?
「君は……?」
何か大切なことを、忘れている気がする。