12 しんごうが見えないの

「寝ないのか?」

 なるべく刺激しないように、優しい声色を意識して話しかけたが相手は相当驚いたようだ。びくりと肩を震わせ、なんでいるんだとでも言いたげな目でこちらを見上げる色。……随分嫌われているみたいだ。

「俺も、ちょっと寝れなくてさ。隣座っていい?」

 なるべく目線を合わせるようにしゃがめば、色はこくりと頷いた。てっきり断られるかと思っていたためちょっと驚いたが、ありがとうと小さく礼を言って色の隣にぺたりと座り込む。
 ふたりで見上げた月は満月に近かったがちょっとだけ欠けている。綺麗なことに変わりはないから別にかまわないけれど。

「昼間は、その……悪かった。まさか泣くとは、思わなくて」

 月を見上げたまま、ずっと言おうと思って言えなかったことを告げる。様子を窺うためにちらりと色の方へ視線を向けると、彼女はふるふると首を横に振った。

「え、と。あの時の俺怖かったか?」

 ふるふる。

「それなら、急に話しかけられてびっくりしたとか?」

 ふるふる。

「ええ……、じゃあ何で俺を見て泣いたんだ?」

 降参だとでも言いたげに両手を上げて、素直に色に尋ねる。だが色は途端に顔を背けて黙り込んでしまった。困ったように視線をうろうろさせながら、落ち着かない様子で手をそろそろと握りこみながら。

「あー……言いたくないなら、それでも」
「わたし」

 俺が最後まで言い切る前に色はほろりと言葉を漏らした。
 初めて聞いた色の声は、晴れやかな夜空に流れ星がひとつ零れたような透明感を持っている。これぐらいの小さな子には珍しい落ち着いた声色だ。俺は口をつぐみ、色の言葉の続きを待つ。

「しんごうが見えないの」

 だが聞こえてきたのは予想外の言葉だった。
 信号が見えない? それが俺を見て泣いたのとどう関係が? 

 混乱する俺を他所に、色は言葉を続ける。

「あかとか、あおとか、きいろとかが、わからないの」

 その言葉を聞いたとたん、俺の頭にある一つの考えが浮かぶ。いや、まさか、でも。それって。

「つまり……色が見えないってことか?」

 単刀直入に切り出した俺の言葉に、色はこちらと目を合わせないままゆっくり頷いた。
 少女の小さな告白が俺の頭の中をぐるぐると回る。色が無い世界で生きるとはどういう感覚だろうか。当たり前に見えるはずの空も、花も、人も、全てがモノクロに映る世界なんて、俺には全く想像できなかった。

「でもね」

 色はそういうと、俺を真っすぐに見つめた。
 黒い瞳に映るのは、突然告げられた事実に驚いて情けない顔をした俺の姿。月の光を孕んでつるりと輝くガラス玉のようなその美しい両目から、俺は目を逸らすことが出来なかった。

「きみの目だけは、見えるの」

 色の言った言葉の意味を、初めは飲み込めずにいた。
 きみの、目だけは、見えるの。
 何度か脳内で反芻して、数秒遅れでその言葉を理解した。

 ――俺の目だけは見える?

「はじめて見たの。きれいな、きれいな、あおい目」

 ようやく理解して言葉を出そうとした瞬間、色はうっとりと、目を細めてそんなことを言った。

「それが、うれしくて、……」

 色は目を伏せる。最後の方はほぼ聞き取れないくらいのか細い声だった。伏せられた目は水の膜を張っていて、ゆらゆら光を反射する。

 金色の髪に褐色の肌、それから青い瞳。俺の容姿は純日本人と比べてあまりにも違っていて、よくいじめの口実になった。俺自身別にこの容姿が嫌なわけではないが、俺の容姿がみんなと同じだったのならこんな風に惨めな思いをしなくて済んだのではないかと思ったことは数多い。

 それなのに、この子はそんな俺の目が、綺麗だと。
 そんなことを言われたのは、生まれてこの方一度も無かったのに。

「!」

 気づけば俺は、色の頬に右手で触れていた。少女は初めて会った時と同じくらい目を見開いて、ぱっと顔を上げる。

「あー……、えっと、その」

 俺は思わずぱっと目を逸らして同時に手も放した。どうしたんだ、急に。なんだか顔が熱い、ような。

 ひとり混乱する俺を不思議そうに色が見るもんだから、心臓がどくりと飛び跳ねた。本当にどうしたんだ俺。これ以上黙っているのも変だろうと、しどろもどろになりながらもなんとか頭に浮かぶ文章を形にする。

「俺が! お前の見える色を一緒に探してやる」
「……きみが?」
「そ、そうだ。世界は広いんだ。見える色が俺の目の色以外にもきっと……いや、絶対!あるはずだ! だから……」

 我ながら何を言ってるんだろうと思う。でも、本当に必死だったのだ。顔は熱いし、心臓は壊れたんじゃないかって速さで鼓動を刻むし、声は意味もなく震えるし。頭の中はぐちゃぐちゃで、とにかくもう……いっぱいいっぱいだったのである。
 頭に浮かぶ精いっぱいの言葉を、ありったけ色にぶつけることしか出来なかった。

「だから、その……泣くな」

 いつの間にか溢れていた色の涙を拭ってやる。彼女自身それに気づいていなかったようで、拭った俺の指の感覚で自覚したようだ。色は俺を見つめたまま、ふにゃりとふやけるように笑う。涙をほろりと零しながら、安心しきったように。

「ありがとう、れいくん」


***


 ――ピピピ、と連続した電子音が耳に飛び込んでくる。

 手探りで音の発信元である携帯を手に取り、時計を見る。午前8時。起きる時間か。
 いちにのさんでゆっくりと上半身を起こし、うんと伸びをする。ずるりとかけていたタオルケットが床に落ちた。徐々に覚醒する脳。
 今日の俺は安室透。それからバーボン。
 ふあ、欠伸を一つしてベッド替わりにしていたソファから離れた。

 洗面所に向かい、顔を洗って寝癖を整え髭を剃る。一通り済ませると俺は真っすぐキッチンへ向かった。炊飯器はあと数分で炊き上がる。その間に色々作ってしまうか。

 ボウルに卵を2個割り入れかき混ぜる。ある程度混ざったところで塩を少し。それとマヨネーズとチーズも少しずつ。フライパンに油をひいて、溶き卵を流し入れる。じゅわわといい音がして、ふんわりと卵の焼けるいい匂いが部屋に広がってゆく。菜箸でうまく調節しながらフライパンを傾けたりしながら焼けば、半熟スクランブルエッグの完成だ。2人分の皿に乗せて、フライパンとボウルを素早く洗う。

「あの日のことを夢に見るなんて」

 ぱちぱちとベーコンの油が跳ねる音を聞きながら、俺は今朝の夢を思い出す。忘れることが出来ない"あの子"との出会いだが、もう20年も昔の話だ。それこそ昔なら何度か見たことがあったが最近は滅多に無かったのである。それがなぜ今になって。

「……色のせいだろな」

 色。潜入した組織の幹部たちに"人形"と呼ばれ、重宝されている少女。幹部の一人であるジンの実の娘でもある。
 そんな少女が"あの子"と瓜二つだなんて。どんな偶然だ。
 しかも色々あって昨日の夜からひとつ屋根の下一緒に住んでいる。どんな展開だ。

 ある程度ベーコンも焼けたので火を止めて皿に乗せる。そこでちょうど炊飯器が炊き上がりのメロディを奏でた。そろそろ色を起こしに行くか。