19 犬か猫みたいなこと言いますね

 どうやら俺は自宅に帰ってきたようだ。

 どうやら、と言ったのは結局あれからどうやって帰ってきたのか記憶がないためである。気が付いた時には自宅マンションの入り口に立っていたので、"無意識のうちに帰ってきたんだろう"と判断したのだ。

 因みに左手にはスーパーの袋を持っている。無意識な状態で買い物まで済ませてしまったらしい。己の器用さには驚かされてばかりだ。一応中身を確認してみると、ジャガイモが5袋と育ちの悪い長ネギが1本、それから洗濯用洗剤(詰め替え用)が入っていた。……訂正する。思った以上に動揺は深刻なようだ。帰宅途中に交通事故を起こさなかったのが不幸中の幸いなほど。

 自動ドアをくぐり、エレベーターに乗り込んで自身の階数のボタンを押す。
 重力を感じる密室の中、俺はベルモットの去り際の言葉を思い出していた。彼女にしては珍しい優しく素直な笑みが、俺の脳裏に焼き付いて離れない。

 あの時彼女は確かに"妹"と言った。それは間違いない。だがあれは一体誰に向けて言った言葉なんだろうか。文面や状況から判断するならば、一緒に暮らしている少女のことであるが……正直信じられない。
 だって、そんな、色がベルモットの妹? それを言ったら、ベルモットはジンの娘ということに……いや、ありえない。そんなこと、あり得るはずがない。流石に何かの間違いだ。

 「ありえない、なんてことはありえない」という言葉を裏社会で聞いたことがあるが、どう考えてもありえないものは確かに存在するだろう。裏社会に期待しすぎるのはいけない。……裏社会に期待するってなんだ。なんだか頭が混乱してきた。

 眉間に寄っていたしわを揉みほぐしていると、チン、と軽い音がしてエレベーターが目的の階へ到着したことを知る。そのまま真っすぐ自分の部屋の扉へ向かう。鞄から鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで解錠しようとしたところで、がちゃりと内側から鍵が回される感触がした。そのまま内側からドアが開かれる。

「おかえり、ママ」

 ひょっこりと顔をのぞかせた色。背が俺よりも頭ひとつ以上低いため、否が応でも上目づかいで見上げるような構図になる。……それが特別どうだということも無いが。

「ええ、ただいま色……よくわかりましたね、帰ってきたのが僕だって」
「足音」
「犬か猫みたいなこと言いますね」

 これ冷蔵庫にいれてくださいとレジ袋を差し出せば、色は軽く頷いて受け取り、廊下の奥を曲がってすぐのキッチンに消えた。俺も後に続くように靴を脱いで廊下を進み、リビングのソファに鞄を放るように置く。ふと色の方を見て、今彼女が着ているのがこの間購入したルームウェアだということに気付いた。

「仕事は早く終わったようですね」
「簡単だったから」

 言われたとおりにやるだけ。淡々と言い放ち、バタンと冷蔵庫を閉める。

「あ、冷蔵庫に入ってる水取ってもらえませんか」
「わかった」

 素直に返事をして、冷蔵庫から500ミリのペットボトルを取り出して俺に渡した。その様子を見て、何故か先ほどの妖艶な女の顔が過る。

「色」
「なに」

 ソファに向かおうとした色がこちらに振り返る。その瞳は相変わらずぼんやりとした黒を宿しているのみだ。俺は意を決して、口を開く。

「あなた、兄弟はいるんですか」

 俺の言葉を聞いて色はぱちりとまばたきをすると、きょうだい、と声にならないくらい小さく呟いた。

「お姉ちゃんやお兄ちゃん、弟や妹のことですよ」

 反応が薄かったので一応付け加えておく。すると、少し納得したような顔をして色は口を開いた。

「いるよ」
「……それは兄ですか、姉ですか。それとも弟? 妹?」
「お兄ちゃんもお姉ちゃんも、弟も妹も、いる」
「そんなに兄弟が」

 その返答には少し驚いた。まさかそんなにいたなんて思わなかったし、なによりそんな素振りを今まで見せたことが無かったから。軽く首をかしげて、聞きたいのはそれだけかとでも言いたげに色がこちらの様子を伺っている。

「聞いてもいいですか、あなたの兄弟のこと」

 それが本題だった。もし聞き出すことが出来れば、新たな情報の糸口に繋がると考えたのである。俺は色から目を逸らさずに言った。ぼんやりした黒い瞳に俺の姿が映り込むのがわかる。

 だが対する色は、そっと俺から目を逸らして視線を伏せた。

「……ごめん」

 色の顔に薄く影が落ちた。視線は交わらない。

「パパが、誰にも言うな、って」

 消えそうな声で続ける。遂に顔もすっかり俯いてしまった。その表情を見ていると、なんだか幼い頃の"あの子"の姿が過る。それ以上、少女のそんな顔を見ていたくなくて、俺は気にしてない風を装い、優しく笑いながら色の頭を撫でた。

「いえ、いいんです。僕の単純な興味でしたから」

 すみません急に困らせるような質問をしてしまって。色は何も言わず、ただ黙って俺の手を受け入れていた。
 頭を撫でながら俺は静かに思考を巡らせる。

 車内での俺は随分と浮かれていた。母親と呼ばれていたから、てっきりもう少女の信頼は得られているものと思っていたのだ。もう家族同然の信頼を寄せられているのだと、すっかり安心しきっていたのである。だが実際は、家族と呼ぶには程遠い。

 それもそうだ。俺たちはまだ出会って半年も経っていない。一緒に住むようになるまでお互いのことはせいぜい名前程度しか知らなかったのだ。それがこの数週間、仕事以外のほとんど時間を共有する勢いで少女と過ごしていたためうっかり失念していたのである。少女の中ではまだ、俺以上にジンへの信頼の方が高いようだ。血の繋がる実の父親なのだから、当然と言えば当然であるが。

 大丈夫、ジンが帰国するまでまだ余裕はあるはずだ。それまでに彼以上に少女からの信頼を得られるようになればいい。ただそれだけだ。脳内会議を終え、俺は少しかがんで色と目を合わせる。

「夕飯の支度をしますから手伝ってください」

 そう言った俺の言葉に、色は感情の読めない表情で曖昧に頷いた。