21 落としましたよ、これ

 顔を洗ってからリビングに行くと、テーブルの上にトレイと数枚のメモ用紙が置いてあった。これは昨晩にはなかったものだ。多分ママは一度帰宅したが、すぐまた出て行ってしまったんだろう。たまにあることだからすっかり慣れてしまったが、本当に多忙なようだ。

 1枚目の紙はママからの書き置きだった。『朝食を作っておきました。夜には帰りますから、昼は何か買って食べてください。それと、僕が帰ってくるまでに買い物をお願いします。リストは財布の下に。机の上のスマートフォンはあなたのものなので、出かける時は必ず持っていくこと。あと、戸締りはしっかりしてくださいね。』そんなことが書いてある。

 2枚目には買い物リストらしきものが書かれていた。重しにでもするかのように置かれていたのは、これまたすっかり見慣れた黒い財布。ママがよく使っているものだ。中を見るとちゃんとお金が入っている。これで買えということなんだろう。多分。

 それからスマートフォンも発見した。これは私が以前使っていたのと全く同じものだ。この間「壊した」と言ったからわざわざ買ってきてくれたんだろうか。書き置きの通りならばこれは私のものということである。ありがたく使わせてもらおう。

 それにしても、26歳にもなってはじめてのおつかいとは……。
 まあ、今日の私は忙しいママと違ってすることも特に無かったから構わないのだけれど。

 ふと壁にかかった時計を見ると、短針は11を指そうとしていた。随分長い間眠っていたらしい。ママが用意してくれたこの朝食は無事ブランチになりそうだ。


***


 目の渇きを覚えて強めに瞼を閉じる。そのまま瞼の内側で眼球をぐりぐり回すようにして目の周りの筋肉をほぐすと、ふうと息を吐きながら目を開いた。まだ若干目の渇きは取れない。潔く、眼精疲労にてきめんに効く愛用の目薬をさした。
 ちらりとデスクトップの時計を見れば、丁度12時を回ったところ。もうこんな時間か。うんと伸びをして首を回す。ごきごきと関節が鳴る鈍い音がした。

 1週間ぶりに自分の本来の職場に顔を出したのはいいが、いかんせん溜まっていた仕事が多すぎてついつい時間を忘れてしまう。効率的な仕事には適度な休息が必要だと頭では十分理解しているのだが、つい。
 すっかり冷めてしまったコーヒーを口にして、思い出したかのようにディスプレイ上にもう一つのウィンドウを立ち上げた。

 その縦長の窓は紛れもなく、色のスマートフォンの画面である。

 色のスマートフォンを契約したその日のうちにハッキングしておいたのだ。勿論、GPSも忘れずにばっちりである。

「何かあってからでは遅いからな……」

 誰に言うでもなくひとり呟く。
 一緒に暮らすようになって色々と俺が生活に関することを教え込んだおかげか、最近は少しずつひとりでできることも増えてきた。だが完全に一人で行動させることに関してはまだ不安が拭いきれずにいる。仕事関連ならば特に心配はないが、俺が気にかけているのは生活面だった。ひとりでちゃんとできるだろうかとか、そんなことばかり考えてはハラハラしてしまう。出来る事ならそれこそ「はじめてのおつかい」のようにずっと後ろから見ていたいほどであった。

 GPSの方も確認すると、家から僅かに離れている。どうやら書き置きの通り、買い物に出かけたらしい。移動スピードからすると徒歩だろう。

「降谷さん」
「ああ、今行く」

 部下の呼びかける声に応じ、PCを閉じてから席を立った。


***


 ママに言われた通り、買い物に来た。
 本当は品ぞろえ豊富なデパートにしようと思ったのだが、道を知らない事に気付き、やむなく断念して近所のスーパーに来たのである。

 平日だがお昼時ということもあって、スーパーは軽く混雑していた。私は人ごみに飲まれないよう気を付けながら店内を散策する。ママが作ってくれたリストを見ながら、商品をかごに放り込んでいく。見つけられたものはマル印をつけ、売り切れていたものにはバツ印をつけた。商品名だけではなく販売している会社の名前まで書いてあるためとても助かった。もしそれが無かったら私はきっとどれを買えばいいかわからず困り果てていただろう。
 ……それにしても時々ふられているふりがなは何だ。読めないと思われているのだろうか。

 リストにあるものは大体かごに入れたし、そろそろレジに行こうかといったところで「すみません」と後ろから声を掛けられた。ぱっと振り返るとそこにいたのは見知らぬ男。ふわりとした色の薄い髪に眼鏡をかけた背の高い男の人だ。

「落としましたよ、これ」

 男の人は優しく笑って右手に持っていたものを私に向かって差し出した。それは私が持ってきた財布だ。斜めがけのショルダーバッグにしっかり入れていたはずなんだが、いつの間にか落としてしまっていたらしい。全く気づかなかった。

「ありがとう、ございます」
「いえいえ、次からは気を付けてくださいね」

 僕みたいに優しい人が拾うとは限りませんから……そう言って含みがありそうな薄い笑いを浮かべる。もう一度ありがとうございましたと言って立ち去ろうとすると、男の人はまた声を掛けてきた。

「そういえば君、こんなところで何を?」

 見たところ中学生くらいですよね、学校は?と続けた。私は答えるか一瞬考えたが、ふと前にママとした約束について思い出したのだ。

『どうしても喋らなければいけなくなった場合は、事前に決めたことを答えること』

 私は目の前にいる男の人の、開いているのか閉じているのか分かりにくいその目を見て淡々と言った。

「今日は休み」

 雑な回答だったが、これがママと事前に決めた回答である。一応さらに深く聞かれた時のためのパターンも用意してあったのだが、男は対して表情も変えずに「そうですか」と言ったのみであった。信じてくれたらしい。