しばらくキッチンでぼんやり煙草を吸っていると、玄関の鍵ががちゃがちゃと開く音がした。それから扉の開閉音、ぱたぱたという軽い足音。ひょっこり扉の向こうから顔を出した予想通りの人物に、俺は吸いかけの煙草を灰皿に押し付けながら声を掛ける。
「やあボウヤ、遅かったね」
「うん。雨が降ってたからみんなで雨宿りしてたんだ」
そういえば外はひどい雨が降っていたな。ふと外の音に耳を傾けてみると雨音は聞こえない。どうやら煙草を吸っている間に止んだようだ。
「電話してくれれば迎えに行ったのに」
「したけど出なかったでしょ昴さん」
「おや、そうでしたか。すみません気づかなくて」
「別にいいよ、すぐ止んだから」
そう言いながらソファにランドセルを置く。するとボウヤはテーブルの上のカップに気付いたようだ。中身がほとんど減っていないにも関わらず、すっかり冷めきってしまった来客者のカップに。
「誰か来てたの?」
「ええ、数分前に帰られましたけど」
「そうなんだ」
カップを軽く持ち上げて、中身を確認する素振りを見せる。顔には出さないが、きっと自身が知らない間に訪れたという訪問者に興味があるのだろう。
「珍しいね、昴さんが家に誰かをあげるなんて」
そら来た。
平然を装っているが、瞳からは好奇心があふれているのがわかる。だがすまないなボウヤ、これは君にも言うわけにはいかないんだ。
「そうですね……久しぶりに会えたので昔話に花を咲かせようかと思っていたんですが、覚えていたのは僕だけだったみたいです」
悲しいですね。なんて言葉とは対照的に、俺の口元は自然と弧を描いていた。
***
「信じられない」
早めの夕食であるインスタントのカレーを一緒に食べながら、ママは眉間にしわを寄せて言い放った。
食事を開始して早々に「あの男に何をされたんですか」というもんだから、今日一日にあった出来事を説明していたらそんなことを言われたのである。声には普段あまり見られないほど不機嫌な感情が滲みだしており、ママの怒りがありありと伝わってきた。
「普通! 雨宿りしようとか! そんな雑な誘い文句で! 初対面の人になんかついていきませんよ! しかも相手は異性!! 行き先は相手の家!!」
わあわあと文句を言いながらもカレースプーンを動かす手は止めない。これが"ヤケグイ"というやつだろうか。凄い勢いでカレーがママの胃袋に吸い込まれていく。思わず呆気に取られていると、ママはじろりとこちらを睨んだ。
「そもそもそいつ、車に傘を積んでいたんでしょう? ……僕としては大変不本意ですが、一時的に傘を貸してもらえば、あなたが彼の家で雨宿りをする必要はなかったのでは?」
「……なるほど」
静かに納得した私を見て盛大なため息を吐くママ。キッと目つきが鋭くなる。
「いいですか色。世の中には人の善意に付け込んで悪だくみをする人間がわんさかいるんです。今回は僕が早めに気づいたからよかったものの……」
「……ごめんなさい」
私が小さく謝ると、ママは大きなため息をついた。つい数分前まではあったカレーが一瞬にして消えてしまっている。
「約束してください。知らない人に容易についていかないと」
「わかった。ついていかない」
「それから、彼……沖矢昴には二度と近づかないこと」
「わかった。近づかない」
「それと、帰るのに困ったときは遠慮なく僕に電話すること」
「わかった。電話する」
「よろしい」
私が素直に答えたのを見てママはニッと口角を上げた。どうやら機嫌が直ったらしい。
さて私も気を取り直して皿を空にするようにスプーンを動かし始めると、ママがふと何かを思い出したように「そういえば」と話し始める。
「色、買ってきてくれと頼んだ物は……」
「……あ」
「……あなた、まさか」
「…………昴さんの家に置いてきた」
「………………」
ママが本日何度目かのため息をついた。