29 よし、言質はとった

 ブーッと携帯が震える音がした。俺のかとも思ったが俺のはポケットに入ってるためすぐに違うとわかる。だとすると色かな、と思っていたら色が携帯を取り出して確認し始めた。しばらくすいすいと操作していると何かを見つけたのか、「あ」と小さく声を漏らす。

「どうしたんですか」
「パパが帰ってくるって」

 携帯の画面を見つめながら色は言う。それを聞いた俺は悟られないように一瞬だけ息を詰まらせた。
 ジンの帰国。それはつまりこの共同生活の終わりを意味している。元々色との同居は彼が海外に言っている間のみという期間限定のもの。父親である彼が帰ってくれば拍子抜けするほどあっさりと終わってしまうことくらいわかっていた。

「そうですか。それで、いつ帰ってくると」
「明日だって」

 明日か。随分急な話だ。もう少し余裕をもって言ってくれればいいものを。車を運転しつつぼんやり考えを巡らせる。色と暮らしている間も頭の片隅で常にこの暮らしの終わりは想定していたが、実際に来てしまうとやはりどこか寂しく感じるな。……残念だ。

「ん?」

 残念? 
 今俺は何を残念だと? 

「ママ、どうかしたの」

 急に様子がおかしくなった俺を気にかけるように声を掛ける。俺は疑問で埋め尽くされた内心を感づかれぬように「なんでもありませんよ」とすっかり慣れた作り笑いで繕った。

「帰ったら仮眠をとって、引っ越しの準備をしましょうか」

 俺の提案に、色が小さく頷いたのが目の端で確認できた。

 帰宅後、宣言通りお互い数時間の仮眠を取る。そしてさっそく荷造りを開始した。
 荷造りをしながら、自宅に増えていた色の私物の量に驚かされる。いつの間にかこんなに増えていたのか。それでも一般的に見れば少ないほうに分類されるのだろうけれど。仕分けした荷物たちを余っていた段ボールにそれぞれ詰めて、ふたりで協力して俺の車のトランクに積んだ。

 夢中で作業をしていたせいか時間はあっという間に過ぎて、気づけばすっかり日は傾きかけていた。折角なので早めの夕食をふたりでとってから出発することにする。作ったのはチャーハンに数種の常備菜とスープ。共同生活最後の晩餐としてはふさわしくないほど簡単な料理だったが、別に構わなかった。ふたりで手を合わせて食事を始める。静かに食事をする色を見て、ふと思ったことを口にした。

「そういえば色、髪伸びましたね」

 出会った時は肩につかないくらいでぱっつり切りそろえられていたが、今ではすっかり肩に届くくらいになり、毛先が肩にあたって軽く跳ねている。その気になれば後ろでひとつに結べそうだ。
 当の本人はそのことに気づいていなかったようで「そういえば」と呟いて伸びた髪を指で軽くつまんだ。

「伸ばすんですか?」
「……長いのは弱点になるから」
「そうですか」

 弱点。髪に対してそんな考え持つ人初めて見た。この子は相変わらず発想が面白い。そんなことを考えながら再びスプーンを口に運ぼうとしたとき、そうだと色が小さく呟いたのが聞こえた。そして思いがけない言葉が続く。

「ママが切って。私の髪」


***


 その言葉を聞いたとき思わず耳を疑ってしまったが、どうやら少女は本気で言っているらしい。年頃の女の子の髪を切った経験なんて無いものだから、流石にその申し出はやんわりと断るつもりでいた。だが色は何度断っても「ママが切って」の一点張り。結局俺が折れるような形で、色の髪を切ることを引き受けた。

 超特急で近くの店まで道具を買いに走ったが、なにせ突然言い出したものだから百均なんかで簡単にそろえられるような道具しか準備できなかった。櫛、梳き鋏、散髪用の鋏、ヘアエプロン、とりあえずこのくらいあれば一通り大丈夫だろう。……それにしても。

「本当に僕が切っていいんですか? 人の髪なんて切ったこと無いんですけど」

 洗面所の前に急遽設置した椅子にちょこんと腰かける色は、ヘアエプロンも着用して準備万端である。対する俺はといえばなかなか覚悟が決められずにいた。最終確認も兼ねてもう一度色に問いかける。

「大丈夫。適当でいい」
「適当って、あなたねえ……」
「長さを短く切りそろえてくれるだけでいいから」
「……失敗しても文句は受け付けませんからね」
「わかってる」

 よし、言質はとった。後で文句を言っても一切聞かないからな。

 俺は盛大にため息をつき、鋏を手に取った。櫛で色の細い髪をとかし、一思いに鋏をいれる。しゃく、と金属が滑らかに擦れる音がして、切り離された髪はするりと地面に落ちた。
 人の髪を切るなんて未知の体験をしているせいか、かなり神経がすり減っていくのを感じた。寿命が縮まる思いさえする。すっかり集中しているせいかはたまた余裕が無いせいか、特に何か喋るということも無い。静かな部屋に鋏の音だけが響いていた。

「そういえば」

 色が唐突に口を開いた。

「どうかしましたか」

 手元に集中しつつ簡単に言葉を返す。色も別段いつもと変わらない調子で話し続ける。

「ずっと前から、ママに訊こうと思っていたことがあるんだ」
「なんですか?」
「……"フルヤレイ"って人、知ってる?」

 しゃく。

 鋏の音がひと際大きく感じられた。