30 ならいいの

 手を止めて思わず顔を上げれば、鏡越しに色と目が合った。何を考えているのかわからない黒々とした瞳が俺のことを正面から捕らえる。しばらくそうして互いに何も言わずに見つめ合って、時が止まったかのような心地さえした。
 先に目を逸らしたのは俺の方だ。

「さあ、知りませんね」

 そう返して、何事も無かったかのように作業を再開する。極力表情には出さないよう努めたが、内心は飛び上がりそうなほど恐怖と焦りが支配していた。気づかれないようにと再び自身の手元に視線を落として作業に没頭しようとするが、一度回り始めた頭は止まりそうにない。

 何故色がその名前を? もしかしてどこからか情報が漏れたのか? 
 ……それとも、まさか―― 

 混乱する俺とは対照的に、色は特に感情を載せない声で「ならいいの」と呟くのみであった。

 「彼がどうかしたんですか」

 思い切って鏡越しに問いかける。本当はあそこで会話を止めてもよかったが、この機会を逃してはもう二度と"フルヤレイ"についての話は聞けないと思ったのだ。鏡をじっと見つめたままの少女の目は相変わらず真っ黒で感情が読み取れない。

「知らないなら、いいの」
「……そうですか」

 告げられたのは、はっきりとした有無を言わさぬ拒絶だった。これ以上深入りるべきではないと考え、俺は不完全燃焼気味に口を閉じて鋏を動かすことに集中し始めた。

 「はい。出来ましたよ」

 数分後。何とか色の髪が仕上がった。仕上げに軽く櫛で整えてから色に声を掛ける。出会った時と同じか、それより少し短いくらいだろうか。首を左右に軽く動かして鏡で確認すると俺の方を見上げて「ありがとう」と言った。ちらばった髪やらを下に敷いておいた新聞紙と一緒にまとめてごみ袋へ入れる。

 それから荷物を運ぶためにふたりで色の家に行った。ポストから鍵を取り出したときに驚いた声を上げたら「いつもそうしてる」と言われて絶句した。危機感が無さすぎる。次からは必ず鍵を管理するようにと言えば素直に頷いた。聞き訳がいいのは本当に助かる。

 色の部屋は予想通りというか、本当に生活感が無かった。家具はほとんど備え付けのもので、色の私物はほぼない。ふたりで手分けして荷物を運びこみ、ある程度片付け終わるころにはすっかり日は沈んでしまっていた。

 「こんなところでいいでしょう。それじゃあ僕は帰りますね。長居しても悪いですし」

 玄関に向かって靴を履いているときも色はぴったり俺の後ろをついてきた。

「見送りなんていいのに」

 親鳥についてくる雛が頭の隅に浮かんだ。思わず苦笑する。

「でも、ありがとうございます」

 笑いかければ色は言われたことがよく理解できなかったのか小首を傾げてきょとんとしている。その動作になんだか胸をくすぐられるようで、俺は思わず色の頭を撫でた。色は黙ってされるがままに俺の手を受け入れている。

「僕が居なくてもご飯はきちんと三食たべるんですよ」
「うん」
「知らない人についていくのもダメですからね」
「わかった」
「何かあったらすぐ僕に言ってください」
「うん」

 ……こんなところだろうか。それじゃ、と言って外に出て扉を閉めようとしたところで後ろから色に呼び止められる。

「どうかしました?」

 後ろを振り向くと、変わらない様子の色が立っていた。黙ったまま俯いて、何かを言いかけては止めるような、そんな様子を見せる。そんな姿を見たことが無かった俺は、なんとなく気になって少女の名前を呼ぶ。

「色?」
「……何でもない」

 ぽつりと言って、色はばたりとドアを閉めた。


***


 自身の愛車に乗り込み、大きく息を吐いた。シートにすっかり身を預けて静かな空間で思考を巡らせる。
 考えるのはもちろん、色のことについて。

 数か月間少女と共に時間を過ごして分かったことは実にさまざまである。

 言われたとおりのことしかこなさないが、一度きちんと教えれば二度目は自分で出来るようになるということ。
 自分自身についての関心や警戒心がかなり薄いこと。

 そして……色が見えないこと。

 最後に関しては色本人から直接聞いたわけではないから断言することは出来ないが、ほとんど確信に近いと言っていい。服についた明らかな汚れを見落としたり、料理の焼き加減がわからなかったり……そういった日常にある些細な出来事の積み重ねから判断した結果だ。

 おそらくというか、やはりというか、色="あの子"の線は深まるばかりである。考慮すべき点はまだ多いが、その気になればどうとでも出来そうなものばかりだ。……いずれにしても。

「"あの子"と色について、改めて調べなおす必要がありそうだ」

 そうつぶやいた俺の瞳が、月明かりをまとって蒼くきらりと輝いた。


***


 扉が閉まると同時に自動的にガチャリと鍵が閉まった。私以外は誰の温度も感じられない冷たい部屋に施錠の音が響く。

「ママの嘘つき」

 ほろりと、口から言葉が零れ落ちた。それと同時に、ママに髪を切ってもらった時の会話を頭に思い浮かべる。

 私は『"フルヤレイ"って人、知ってる?』と尋ねた。ママはその数秒後に『さあ、知りませんね』と言ってそれから『彼がどうかしたんですか』と私に問いかけた。
 私は『その人』としか言っていないのに、"レイ"という名前は男にも女にもいる名前なのに、ママは『彼』と言った。

 つまりママは"フルヤレイ"が男だと知っていたわけだ。
 ……知っていたうえで『知らない』と言ったのだ。

「嘘つき」

 いじわる。
 知ってるけど教えてくれないんだ。そっくりの蒼い目を持つママならもしかしたらと思って、思い切って聞いたのに。

「……でも、私も嘘つきだから」

 ポケットの中で震える携帯にそっと触れながら、私はぼそりと呟いた。

「おあいこだよね、ママ」