どう反応していいのかもわからず、ただ少女の動きを静かに目で追いかける。すると先ほど自分が手に取ろうとしていた携帯電話が目に入った。
「これ……」
「それならすっかり水没しちゃって動かないわよ。随分雨に降られたのね」
私が指をさせば少女はサイドテーブルの上にある携帯電話をひょいと私に手渡した。試しにあちこち触ってみるがうんともすんとも言わない。少女が言うように本当に壊れてしまったみたいだ。重要なデータは入れていた覚えは無いし、壊れても特に支障はないだろう。後でパパに言って新しいものを貰わないと……うん? パパ?
「……」
その時私は思い出した。
2日後にパパがメモリーカードを取りに来ると言っていたことを。
……まずい。非常にまずい。
メモリーカードは"秘密の隠し場所"にちゃんとあるだろうからいいとして、問題は今の日時だ。もし万が一、約束の期日を過ぎていたらさらにまずいことになる。確認しなくては。
「私は、どれくらいその……眠って」
「そうね……あなたを保護したのが一昨日の夜だから、丸1日以上は眠っていたことになるかしら」
少女の返答を聞いて少しだけ胸をなでおろす。約束の期日を過ぎていないと分かっただけでも一安心だ。
だが、だからといって長居するわけにもいかなかった。携帯が壊れてしまった今、連絡が取れなくなった私を不審に思ったパパが探しに来るかもしれない。発信機の類は付いていなかったが、パパが本気を出せばきっとすぐにこの場所も割られてしまうだろう。そうしたら、命の恩人であるこの少女に迷惑がかかってしまうかもしれない。それだけは避けなければ。
だとすれば私は今すぐにでもここから離れるべきだろう。そう判断した私が掛け布団をずらしてベッドから降りようとすると少女は慌てたように言った。
「ちょっと! どこ行こうとしてるのよ!」
「早く、行かないと」
「無茶言わないで。熱もあるし、傷だってまだ完全に塞がったわけじゃないのよ?」
少女は私の腕を掴みながら目を合わせて言う。きっと本心からの言葉なのだろうが正直それどころじゃない。
「それでも、行くの」
そういった私を見て、少女はびくりと肩を震わせた。私の腕を握る手に力が入る。
「……それは、"父親"のところ?」
少女の声はほんのわずかに震えていた。
何故急にそんなことを聞くのかと口を開こうとして、思わず言いよどむ。私を見つめる少女の目には様々な感情が入り混じって複雑に溶け合い、判断することが出来なかったのだ。最適解がわからない。どう答えるのが正解なのか、私の壊れた頭では導き出すことは出来ない。
黙ったままの私が静かに目を逸らしたのをどう受け取ったのだろう。少女は一瞬、傷ついたような表情を浮かべる。唇をぐっとかみしめる様子が垣間見えた。
「……そう」
そのままふと視線を足元に落とした。私の腕を掴んでいた手から力が抜け、だらりと垂れる。そのまま少女は私に背を向けて部屋の出入り口に向かって歩き始めた。
部屋から出る直前、こちらを振り返らずに少女は言い放つ。
「喉が渇いたから水を飲んでくるわ。すぐ戻るから」
バタンと扉が閉まる音がして、部屋は静かになる。今まで気にしていなかった時計の秒針の音がやけに大きく聞こえた。
私は音を立てずにゆっくり起き上がり、スウェットを脱ぐ。壁にかかっていた誰のためのものなのかわからない新しいスーツを手に取り、袖を通す。壊れて使い物にならなくなった携帯をポケットに入れ、スウェットを畳んでベッドに重ねて置いた。
窓を開ける。さっきまで晴れていた外はすでに曇り始めていて、もう少しすれば降り出すだろうといったところだ。
「ありがとう」
ドアに向かって独り言のように言った。当たり前だが返事は帰ってこない。そんなことはわかっていたし、それでよかった。
窓枠に足をかけ、ぐっと力を入れて外へ飛び出す。芝生に着地した途端に音を立てずに走り出す。ぽつりと鼻先に雫が当たったと思ったら、瞬く間にざあっと降ってきた。
私は構うことなく人気の無い道の中へと姿を消した。
***
すっかり誰もいなくなった部屋の中へ私は足を踏み入れる。
開け放された窓の外は豪雨で、遠くの方では時折雷が光っていた。風も強く、窓から吹き込んだ雨が部屋の中を濡らしている。
どうして助けたかなんてわからなかった。
彼女が自分の元居た組織の人間だということも、"父親"のことも知っていたのに。普通なら、私の今の立場を考えれば、助けたりなんてしないだろう。
でも私は助けた。気づけば身体が動いていたのだ。
家の前で血まみれで倒れている彼女を、見殺しにはできなかった。彼女は私に介抱されたことを"父親"に言うかもしれない。それでも私は構わなかった。
人体を縫う経験なんて皆無に等しかったのに、自らの意思で慣れないメスを取った。博士に時折補助してもらいながらも必死で手術をしたが、彼女には私が手術したことを隠して別の医者が手当てしたのだと偽った。彼女はそれを疑うことなく納得してみせる。それでも私は構わなかった。
目を覚ました彼女は私のことをちっとも覚えている様子が無かった。”父親"に似た頭を持っている少し特殊な彼女ならもしかして、と思った予感が的中したので胸がわずかに傷んだ。それでも私は構わなかった。
彼女が助かれば、それで。
「さようなら、色さん」
もう会うことは無いだろう、私のもうひとりの"お姉ちゃん"の名前は、吹きすさぶ風によってかき消され、誰の耳にも入ることは無かった。