34 急に何を言うかと思えば

 少女の家から脱出して、パパとの取引場所である自分の家に辿り着いた頃にはもう23時を過ぎていた。道自体は単純だが、なるべく人に見られないようにと考慮しながら移動した結果かなり時間がかかってしまったのである。

 予めポストの中に入れてあった鍵を取り、ドアを開くなり玄関に倒れこむ。雨の中の長時間の移動は身体に負担がかかるからあまりやるな、って先生も言ってたっけ。ここに居ない彼女の呆れたように怒った顔がありありと思い浮かぶ。しかも今は裸足だ。きっとさらに怒られるだろう。

 溜息をひとつ吐いてなんとか身体を起こし、引きずるようにして風呂場へ向かう。本来一日家にいたはずの私が服もずぶぬれなのは流石にパパも違和感を覚えるだろう。
 濡れて張り付く服を脱ぎ、カゴに適当に放る。濡れてしまっている細かい傷を覆うテープやら絆創膏やらを剥がし、まとめてゴミ箱へ。腹の包帯も解き、傷の様子を見る。きっちりと丁寧に縫われていて、これは1週間もすれば綺麗にくっつくだろう。あの子の知り合いの医者は余程腕がいいらしい。

 さて、どう風呂に入ろうか。あまり傷を濡らすのは良くないと先生はいつも言っていたから、濡らしたくはないのだが。困った末に、傷を隠せるほどの大きな絆創膏を貼り、腰から下は普通に洗い、腹から上と頭はお辞儀をした状態で洗うことにした。なるべく濡らすまいと床と上半身がほぼ水平になる体勢をキープするのは結構辛い。

 なんとか洗い終わり、髪と体を拭く。そういえば着替えの用意をしていなかった。肩にタオルをかけ、バスタオルを身体に巻き、脱衣所を出る。クローゼットに入れていた下着とTシャツ、ショートパンツを素早く身につけた。髪でも乾かすかと思っていたら、玄関の向こうから聞きなれた足音と鍵の音がした。開錠する音と同時に扉が開く。

「おかえりパパ」

 私が扉の方に顔を出して言うと、パパはあまり表情を変えずにああ、と低い声で呟き靴を脱いで部屋に入ってきた。相変わらずの黒コートに帽子。所々水滴が付いているところから、まだ外は雨模様らしい。目の前までやってきたパパは足を止め、私の格好をジロリとみた。

「風呂に入っていたのか」
「うん」

 別に隠すことも無いので頷けば、パパはフンと鼻で返事をした後「そんなことより」と早速本題に入る。

「例のヤツはどうした」
「これ」

 私はおもむろに口を閉じてもごもごと動かし、べ、と舌を出す。舌の上に乗っていたのは飴玉ほどのサイズで、薄くて黒い直方体の物体だ。それを指でつまんで首にかけていたタオルで拭き、パパに渡す。
 パパが右手の人差し指をその物体に押し付けると、ピッとごく小さな電子音がした。するすると音を立てずにその正方形は展開し、中からメモリーカードが姿を現した。パパがニヤリと笑う。

「上出来だ」

 メモリーカードをもう一度しまい、懐に入れると、パパは私の頭を撫でた。大きくて節くれだった手が私の湿った髪をかき混ぜるのを目を閉じて受け入れる。

「そうだパパ」
「なんだ」
「携帯が壊れた」

 ほらこれと言って水没して動かなくなった携帯を見せる。パパは無表情でそれを受け取り、ひとしきり操作して動かないのを確認したようだ。

「用意しておこう」

 パパはそう言って携帯をコートのポケットに突っ込んだ。さっき頭上から聞こえた「連絡が取れなかったのはそのせいか」というパパの独り言は聞かなかったことにしておく。

「バーボンはどうだ」
「……電話でも言ったけど、怪しい所は何もなかった。彼はネズミじゃないよ」

 そういいながら数か月間寝食を共にした彼のことを思い浮かべる。

 この数か月間、パパの命令で彼の家で過ごしながら彼のことを観察していたのだ。時折彼がいない隙を見計らって公衆電話に出向き、パパに報告の電話をしていたなんて彼は気づいていないだろう。
 因みにパパが海外に行っていたのは本当だがそれはほんの数週間程度。実際には私と彼が一緒に暮らしていた期間の4分の1にも満たない長さである。

 結果として、数か月観察しても彼が私から隠れて誰かと連絡を取っているとか、そういった様子は全く見られなかった。特に目につくような点も見当たらず、彼は私の目から見た限りでは白に近いだろうと思われる。少々家を空ける頻度が高いのが気になると言えば気になるが……その程度だ。特にパパに言う必要も無い。

 私の返答を聞いて、パパは「そうか」と言ったのみであった。

「次の仕事は明日の夜。夕方には迎えに来るからそれまでに用意しておけ」
「わかった」

 おやすみなさいと小さく言って、寝室に向かうとその途中で呼び止める声がした。何かと思い振り返ると、パパがこちらをじっと見ている。その目からは感情が読み取れない。

「何」
「怪我してるだろう」

 急に何を言うかと思えば。