58 もう二度と、

 蒼い瞳のバケモノと目を合わせた瞬間、幾分か目の調子が良くなった。まだ地面はぐるぐるするし、ぼんやりと焦点は定まらないが、少なくとも目の前にいるのはヒトの形をした生き物である。しかもそれは、私のよく知る人物だ。

 名前を呼ぼうとしたが、震える唇は言葉を紡ぐことが出来ない。彼はそんな私を見て、ハッと目を見開いてこちらに歩み寄ってきた。

「色! すみません、ここを見つけるのに手間取りまして」

 私の身体や、あたりに散乱した物たちを見たのだろう。彼は痛々しく眉を寄せる。

「無事……じゃ、ないです、よね」

 ポケットからじゃらりと鍵を取り出し、私に施された拘束を丁寧に解いていく。外れた拘束具が重い音を立てて地面に落ちる。自由になったところで彼が着ていたジャケットを私の肩にかぶせた。

「本当は、もっと早くに来るつもりでした。……あなたをこんな目に合わせたのは、僕の責任です」

 彼の顔がぐっと歪む。
 ――どうして君がそんな顔をするんだ。悪いのは他でもなく、捕まった私自身だというのに。

 彼にそんな顔をしてほしくなかった私は、力を振り絞って口を動かす。無理に声色を明るくするように努めて。

「へいきだ。わたしは……なんとも、ないから」

 だからそんな顔しないで欲しい。そういう気持ちで言ったのに、彼は何故かひどく傷ついたような顔をする。どうして、どうしてそんな……――

「平気なわけないでしょう」

 そう言った彼の声は僅かに震えていた。彼の蒼い瞳が私を真っすぐに射抜く。

「あなたが囚われてから、どれくらいたっていると思います? 5日ですよ、5日。……その間何をされていたかぐらい、あなたの様子と部屋を見れば、誰にだって想像は容易にできますよ」

 私に口を挟む隙さえ与えずに彼は矢継ぎ早に言葉をぶつける。

「食事も睡眠もろくに与えられなかったんでしょう。こんなに痩せて、やつれてしまって……挙句、薬まで。……もう心も身体もぼろぼろですよ。それなのに、なんで『平気だ』なんて言うんですか!」

 彼は私の目を真っすぐに見つめて叫んだ。彼の固く握られた両の拳がぶるぶると震えるのが確認できる。そこで初めて、彼が私に対してぶつけて居る感情が怒りなのだと気づいた。

「自分のことを投げやりにするのも大概にしてくださいよ!」

 私はどう反応してよいのかわからず、彼の蒼い瞳を見つめ返すことしか出来ない。しばらくの間、部屋の中に沈黙が落ちる。
 あまりにも勢いよく叫んだ彼は、軽く数回肩で息をした後、俯いてはーっと長く息を吐いた。くしゃりと前髪を握る。

 そしてゆっくり顔を上げると、私のことを正面から抱きしめた。

「……すみません。やっと助け出されたのにまさか叱られるなんて、思ってもみなかったでしょう。すみません、こんなつもりじゃ……なかったんです」

 弱々しく彼は呟いた。彼の柔らかい声が、頭上から包み込むように降ってくる。初めは壊れ物のように優しく触れ、徐々に抱きしめる力を強くしていく。椅子に座ったまま抱きしめられているのに、軽くお尻が浮くほどである。
 彼はまるで腕の中の存在を確かめるかのように、きつく抱きしめた。

「ただ、あなたを助けに遅れたのは全て僕のせいなのに、あなたが『なんともない』なんて言うから、どうにも、……」

 私の身体はすっぽりと彼の広い胸の中に納まってしまう。彼の身体に触れ、そこで初めて自身の身体がひどく冷えていることを知った。

「つらい時には、つらいと言ってください。苦しい時には、苦しいと言ってください。あなたは感情を持たない人形なんかじゃなくて、れっきとした人間なんですから」

 彼の腕の中に閉じ込められながら、黙って彼の言葉を聞いている。押し付けられた彼の胸の奥で、彼の心臓がバクバクと早鐘を打っているのが聞こえた。

「……それに、僕はあなたの"ママ"ですよ。なんだって受け止めてみせます。だから……強がらないでください」

 僕にもっと、頼ってください。彼は消えそうな声でそうつぶやいた。

 頼る……頼る、か。

 彼に抱きしめられながらほんの少し考えた私は、だらりと全身の力を抜いて彼にもたれかかる。彼はそんな私に気が付いたのか、クスリと小さく笑って私の背中をゆったりと優しくさすった。そのままゆっくりと瞼が落ちていくのを感じる。

「俺は、もう二度と……――」

 まるで愛おしい人に話しかけるかのような声色で語る彼の言葉を、最後まで聞くことは出来なかった。


***


 そのまますとんと眠りに落ちた彼女を後部座席に寝かせて、車を発進させる。

 彼女からの通信が途絶えてから十数分後に、俺は施設に到着した。建物内は死体や瓦礫ばかりでもぬけの殻。思わず舌打ちが飛び出した。

 そこからは嵐のような日々である。奴らに関する情報を片っ端から集め、潜伏できそうな場所を徹底的に洗った。だがどんなに探しても一向に彼女は見つからない。疲労から来る焦りと苛立ちが募るばかりで、手がかりすらつかめない日々が続いた。

 そんな中、彼女が姿を消してから5日が経とうとしていた時、気になる物を見つけた。奴らが拠点にしていた――あの日俺と彼女が乗り込んだ――建物の図面である。その図面を見て俺は驚かずにはいられなかった。
 なんと、その建物には地下施設が存在していたのである。灯台下暗しを絵にかいたようなそれに、思わず笑いが零れる。そりゃ、どんなに他を探しても見つからないはずだ。

 それからすぐに動ける部下と共にあの建物へ急いだ。僅かばかりの残党を制圧しつつ奥へ進み、そこで発見した彼女を保護。今に至るというわけである。

「――ぃ……」

 後ろに横たわる彼女が僅かに口を動かした。静かな車内だが、か細いそれをはっきりと聞き取ることは出来そうにない。視線を前に向けたまま、耳だけを後ろに意識を向ける。

 彼女を探している間、ずっと彼女のことだけを考えていた。彼女が無事であることだけを、ずっと。

 それでようやく気が付いたのだ。
 自分の胸の内に燻っていたその想いに、シンプルでわかりやすい、名前が付けられることに。

 今までどうして気が付かなかったのだろう。もっと早く気が付けばよかったと思うと同時に、気が付かないほうがよかったのではないかという考えも過る。

 だが……もう、どうしようもない。
 気づいてしまったからにはもう、避けようがなかった。

「色」

 俺はもう二度と、君を手放したくないんだ。