59 何があっても絶対

 薄暗い部屋で横たわる彼女の寝顔を見ていた。

 簡素なつくりの病院服を身にまとった彼女は、清潔なシーツにくるまれたベッドの上で静かに目を閉じている。こうしていると本当に人形のようだなんてぼんやり思う。薄い胸が浅く規則的に浮き沈みすることが、唯一彼女の生を視認する術であった。
 左腕に刺さった細い針。そこに繋がれた管を通じて、ポールに下がった薬品がゆったりと彼女の体内へ染み渡ってゆく。

 例の犯罪組織に囚われた色を助け出してから3週間余り。彼女は一度たりとも目を開くことはなかった。

 先生が言うには「衰弱しきっており、その上薬が抜けるのに時間がかかるが、命に別状はない」「直に目を覚ますだろう」とのことだったが、死んだように青白い顔を見ると内心不安で仕方が無い。
 それもそうだ。彼女への思いをようやく自覚したと思ったら、当の本人である彼女が意識不明だなんて。心配するに決まっている。

 忙しい仕事の合間を縫って病室に通ったが、彼女が意識を取り戻すことはなかった。

 今日も今日とて彼女の病室を訪れ、俺はひとりで彼女の寝顔を見ている。ベッドサイドにある安っぽいパイプ椅子に腰かけて、彼女の規則正しく動く胸元を見ている。いつもなら彼女に語るようにその日の出来事を報告するのだが、今日は違った。

「色」

 小さく呟く。勿論、返事が返ってくることはない。

「全てを終わらせてくる。だから……それまでどうか、静かに、眠っていてくれ」

 彼女の冷えた右手を手に取り、温めるようにそっと包み込んだ。

「必ず、帰ってくるから」

 ほんの数秒が何時間にも感じられた。俺は彼女の手を放し、元の様にベッドへ戻す。

 一度目を閉じて、ゆったりと呼吸をする。吸って、吐いて、もう一度。
 そしてゆっくり目を開く。

 パイプ椅子から立ち上がり、身に着けたグレーのスーツのジャケットを直すと、俺は彼女の病室を後にした。


***


「バーボン」

 病室を出てすぐに声を掛けられる。そちらを向けば、立っていたのは色の主治医の彼女だった。両手を白衣のポケットに突っ込んでけだるそうに立っている。目の下には疲労の跡が色濃く刻まれていた。

「先生。……その」
「あー、いい。言う必要なんて無ェよ。顔みりゃわかる。大体がアイツのことだろう?」

 ニッと歯を見せるようにして笑う。そんなに顔に出てたかと思わず口元を覆うように手をやるが、それを見て彼女は笑った。

「いいよ。アイツはアタシに任せて、手前はやることをやりな」

 カツカツと足音を響かせて彼女は俺の後ろへと歩いて行った。
 すれ違った瞬間、俺にしか聞こえないような声で彼女は呟く。

「何があっても絶対生きて帰ッて来いよ――ゼロ」


***


 長いこと暗い場所を彷徨っていた気がする。

 気がする、というのはあまりにぼんやりしているが、残念ながら私がここに来てからの経過時間がよくわかっていないのである。薬のせいもあるんだろうし、何よりこれは夢だ。時間感覚がおかしくなっても不思議ではない。

 歩いても歩いても、進んでるんだかよくわからない真っ黒い空間。毎度おなじみの見慣れた場所だ。多分そろそろだろうかと思った矢先、後ろに人の気配を感じた。もったいぶるくらいゆったりと後ろを振り返れば、思った通りそいつはそこにいた。相変わらず何食わぬ顔でこちらをじっと見つめている。

 いい加減私は嫌気がさしてきて、目の前のこどもに問いかける。

「なあ、君は誰なんだ。いい加減、教えてくれないか」

 こどもは何色かわからない瞳でこちらを見つめるばかりで、一向に口を開く気配を見せない。だんまりか、と思った時ふと、以前先生から聞いた話を思い出す。

「前に先生から『お前には足りないものが多すぎる』と言われたことがある」

 こどもはわざとらしく瞬きをひとつ。

「……もしかして、君の仕業か」
「わすれちゃったんだね」

 こどもがようやく口を開いた。

「まあそれも、ぼくが仕組んだことだけど」

 そう言うと、こどもは視線をそっと逸らす。

「おしゃべりはこのくらいにしよう。……今は、時間がない」

 こどもの足元を見ると、無数のヒビが入っていた。夢が終わるらしい。やっとこの空間から出られるのかと考えたところで、こどもがぽつりと呟く。

「次に会えたとき、答え合わせをしようじゃないか」

 こどもは猫の様に目を細め、跡形もなく姿を消した。