62 ……君が許してくれるなら

 そこからはまるで嵐のようだった。

 部屋の中の騒ぎを偶然聞きつけた先生によって彼は無理矢理引き剥がされ、私は身体中の検査をするためにあっちへこっちへ動きまわった。まあ一番大変だったのは筋力が低下したせいで歩くのが覚束ない私の座る車椅子を押す看護師さんと、何が何でもついて来ようとする彼を押さえつけていた先生だろう。

 一通り検査をしたところ、特に重大な怪我や損傷は見られないらしい。だが随分長いこと眠っていたからリハビリも兼ねて暫くは入院だろうと先生に言われた。「全く……無茶しやがッて」と先生が呆れたようにぼやく。私が小さく謝れば、いつも通り白い歯を見せて笑った。
 
「いいよ。今日のところは終わりだ。早く病室に戻ッて休め。……ゼロが待ッてる」


***


 先生に車椅子を押してもらいながら部屋に戻ってくるころには、すっかり夜になっていた。からりと扉を開くと、部屋には電気がついていて、中では彼がベッドサイドのパイプ椅子に座って本を読んでいる。ぱっと顔を上げた彼は私に気が付き、柔らかく微笑んで本を閉じた。

「一通り検査終わったから連れてきたぜ」
「……ありがとうございます、先生」
「ハッ、手前にお礼を言われッと変な気分になるな」

 先生は皮肉交じりの笑みを浮かべる。先生の手を借りて車椅子からそうっと立ち上がろうとすれば、彼は読んでいた本を鞄に素早くしまって介助してくれた。なんだか情けない気持ちになりながらも素直に彼の助けを借りながら、私はベッドに腰を下ろした。腰のあたりに掛け布団をかけながら、先生はこれでよしと満足げに腰に手を当てる。

「んじャま、後はおふたりでごゆッくり〜」

 車椅子を折りたたんでベッドの傍に置くと、先生はひらひらと手を振って出ていってしまった。これで部屋には彼と私のふたりきりということになる。
 そこでふと、気になったことを尋ねてみることにした。

「……ねえ」
「ん?」
「どうして、ここにいるの?」

 そう。どうして彼がここにいるのかということだ。
 彼は組織の構成員だということををカムフラージュするために私立探偵や喫茶店店員として働いているらしいということを知っていた。そしてそれらの仕事でかなり忙しくしていたということも。だとしたらこんなところでのんびりと油を売っている暇はないのではないだろうか。
 すると彼は私の考えを読んだのかどうかは知らないが、ふっと優しく微笑んでみせる。

「どうしても、伝えておきたいことがありまして」 
「伝えておきたい、こと」

 彼が、私に?
 思い当たるフシがなさ過ぎてどう反応したらいいものかわからない。静かにまばたきを繰り返していると、彼の雰囲気が途端に真剣みを帯びたものになる。

「……僕の、全てについて」

 すると彼は着ていたスーツのポケットに手をいれ、何かを取り出した。
 ベッドの上に置いたそれは、紛れもなく警察手帳である。

 ぱたりと開かれた中にあるのは彼によく似た顔写真。その下には役職名と名前が書かれているのだが、その名前は以前教えられた『安室透』ではなかった。
 あまりの衝撃に警察手帳から目を離せずにいると、彼が静かに口を開く。

「改めて自己紹介をさせてください。僕の本当の名前は、降谷零。警備局警備企画課に所属する、公安警察なんです」

 それを聞いた瞬間、私は思い切り顔を上げた。今の私の顔は、きっと今まで見たことがないほど気の抜けたものだっただろう。今しがた彼から告げられたばかりの言葉がぐるぐると頭の中を回っている。

 警備企画課? 公安警察? そして、何よりも……
 ――"フルヤレイ"、だって?

「今まで騙していてすみませんでした。潜入捜査中でしたから、本当の名前を明かすことも出来ずにいたんです」

 ぽかんと間抜けな顔をしてまばたきを繰り返すことしか出来ない私を他所に、彼はこれまでの経緯を語った。組織を倒すためにスパイ目的で組織に所属していた、いわゆるNOCだったこと。先生も彼の昔からの顔なじみで組織を倒すための協力者であったこと。当の組織はボスの確保と共に実質壊滅したこと。告げられることのすべてがまるでよくできた物語のように現実味が無いが、彼がそんな嘘をこんな場で言うとも到底思えない。恐らくすべて事実なのだろう。

「それと……これも、伝えなければいけませんね」

 穏やかな彼の表情がわずかに固まる。膝の上に置かれた彼の手がほんの少し強張ったのが分かった。一体何を言おうとしているのかとその動向を窺っていると、彼は意を決したように口を開く。

「僕はある女の子を20年間ずっと探していました。……十六夜色という名前の、色盲の女の子を」

 不意に自分の名前を呼ばれ、思わずぴくりと反応してしまう。それを見て目の前の彼は小さく口角を上げた。

「今まで、その子のことを忘れたことなんて一度もありませんでした。中学生になっても、高校生になっても、ずっと忘れられなかった。警察官になってからもずっと探していたんです。……それがまさか、潜入した先の組織で再会するなんて思いもしませんでしたけど」

 彼は小さく苦笑する。
 そこで私は思い出したことをそのまま口にした。今まであまり考えたままに喋るということをしたことが無かったが、思わず、突発的に、口を動かしたのだ。

「じゃああの時……私が"フルヤレイ"についてきいた時、知らないっていったのは」
「もちろんわざとですよ。知ってるも何も、本人ですから」

 彼が微笑むのを見て、私は思わず力が抜けた。
 まさか、こんなに近くにいたなんて。それに彼の方も私を覚えていてくれたなんて。これは夢だよと言われれば信じてしまいそうだ。いや、もしかしたら本当に夢なのかもしれない。私は声の震えも気にせずに問いかける。

「本当に、……本当に、君が、"フルヤレイ"なの」
「さっきそう言ったじゃないですか」
「……夢、じゃ」
「ないですって」

 やれやれと彼が眉を下げる。

「もしかして、信じられない?」
「そんなことはない、けど、でも」

 私は軽く首を振り、しどろもどろになりながら懸命に喋ろうとする。すると彼がふは、と噴き出すように笑った。

「……何?」
「いや、そういう表情も出来たんだなって」

 思わぬ指摘を受けて私は少しばかり恥ずかしくなる。しかし、そういう彼も幼い頃に見た時の笑顔とほとんど変わらないことに気付き、上がる口角を抑えられなかった。

 だが浮かれてばかりもいられない。私は口元の微笑みをそのままに、そっと視線を落とした。そんな私を見て、彼は少し心配そうにこちらを覗き込んでくる。彼にやっと会えた嬉しさと同時に、もうひとつの感情が胸の中に溢れていたのだ。それは紛れもない事実で、どうやっても変えられない。

「やっと会えたのはうれしい。……けど、すぐにさよならしなきゃいけない、なんて」
「……どういうことです」

 ぼそりと呟いた言葉を彼は聞き洩らさなかったらしい。少し困惑気味に私に説明を求めてくる。私は俯いたまま思ったことを口にした。

「私は犯罪者。今は怪我だらけだから入院してるけど……この身体が多少なりともマシになったら、裁かれる。私はたくさんの人を殺した。……だからきっと、もう二度と会えない」

 彼が正義の人だと知って安心はしたが、私が犯罪者であることに変わりはない。生きているうちの半分以上組織に身を置いていた私だ。最悪極刑もあり得る。そうなってしまえば、彼と会うことなんてほとんど不可能といってもいいだろう。それどころか、あとどれくらいこの世に居られるかも……。
 そんな考えに支配された私が口をつぐんでいると、頭上でふっと笑う息遣いが聞こえる。ぱっと顔を上げれば彼は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。どうして笑っているんだと抗議しようとしたところで、得意げに人差し指を立てて彼は語り始める。

「知ってますか? 戸籍上では『十六夜色』という人間は、20年前に死んだことになっているんですよ」

 突拍子もない切り口に、私は思わず呆けた表情を浮かべてしまう。たった今目の前にいる彼の言ったことがイマイチ理解できずにいたのだ。そんな私を察してか、彼は表情はそのままに決定的な一言を言い放つ。

「死んだ人間を刑に処すことなんて出来ませんよね」
「……何を、言ってるの」

 ようやく言いたいことを理解できた私は、信じられない思いで彼を見る。だが彼は特に何食わぬ顔をしていた。私は思わず詰め寄るように彼に言う。

「私はこの20年間で、数えきれないほどの人を、この手で」
「でもあなたはそれ以前に被害者なんです。もしあなたに"あんなこと"がなければ、組織に入ることはなく、至極まっとうな人生を歩んでいました。あなたは被害者なんです」
「そうだとしても、私は」
「なに、もし心配なのだとしたら、あなたが罪を犯さないように見張っていればいいだけですよ」
「見張るっていったら、それこそ……」
「もしかして、気づいてませんか」
「……何に?」

 わけがわからず眉間にしわを寄せた私を見て、彼は黙って手首を指さす。指の通りに視線をずらしていけば、私の手首には細い紐のようなものが巻かれていて、そこに何やら文字が書かれていた。そこに書いてあったのは――

「降谷……色」

 ばっと音がしそうなくらい勢いよく彼を見れば、彼は幸せそうな笑みを浮かべていた。

「そう。僕が直々に君を見張れば、それで解決ですよね。そうでしょう?」

 彼は私の右手首にそっと手を重ねる。彼の熱が触れたところからじわじわと伝わっていく。

「残念ながら君に拒否権はない。あなたはもう『十六夜色』ではなく『降谷色』です」
「……君、本気で?」
「俺が嘘を言っているように見える?」

 彼の蒼い双眸がこちらを射抜く。その真剣で決意に満ちた瞳に、嘘や欺瞞なんて欠片もあるはずがなかった。耐えきれずにほんの少し視線をずらすと、彼は柔らかく微笑んで私の手を両手で包み込むようにして握る。

「20年も探し続けて……やっと、色に会えたんだ。もう二度と、手放したくない」

 うっとりとした視線をこちらに投げかけてくるものだから、私はカッと顔が熱くなるのを感じる。……色覚やら痛覚と同時に、今まで乏しかった感情までも戻ってきたらしい。発熱する顔を見られたくなくて思わず俯く。
 このまま黙っているのもいたたまれなくて、私は懸命に言葉を紡いだ。

「私は……何もできない欠陥品で、いつも迷惑をかけてばかりだった。きっと、これからもそれは変わらない」

 私が言葉を紡いでいる間、彼は黙って続きを待ってくれている。その表情を見てはいけない気がして、私は顔を上げずに必死に言葉の続きを口にする。
 上手く頭は回らないし、手は震えるし。なんだか口の中がからからになってきた。こんなこと初めてでどうしたらいいのかわからないが、今はただ、自分にできる精一杯のことをするしかない。

「でももし、君がいいなら……君が許してくれるなら、私も……一緒に、いたい」

 そうっと顔を上げると、彼の双眸とぶつかった。心臓が大きく跳ねる。
 なんとか荒ぶる心臓を落ちつけながら、おそるおそる彼の手に左手を重ねた。

「傍に、いてくれる?」
「……勿論。言われずともそのつもりさ」

 その優しく微笑む顔があまりにもうつくしくて、私は思わず目を細めた。視界が滲み、自然と顔がほころぶ。

「ありがとう、零くん」