63 昔のような笑みを浮かべて

 目を覚ましてから数週間の間、私は先生が経営している病院――セキュリティがかなり頑丈で、患者に警察関係者やらが妙に多いこと以外は普通の病院だ――で入院していた。

 私の中にいたあの白いこどもが消えて、私に欠けていた様々なものが戻ってきた代償としてなのだろうか。身体の治りが以前に比べて格段に落ちてしまっており、いつもの倍以上の入院生活を余儀なくされた。白いこどもを知らない先生は痛みに喘ぐ私を見て「入院が長い? 今までが異常だッたンだよ」と呆れたように小さく笑うばかりだったが。

 私としては、今まであれで慣れてしまっていたのだから気になるのは仕方が無いことだと思っている。ほんの少し動くだけで身体のあちこちが痛くて痛くて堪らなかったが、それと同時に嬉しくもあった。やっと自分は普通の人間に戻れたのだと実感できたから。

 入院している間、たびたび……というかほぼ毎日、零くんは私の病室を訪れていた。時間帯はかなりまちまちであったから、きっと忙しい仕事の合間を縫ってきたのであろう。ほとんどグレーのスーツ姿だったし。

 彼は病室を訪れると、きまってベッドサイドにパイプ椅子を引いて来てそこに腰かける。そして30分から1時間にも満たないくらいの時間たわいもない会話をした後、満足げに去っていくのだ。
 昔のような笑顔を浮かべて。「また来るから」と言い残して。

 そういえば、彼と病院の関係者以外に私の病室を訪れた人物がふたりいた。

 ひとりはブレザー姿が眩しい、高校生くらいの少年である。名前は工藤新一くん。どこかで見たことがある顔だと思っていたら、東の高校生探偵と呼ばれる名探偵で、なんとあの賢そうな眼鏡の少年――コナンくんだというのだ。

 なんでも数か月ほど前にパパたちの取引を偶然目撃してしまい、組織が開発していた例の毒薬を飲まされて身体が小学生サイズにまで縮んでしまっていたらしい。縮んでしまった身体を元に戻すために、江戸川コナンという仮の名を名乗りながらずっと組織のことを追いかけていたんだそうだ。それは本当に悪いことをした。組織を代表して頭を下げると彼は「色さんが謝る必要は無いスから!」と慌てたようにフォローしてくれる。なんてよくできた子なんだ。

 どうやら彼は、零くんから頼まれてここに来たらしい。「忙しくて病室に顔を出せないから、代わりに話し相手にでもなってやってくれないか」とかなんとか。日本警察の救世主とまで謳われる名探偵である彼をこんなことに使うとはなんて贅沢な。そうは思ったが、彼自身別に嫌なわけでもないらしい。頻度はそこまででもないが、時折ひょっこり顔を覗かせては様々な話を聞かせてくれた。過去に解決した事件の話から学校での出来事まで話題は多岐に渡った。

 中でも彼が好んでよくした話は小説に出てくる"ホームズ"という探偵の話だった。彼はホームズが余程好きらしく、目をキラキラと輝かせて語る姿はまるで水を得た魚のよう。聞いているこっちが興味を持ってしまいそうなほど、楽しそうに話を聞かせてくれるのである。

 小説を一切読んだことが無い私が「そんなに面白いのなら読んでみたい」と小さく零してしまった時なんかは凄かった。まるで小さな子供の様にはしゃいで、「家に全巻揃ってるんで! 今度絶対持ってきます!」と私に宣言し、後日本当に全巻抱えてやってきたのだ。そのおかげで私のベッドサイドの本棚にはホームズの本がずらりと並んでいる。返すのはいつでも良いと言ってくれたが、読み終わるのが一体いつになるかは正直検討もつかない。

 もうひとりは、雨の日に出会ったあの小さな命の恩人。新一くんに連れられて病室へ入ってきた少女は、あの時と変わることなく大人びた様子で小さく笑っていた。「身体の具合はどうかしら」なんて言いながら。
 だが正直私はそれどころではなかった。少女に初めて出会った時に感じた、小さな違和感。あの時は気づかなかったその正体に、はっきりと辿り着いてしまったのだ。

「志、保?」

 そうだ、この子は宮野志保――組織内でも有名な、若き天才科学者シェリーの幼い頃の姿に瓜二つなのである。志保とその姉、宮野明美とはパパを通じて知り合い、それなりに関係を深めていたのだ。今まで記憶の引き出しをあの子どもが塞いでいたため思い出せなかったが、彼女の幼い頃の姿は私の頭の中にきちんと記憶されていたのである。

 完全に独り言のつもりだったが、少女には聞こえてしまっていたらしい。ハッとしたように目を見開き、じわじわと表情を歪ませたかと思うと、一目散に私に駆け寄って思い切り抱き着いた。……その様子を見るに、本人であるらしい。記憶の中の志保は確か18歳とかそのくらいだったが、きっとこの子も新一くんと同じように薬で小さくされてしまったのだろう。懐かしい姿をした少女の小さな背中にそっと手を回してやる。

「……色、お姉ちゃん」

 絞り出すようなか細い声は今にも泣きだしてしまいそうで。私が小さくもう一度名を呼んでやれば、少女の腕の力はますます強くなる。少女の顔が押し当てられた私の胸の辺りがじんわりと熱を持ち始めた。
 余程さびしかったのだろう。唯一の肉親である姉を亡くし、姉と称するほど心を許していた私すらあんな状態だったのだから、こうなってしまうのも仕方が無いと言える。そのまましばらく少女の背中をさすっていると、その一部始終を見守っていた新一くんが「こんな灰原初めて見た」と小さくぼやいた。

 それから彼女は頻繁に病室に訪れるようになった。今まで強がってきた分が一気に決壊したらしく、病室にいる間はほとんど私にべったりである。それはもう、他の人が思わず二度見するくらい。病室にこもっている私に向けられる裏表のない笑顔は、その姿も相まって本当に小学生のようであった。

 彼女が言うに、元に戻るための解毒薬は完成しているのだが組織の残党に狙われる可能性が無いとは言い切れない。そのためしばらくはまだ小学生の姿で仮の名前である"灰原哀"を名乗るつもりらしいのだ。本当の名前を呼ぶのはふたりの時だけにして欲しい、と私に念を押すくらいなのだからかなり警戒しているのだろう。

 因みに、私の病室に通うことで少女は先生とも仲良くなったらしい。医療に通じるもの同士、話が合うのだろう。退院したらあそこに行きたいとか言いながら、少女と先生と私の3人で女性誌の特集ページを覗き込んでいたことだってあった。こんな未来が来るなんて思わなかった、というのがその時の私の正直な感想である。

 そんな具合に、私の長かった入院生活はあっという間に過ぎて行ったのだ。


***


「……うし、特に数値に異常無し。これでやッと退院だな」

 先生はぱたりとカルテを閉じて言う。最終検査の結果が良ければ退院だと言われていたから結果を聞きに来たのだが、存外に良かったようだ。これで晴れて退院である。長い間お世話になりましたと頭を下げれば、先生はいつものように白い歯を見せて笑う。

「今度は何も無ェ時に遊びに来いよ。お前ならいつでも歓迎してやッから」

 そう言って私の頭を乱暴に撫でた。ぐわんぐわんと首がもげてしまいそうなほど。先生が手を離した隙に乱れてしまった髪を軽く整える。すると先生はああそうそう、と思い出したかのように話し始めた。

「ゼロが迎えに来るから待ってろッて言ってたぜ」
「零くんが」
「おう。アタシの予想だと、もうそろそろ……」

 するとそこで来客を告げるノック音がふたつ。どうぞと先生が声をかければ、がちゃりと扉が開いた。誰だろうと身体を捻って背後の扉に視線を向ければ、そこに立っていたのは噂の人物である。いつも通りグレーのスーツを身に着けた彼は、私を見つけるなり優しく微笑む。

「色、迎えに来たぞ。……帰ろう」

 まなじりが自然に下がるのを感じながら、私は彼の言葉にそっと頷いた。