03' 目を閉じてさえいれば

 少女に柔らかく微笑んだ男の脳幹めがけて引き金を引く。男は微笑みを崩すことなくどさりと膝から崩れ落ちた。スコープから目を逸らし双眼鏡で確認すると、崩れ落ちた男を中心に滑らかに赤黒い水溜りが広がっていく。その様子を、まるで何でもなさそうに少女は見ていた。

「色。任務完了だ。そのまま戻れ。車で拾ってやる」
『わかった』

 無機質な声で返答し、少女は双眼鏡の視界から外れる。ふう、とため息をひとつついてから煙草を咥え、火をつけた。夜風が細くたなびく煙草の火をさらっていく。

 まだ数回程度しかしていない少女との仕事は、毎回決まって驚くほど順調に進む。事前に指示されたとおりの場所に少女がターゲットを誘導し、油断した隙を見て俺が一思いにターゲットの命を刈り取る。行ってしまえば単純だがその実、何段階もの工程が必要な任務だ。

 煙草を咥えたままライフルを解体し、この場を離れる準備をする。するとインカムの向こうが何やら騒がしくなり始めた。

「色、大丈夫か」
『問題ない。すぐ行く』
「そうか」

 少女の返答の合間に、何人もの男の怒鳴り声と叫び声が混ざる。発砲音まで聞こえるようだ。だがほんの10秒もしないうちにそれは全て静かになった。どうやら本当に問題なかったらしい。ライフルバッグを背負うと、キャップを深くかぶりなおして屋上を後にした。

 見た目は中学生くらいのか弱い少女だが、彼女は組織屈指の戦闘員である。重力を感じさせない独特の体術も手ごわいが、本当に怖いのはナイフ捌きだ。仕事のたびに持ち歩いている大振りのサバイバルナイフ――噂によるとジンにプレゼントされたものらしいのだが――が少女の主な武器である。素人ならまず1本だってまともに扱えたもんじゃないが少女はそれを2本いっぺんに扱う。しかもそれらだけで銃器で武装した大柄な男数人を制圧してしまうのだというから驚きだ。

 初めは俺だって信じられなかった。少女が戦闘中の防犯カメラ映像を見た時はそれこそ、自分の目を疑ったくらいだ。『本当に目の前の少女は人間か?』と。

 ビルを後にし、自身の車に戻る。そして少女と待ち合わせをしている場所まで、音も無く向かった。少女はとっくについていたようで、ぼんやりとまるで幽霊のようにそこに立ち尽くしていた。少女の目の前に車を付ければ、ふと視線が上がりこちらと目が合う。

「助手席に座れ。いつもの通り、鍵は空いている。座ったらシートベルトをしめろ」

 一方的に俺がそう言えば、少女は小さく頷いて言われたとおりにする。
 少女と暮らし始めて、少女の扱い方が段々わかってきた。言われなければ何もできないというのなら、初めから詳しく口で指示をだしてやればいい。ただそれだけの話だった。少々手間だが、慣れてしまえば特に問題は無い。

 俺に指示されたことを一通り終え、助手席にいる少女が次の指示を待つようにこちらを見てきた。俺はそっと少女の頭を撫で、出来るだけ柔らかい声色で言ってやる。

「仕事は終わりだ。家に着くまで、少し休め」

 すると少女は小さく頷き、音も無く瞼を閉じる。そしてくたりと意識を失った。それを見届けた俺はそっと車を発進させる。

 少女は自身の身体の調子を把握するのが格別に下手らしい。身体が限界になるまで動き続け、次の瞬間倒れて意識を失う、なんてことも何度かあった。

 それからというもの、俺は少女の体調管理にも少しばかり気を遣うようになったのである。とはいっても別に特別なことはしていない。なるべく空いた時間を見つけて「休め」と言ってやる。それだけだ。それだけで少女は、そういうプログラムを仕組まれたロボットかの様に瞼を閉じて眠りにつくのである。

「目を閉じてさえいれば、普通の子どもなんだがな」

 夜の首都高を走りながら、俺は独り言ちる。運転中に音楽を聴く趣味も無いため、車内は静寂が支配していた。高速道路を照らすオレンジや白の外灯たちが車内を撫でては後ろに流れていく。

「――ぃ……」

 唐突に声が聞こえた。蚊が鳴くようにか細く、一瞬で雑踏にかき消されてしまいそうな、僅かな声。
 しかもどうやらその声を発したのは、助手席で眠りに落ちる少女らしい。こんなことは初めてだった。少女が寝言を零すなんて。だが初めの方があまり聞き取れなかったせいで、一体何を言っていたのか見当もつかない。もう一度言わないだろうかと僅かな期待をこめて、助手席に聞き耳を立てる。
 すると今度は確かに、聞こえた。

「…れ、ぃ……くん」

 "れいくん"

 『くん』という呼称を付けたということは、誰か人の名前だろうか。だが組織に"れい"なんて名前の者はいなかったはず。……だとしたら、組織以外の人間だろうか。組織の人形とまで言われる少女が、どうして組織以外の人間の名を?

 たかが夢だ。どうせただの寝言だ。そう切り捨ててしまえば全てだということくらい、俺もよくわかっている。だが、どうしたって少女の声が耳から離れない。たった一言が、たった4つの音が、どうにも消えてくれない。目を覚ましたら聞いてみようか、という考えが浮かぶが、それを自ら否定する。聞いたところでどうなる。どう声をかけたらいいのかも、俺にはわからないのに。静かに、ハンドルを握る力を強める。

 ――夜明けは、まだ遠いようだ。