厚く重苦しい雲が上空を覆っている。
近いうちに一雨来そうだなと思いながら俺はハンドルを切って交差点を右折した。
そんな俺の隣には今日も色が静かに座っている。生憎運転中であるためそちらの様子を窺うことは出来ないが、どうせいつもと変わらぬ無表情をしているのだろう。すっかり見慣れた光景だが、それも今日で一旦一区切りだと思うと少しばかり感慨深いものがあるような気がしてくる。
今日の任務は組織内でも古株の幹部であるジンとの仕事だ。
そう。組織に潜り込んで早数年、ようやく奴との仕事に漕ぎつくことに成功したのである。その連絡をメールで貰った時は流石に口角が上がるのが抑えられなかった。周りに誰も居なかったのが幸いだと言っても過言ではない。
信号が黄色から赤へ滑らかに移り変わる。ブレーキを踏んで静かに停車した。目の前の横断歩道を、仲睦まじい様子の親子が渡っていく。エンジン音だけが響く静かな車内で、俺は静かに目を伏せた。
ジンとの仕事が日本で行われる……ということはつまり、彼は無事に帰国したのだろう。そしてそれは必然的に、色との共同生活の終了を現している。
約一ヶ月と少し。今考えれば、長いようで存外短い期間だったように思う。初めにジンに世話をしろと言われた時は何勝手に押し付けているんだとばかり思っていたが……それが、こうも慣れてしまうとは。当時の俺が見たら随分腑抜けたなとでもいいながら笑うだろう。
結局当初の目的であった彼女からの組織に関する情報はほとんど得ることは出来なかった。それもそうだ。アークが言うには、彼女が俺の元に送り込まれたのはNOCであるかどうかを見極めるため……迂闊に喋らないように訓練されていて当たり前だろう。
当の組織の方はといえば、今のところ俺に対して何のアプローチも仕掛けてこない。ひとまずNOCだという疑いからは逃れることができた、と判断していいだろうか。そうであることを信じたい。そうでなければ、今回の作戦が水泡に帰す可能性が高まってしまうのだから。
……今回の任務は、ただの任務ではない。
実はジンとの仕事が決まった際、これを絶好のチャンスだと考えた俺は上司と密かに連絡を取り合い、ジンを捕縛する作戦を立てていたのだ。実際に今も水面下で数名のFBI捜査官が動いている。
今回の作戦でジンを捕えることができれば、組織壊滅への大きな一歩となるだろう。そうなれば万々歳だ。俺の報告を待つFBIの同僚や上司、今までに組織へ潜り込んで、その功績が実を結ぶ事無く犠牲になってしまった同胞たちのために。……そして何より、俺自身の目的の為に。なんとしてもやらなければ。
ぱっと、信号が青に変わった。
発進する直前、何とはなしにちらりと隣を見やる。
相変わらず何も映さない瞳が、無感情にまっすぐ前を見据えていた。
***
車は実に順調に走り、時間よりも少し早めに指定された場所についた。車を目立たない場所に止め、ふたりで薄暗い倉庫街を歩く。天気が悪いということもあってか出歩いている人はひとりもおらず、辺りはしんと静まり返っていた。じゃり、と荒れたアスファルトを踏むふたり分の足音だけが響いている。
指定された倉庫に辿り着いた。あとはジンを待つのみである。倉庫の壁に軽くもたれながら胸ポケットから煙草を取り出し、火をつける。ふっと紫煙が立ち上ったところでぽつ、と地面に一滴の雫が落ちた。それは次第に2、3と増えていき、ついにはざあっと本格的に降り出してきてしまった。
倉庫の外には申し訳程度にせり出した屋根があるが、正直心もとない。これからさらに強くなることを考えると、こんなわずかな屋根では防げそうにないだろう。
仕方なく倉庫の中に入ってしのぐことにする。扉を開けておけば恐らく気付くだろう。俺は色と共に倉庫の中に足を踏み入れた。
長らく使われていないであろうそこは酷く散らかっていて、その上埃っぽかった。光源が乏しいためぼんやりと薄暗く、空気もどこか澱んでいる。外が雨でなければ正直あまり長居はしたくないような場所だ。煙草の煙を吐きだしながら俺は近くの木箱に腰かける。古びたそれは俺の重みを受けてぎしりと音を立てた。色は相変わらず無表情のまま、俺の右隣に立ち尽くしている。
……それにしても。
「遅いな」
俺はぽつりとつぶやく。もうとっくに指定された時間は過ぎている。だが一向に奴は姿を見せることはなかった。奴が任務の時間に姿を現さないなんてどう考えてもおかしい。俺はわずかに眉をひそめる。まさか知らない間に何か変更事項でもあったのだろうか。そう思いつつ携帯に手をかけた。
その時。
――ひゅ、ッ。
わずかに空気が揺らぐ気配を感じて、ほとんど反射的に正面へ飛んだ。
背後でガラガラ、と何かが崩れる音がする。
素早く体勢を立て直して、そちらを見た。
……思わず目を見張った。
無残な姿に変わり果てた木箱。
舞い立つ木屑と埃。
その中心に――
「……」
――父親から贈られた愛用のナイフを手にした色が立っていた。